闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百二九節/『お前を愛さなければならない』】

 一番古い記憶は、暗闇の中にいたことだ。

 真っ暗な場所に一人で置かれた彼は、何をするでもなく蹲っていた。石造りの床の冷たさは、ボロ切れのように薄い服では防げない。だが、震えるだけの力も残っていなかった。

 扉が一枚あり、その隙間から光と姦しい声が漏れ出ていた。女の嬌声、男の笑い声。食器同士が触れ合う音が聞こえるたびに、胃のあたりを締めつけるような空腹感が喚起される。それまで何を食べていたのか思い出せないが、きっと、ろくなものではなかったのだろう。

 永遠に閉じたままかと思っていた扉が開く。当然のことだ。そうでなければ、話が前に進まない。

 ただ、彼にとって幸福であったのかは分からない。部屋に入ってきた男の言い放った一言が、彼の記憶に残る一番古い言葉だった。

『こんなのしか残っていなかったのか』

 心底軽蔑し切ったような、否、そも人として見ていないかのような口振りだった。その男の片腕に女がしなだれかかり、なだめるような猫撫で声で言った。

『仕方が無いでしょう、必要になるなんて思ってなかったんだから。でも、奥方の噂のこともあるから、いつか貴方の役に立つかもしれないと思って……』

『そう言う割には扱いが杜撰だな』

『だって、子供がいるなんて知れたら、客が取れなくなるもの。私にだって仕事があるんだから』

『……淫売め。口外したらどうなるか、分かっておるな?』

『ええ。でも、お腹を痛めただけの見返りは貰うわ。その間取れなかった仕事の分もね』

『勝手にしろ』

 男はその分厚い手で彼の金色の頭髪を掴み、乱暴に引き立たせた。だが、やせ細った両脚には力が入らず、まともに立つこともおぼつかない。男は苦々しげに舌打ちした。

『軟弱者め。この上なく忌まわしいことだが、貴様には私の家名をくれてやる。古い名前を捨て、新しい名前のもとで生きろ』

 彼は、乾いた口腔のなかでわずかに舌を動かし、その上で耳慣れない己の名前を転がした。
 その名前が何を意味するのか分からず、家名の重大ささえよく分からなかった。それほどまでに、彼は何も知らない状態で置かれていたのだ。

 それでも二つ分かっていることがある。

 ひとつは、自分が「父親」から決定的に憎まれているということ。あの表情や態度、言動を見て、よもや大切にされるなどと思う者はいないだろう。

 そしてもうひとつ。そんな人間の元へいくのだから、自分は絶対に幸福にはなれないという確信だった。

 自慢げに証明するつもりもなかったが、二つの予想はどちらも的中した。

「父親」である先代当主は、彼の存在そのものを疎ましく思っているようだった。後になって理解出来たことだが、由緒正しき貴族である父にとり、娼婦の腹から生まれた子供はさぞ忌まわしい存在だったことだろう。父は後継ぎを必要としながら、誰よりも彼を嫌い、呪っていた。

 だからだろうか。そんな父親の非情さを隠すかのように、新しい母親はしきりに彼に向かって『愛している』と言った。

『あなたを愛しているわ。お前はあの人の息子なのだから』

 その言葉の元、母は貴族としての礼節と教養を叩き込んだ。

 スープを飲むとき、少しでも音を立てて啜ると即座に鞭が飛んだ。翌日の夕食まで何も与えられず、空腹を訴えることも、姿勢を崩すことも許されなかった。服で隠されている場所には余すところなく痣が出来た。

 踊りの練習として足の皮が破れるまでステップを踏んだ。たとえ靴の中に血が溜まっていようと、洗練された笑みを忘れてはならない。それまで自分がどんな表情で生きてきたのか忘れるほど、彼の表情は改造された。

『私はあの人を愛しています。だからお前のことも愛しています』

 文字さえ満足に知らなかった彼のため、母は昼夜を問わず書物を読ませた。愛の言葉の元、彼女自身も目を見開いて夜通し傍に立ち、少しでもまどろむ様子があれば即座に髪を掴んで引き起こした。

 言葉遣いは、常に慇懃で文法に適っていなければならない。冗談にも付き合わなければならないし、豊かな知見も備えていなければならない。求められるものはあまりに多かった。

『誤解しないで。愛しているから、あなたに一人前の貴族になってほしいのよ』

 愛とはそういうものなのだろうな、と彼は思った。もとよりその言葉の持つ意味などよく分からない。彼が実感する「愛」には、常に痛みがつきものだった。

 ただ、自分に向けられる「愛」が歪んだものであるという事実には、薄々気付いていた。ある程度の準備が整うと彼は人前に出されるようになったが、その時の母親のふるまいは、普段と全く異なっていた。愛おしそうに彼を抱き寄せ、金色の髪に口づけした。

 おそらく、愛は舞踏会の時にしか姿を見せないのだろうな、と思った。

『あなたを愛しているわ。だから、誰よりも強い人でいてほしいの』

 母の愛は、剣の修練においてもっとも苛烈に発揮された。元々継火手であった母は、剣をはじめとしてあらゆる武術に精通していたし、力も強かった。

 武術の修行である以上、痣が出来ても何の問題も無い。むしろ熱心に取り組んでいる証拠として扱われた。修練は奥まった部屋で隠れるように行われ、その中で、彼は何度も叩きのめされた。

 顔を打たれることは決してなかった。それ以外の場所は、どこもかしこも、毎日くまなく痛めつけられた。指などしょっちゅう骨折したし、口から文字通り血反吐を吐いたこともある。打ちかかっては吹き飛ばされ、地面に横たわると何度も追い打ちをかけられた。

 本物の剣が使われなかったのは、愛に狂った母の理性の表れであろう。

 もし手に持った剣が鉄で出来ていたなら、生き延びることなど出来なかったはずだ。

 彼は愛の名のもとに痛めつけられ、そして徐々に力をつけていった。

 感情を乗せて振るわれる母の剣線も、しだいに見切れるようになっていった。ある時期からは受けることも困難ではなくなり、むしろその乱雑さが目に付くようになった。
 衝動のままに振るわれる剣など脅威ではない。その実感のもとで、彼は己の剣術を磨き続けた。

 それは向上心によるものではなく、犬が芸を覚えていくようなものだった。自分が日に日に力を持った人間へと変わっていくことを自覚していたが、何のため、誰のためにそうしているのか、よく分からなかった。


 どうして自分は生きているのか、分からなかった。


 ある日父が死に、自分が当主になるのだと告げられた時も、彼は無感動なままだった。ただ、与えられた道を黙々と歩むのみだと思った。分からないことを悩みはしなかった。やるべきことはあまりに多く、それに没頭してさえいれば、逡巡することも苦しむこともないのだから。

『あなたは立派な領主にならなければいけないの。私は、そんなお前を愛さなければならない』

 領土継承のため首都に向かう道すがらも、母は何度もそう口にした。彼は完成された笑顔でそれに応じ、深くは考えなかった。

 これまでと同じことをこれからもずっと続けていけば良い。自分は何も疑いを持っていないし、不満も無い。だから、母も勝手に「愛して」くれていたら良い。


「愛」とはそれくらい無味乾燥で、軽々しいもの。歪んでいて、盲目的で、弱さの表象なのだと。そう思っていた。


 エマヌエルと出会うまでは。



◇◇◇



 彼女の声を思い出す直前で、オーディスの夢は途切れた。彼以外に誰もいない寝室は静寂に包まれている。燈台の遮光壁はとうに降り、窓の外には夜闇が広がっている。

 寝台の上で上体を起こすと、オーディスは苦笑交じりに己の顔を拭った。枕元に置いた水差しを手に取り、グラスの中にぬるい水を注ぐ。ひどく喉が渇いていた。嫌な夢、とは思わない。今は「母親」に感謝している。彼女の虐待めいた教育が無ければ今の自分はなく、したがってエマヌエルとの出会いも無かったのだから。

 水を喉に流し込む間、オーディスはあの日エマヌエルと出会った時のことを思い出していた。

 それまで自分は誰かを心底愛することもなく、また愛される実感も覚えたことがなかった。もとより卑賎な身分で生まれた我が身だ。荒んだ環境下でまともな感性を育むことなど不可能に近い。
 だから、自分自身に価値を見出すこともなければ、誰かにために何かをやろうという意思も無かった。与えられた仕事を黙々と、淡々とこなすだけの存在……あのままいけば、自分は上っ面だけは立派な人形と化していただろうとオーディスは思う。

 エマヌエルは、人形だった自分に心を与えてくれた。

 痛みを知らないことは異常だし、誰かを愛さない人生は虚しい。そんなごく当たり前のことを彼女は教えてくれた。一人の女性として、そしてそれ以上に、一人の人間として、心から尊敬していた存在だ。
 そして今でも、その想いは変わっていない。

 オーディスは立ち上がり寝室を出た。静まり返った城内を通り抜け、ある尖塔の階段を登っていく。頂上には小さな部屋があり、合鍵を差し込み開くと埃が飛び散った。ところどころ蜘蛛の巣が張っており、半ばガラクタと化した骨とう品があちこちに転がっている。

 それらは全て偽装だ。

 小部屋の奥に一本の長剣が立て掛けられている。手に取り、ゆっくりと刀身を引き抜くと、鈴の鳴るような清廉な音が響いた。

 伝統的な形の長剣だが、その刀身は白色金に輝く鉱石によって出来ている。伝説の鉱石であるオレイカルコスに高純度の聖銀を加えた合金だ。

 かつてエマヌエル自身が手に取り、救征軍の先頭で振るい続けた剣。彼女が戦死した時、一房の髪とともに持ち帰ることが出来た唯一の遺品だ。本来ならば王室に返還しなければならないものだが、エマヌエルとの絆で形として残っているのは、この剣だけである。オーディスには手放す気など毛頭なかった。


「エマ……私はもう一度エデンを目指す。君が果たせなかったことを果たし、君の意志を世界に刻んで見せる。そうすれば、君は……」


 ふと我に返った。剣に語り掛けるなど、どうかしている。今日の昼間、ヒルデに向かって死者は生き返らないと言ったばかりだというのに。

 オーディスは剣を鞘に戻し、再び目立たないよう部屋の片隅に立て掛けた。明日も朝早くからやらなければならないことが山積みになっている。変な夢さえ見なければ、今からでも深くは眠れるだろう。

 そう自分に言い聞かせ、オーディスは扉を閉めた。

 暗闇の中で、立て掛けられた剣の鞘口が白く瞬いたことには、気付かなかった。

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