闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百二七節/イスラの価値】

 城の一室で、カナンは大きな姿見に向き合って立たされていた。周りにはオーディスの命を受けた使用人達と、様々な服を抱えたヒルデが付き添っていた。

 エルシャから使い続けてきた服は、先日の反乱鎮圧の際にイスラによって着潰されてしまった。風読みの里でもらった服や、パルミラで買ったスカートとブラウスも持っているが、これから先はフォーマルな衣装の方が必要になる。そこで、ヒルデに手伝ってもらい新しい服を選ぶことになった。

 辺境伯の衣装部屋というだけあって、壁際にはいくつもの衣装棚が据え付けられている。元々女性用の服だけを集めていたようで、華やかなドレスやローブが所狭しと吊るされていた。

 だが、それらが頻繁に使われている様子も無い。保存のため念入りに手入れはされているようだが、人間に使われることによって染み付く体臭や、布の柔らかさも感じられなかった。

「ずいぶんたくさんの服がありますね」

 ブラウスを脱ぎながら、カナンは何気なく訊ねてみた。

「オーディスさんのご家族は……?」

「父君は、随分前に亡くなられました。母君も三年前、遠征の失敗とほぼ同時期に亡くなられて……それ以来、この部屋も使われていなかったはずです」

「じゃあ、この服はオーディスさんのお母様のものですか?」

「大半はそうだと思います。でも、一部はエマヌエル殿下のものですよ。たしか、あのあたりに……」

 ヒルデは侍女たちと一緒になって衣装棚に顔を突っ込んだ。置いてけぼりにされたカナンは、脱いだブラウスを胸元に引き寄せた。

「エマの、服……」

 そう呟いた時、ふと自分が歩んできた旅路の不可思議さを思った。三年前にエマヌエルと出会った時、自分が闇渡りの難民たちを率いてエデンに向かうなどとは想像も出来なかった。ましてや、エマヌエル本人とは二度と会えず、彼女の遺した服を選ぶことになるなど。

 これまでの人生のなかで、自分は様々な人たちと、様々なえにしを紡いできた。良いものもあれば悪いものもあるし、そのどれもが、全く異なった色で染め上げられている。一つ一つが特別であり、唯一無二の関係性だ。

 それでも、エマヌエルという人物の面影は、カナンのなかに強く刻み込まれていた。

 カナンにとって、自分を真に理解してくれたのはエマヌエルただ一人だ。そして彼女もまた、あの短い謁見の間にそれを悟っていたことだろう。これは自意識過剰ではない。両者の間で、言葉を交わさず、ほぼ無意識のうちに結ばれた合意だったのだ。

 煌都という生存圏の中で、同じ上流階級の継火手として生まれ育った。しかも、他の少女達が持ち得ない特殊な天火をその身に宿して。

 もし自分の天火が平凡なものだったら、こんな性格にはならなかったに違いない。自然と皆の中に溶け込み、もっと特権を享受して生きていたに違いない。

 だが、限定的な同族の中で、さらに限定された存在であることが、返って彼女達に客観性をもたらした。


 なぜ自分なのか。なぜ、この力が宿ったのか。


 カナンとエマヌエルは、そんな共通の疑問を通して、自身の地位や権力そのものを疑うに至った。

 同じ事はウルクのベイベルにも言える。だが彼女の場合、抱いた疑問を呑み込む道を選んだ。己を怪物と定義することで、生まれながらの特異性に人格を一致させようとしたのだ。
 だから、カナンは可逆的に彼女の心理を読むことが出来た。もし思考過程が違っていれば、程度の差はあれ自分も同じようになっていたかもしれない。ウルクを脱出して以来、カナンは時々そう思うことがあった。


(エマヌエル白炎ベイベル黒炎……そして蒼炎。どうして色付きの天火は現れるの?)


 そう考えた時、ヒルデが「ありました!」と声を上げた。



◇◇◇



 カナンが着替えのために連れ込まれている間、当然ながらイスラ達は待機を命ぜられた。オーディスも用事があると言い残して席を外している。

 部屋の中には弛緩した空気が漂っているが、各人が親しんだ結果というより、知人同士がグループを作って話し合っているような状況だ。

 イスラは相変わらずマイペースに振る舞っていた。タルトは思う存分満喫したので、今は腹が膨れ過ぎない程度に水を啜っている。カナンの守火手であるにも関わらず、ラヴェンナ側の人間で進んで彼に話しかけようとする者はいなかった。

 だが、全くの無関心というわけでもない。イスラは、時折向かい側の席の人間から好奇の混ざった視線を向けられていることに気付いていた。それでも話しかけてこないのは、やはり彼が闇渡りであるからだろう。いきなり人種の壁を越えて声を掛けられる者など滅多にいない。

 知らず知らずのうちに、イスラはその場の中心となっていた。もっとも、本人はそのことに対してほとんど意識を向けていなかったが。

 だから、会話のきっかけを作るのは、必然的に難民団の人間に任された。サイモンは誰かに促されるわけでもなく、ぽつりと口を開いていた。

「なあ、イスラ」

「なんだ?」

 短いやり取りにも関わらず、話し合ってきた貴族たちの目はおのずとイスラへ向けられた。

「お前さ、さっきわざとはぐらかしたんじゃないのか?」

「はぐらかした、って。何をだよ」

「お前を皆に紹介した時だ。自分でも分かってるんだろ? 普段から眉間にシワを寄せてるお前が、あんな変なとぼけ方をするなんて……」

 そこまで言われて、イスラはようやくサイモンの言わんとしていることが理解出来た。というのも、彼自身は本気でタルトに夢中になっていたため、別にはぐらかそうと意図してやったわけではない。つまり、天然だった。

「考えすぎだサイモン。俺は本当にあのタルトが美味いと思って食ってたんだ。それに、お前の話の振り方だって唐突過ぎるぜ。あれは、俺がはぐらかしたんじゃなくて、反応に困って何言ったら良いか分からなくなっただけだ」

「……そうなのか?」

 サイモンはなおも疑わし気な表情を見せるが、イスラは手をぶらぶらと振って見せた。
 代わって、ペトラが話を引き継いだ。

「まあ、あたしらがあんたをアテにしてるってのは本当のことさ。それこそ、カナンと同じくらいにね」

 イスラは苦笑した。「そりゃまた、大きく出たな」と呟く。

「俺なんてただの闇渡りに過ぎないよ。あいつみたいに何か大きなことが出来るわけじゃ……」

「……あんた、本気でそう思ってるのかい?」

 ペトラは探る様に彼の目を覗き込んでみた。だが、イスラに嘘をついている様子は無い。本当に、本心からそう思って言っているのだと確信すると、それまで彼女がイスラに対して抱いていた印象が大きく揺らいだ。

 実のところ、ペトラはイスラと一対一で深く話し合ったことが無い。仕事の割り当て上仕方のないことだし、難民団の副長格であるペトラと、役職上は一戦士に過ぎないイスラが関わり合う機会も少なかった。

 もちろん、それはイスラが軽んじられてきたという意味ではない。むしろ、一戦士に過ぎないにも関わらず、自分達は知らず知らずのうちにイスラを強力な戦力とみなして頼ってきた。

 ふと、ペトラは考え込む。

(こいつ、って……)

 目の前のイスラが軽く首を傾げる。

(あたしらにとって、何なんだ?)

 自分達にとってのカナンは、非常にはっきりした存在だ。最終的に指導者、という一単語に集約できる。

 だが、イスラはどうなるのだろう?

 仲間。それは間違いない。カナンの守火手にして歴戦の闇渡りであり、勝負をつけるための切り札。しかしそれらは全て、何らかの地位や階級を約束するものではない。彼個人の、いわば称号のようなもので、集団や組織内における立場を保証するものは何も持っていないのだ。

 そうしたあやふやな存在にも関わらず、イスラの存在は難民たちにとって掛け替えのないものになっていた。パルミラに残留した者達も、新たに抱え込まれた闇渡り達にしても、闇渡りのイスラは「ただの」とか「普通の」といった言葉では表現しきれない存在になっている。

 エルシャからウルクまでの困難な旅程の中で、徹底してカナンを守り続けた。黒炎の魔女と戦って生還し、数百年ぶりの戦争では大将首を討ち取る武勲を見せた。これだけのことをやったにも関わらず、イスラはただの一兵士として扱われている。

 今まではそれで良かった。イスラ自身が地位や権力を望んでいないことは明らかだし、カナンもまた、徒に身辺の者を取り立てることを避けてきた。

 だが、これからはそうはいかない。ラヴェンナの貴族たちに対して、ただ守火手という立場だけでイスラを放置しておくわけにはいかない。

「カナンの宿題が、増えたねえ……」

 ペトラは腕を組んで唸り声を漏らした。
 恐らく、イスラ本人は自分の地位や立場について何も考えていない。いや、考えられない。権力欲の無さも、地位に対する無頓着さも、自分自身を過小評価することも、全て彼が孤独に生きてきたことと関係している。それくらいの推論はペトラにも立てられる。

 集団から離れ、個人として生きてきた彼は、社会というものに対してほとほと無頓着だ。人は結局、社会や他者によってでしか評価を得ることが出来ない生き物なのだ。

「何だよ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」

 イスラはぶっきらぼうに言う。ペトラは何と答えるべきか迷った。カナンのように上手く表現することは出来ないし、この場で言うべきなのかどうかも判断に困る。

 だから、結局出てきた言葉も微妙に歯切れの悪いものになった。

「あんたは……もっと、ちゃんと自分のことを見ないといけないよ。悪い方にじゃなく、良い方にね」

「どういう意味だよ?」

「あたしも上手く言えないんだよ。だけど、一つ言えることは、あんたは自分自身のことを軽く見過ぎてるんだ。それは良くないよ。絶対にね」

「そうかな」

 そういう風に言われたのは初めてだった。イスラは少し困惑したが、深く考え込むより先に、着替えを終えたカナンが広間に戻ってきた。

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