闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百二五節/カナンの泣き所】

「おい、イスラ……?」

 サイモンが、ぴったりと閉ざされた天幕に向かって怖々と声を掛ける。つい先ほどまで悲鳴や嗚咽が聞こえていたが、今は墓場のように静まり返っていた。

 皆で天幕を取り囲んでいるが、誰もそれを開けようとしない。中を覗き込もうとする者もいなかった。

 むしろ、声を掛けようとするサイモンの勇気に感心していたほどだ。

「仕事は終わったぜ。機嫌直しに一杯やろうや、な?」

「……そいつは名案だ」

 はじめてイスラの返事が聞こえた。が、その声は魔王が喋るかのような低音だった。

 天幕の中から、殴り倒されて気絶した闇渡り達が投げ捨てられる。そして、冬眠から覚めた空腹の熊のように、イスラがのそりと姿を現した。片手には、他と同じく気絶したサロムの脚を掴んでいる。


 清楚な白いブラウスは袖の長さが足りず、緑色のチョッキはパンパンに膨れ上がっていた。脚線の浮き出る茶色のズボンは、森の中で鍛え上げられた闇渡りの脚の筋肉をこれでもかと浮かび上がらせていた。


 見知った者なら一目で分かるだろう。これはカナンが日常的に着ていた服である。エルシャを出て以来、洗っている時以外はほとんど毎日のように着ていたのだが、さすがにぼろぼろになっていた。

 その傷みぶりと不釣り合いさ、さらに顔を顰め目元を痙攣させているイスラの顔が合わさると、なかなか忘れられない気持ち悪さがある。

「……オーディスはどこだ?」

 イスラが金色の目を動かすたびに何人かがその場から後ずさりした。獲物を探す狼のように首を巡らせ、やがて目当ての人物を人混みの向こうに見つけると、気絶したサロムを引き摺りながら突進していった。

「オーディスッ! オーディス・シャティオン!!」

 途中で目を覚ましたサロムが「ぎゃっ」とか「ひっ」とか悲鳴を上げているのだが、そんなものなど今のイスラの耳には届かなかった。

 当のオーディスはというと、治療に駆けまわるカナンの隣で事務的に損害報告を読み上げている。とは言っても、人的損害は皆無であり、せいぜい駄目になった天幕が三つとゴーレムの起動に使った呪文付きの鉄片くらいだ。

「オーディス!」

「怒鳴らなくても分かるよ。ご苦労だった」

「苦労はしちゃいないさ……こんな格好させられた以外はなぁ……!!」

 今にも飛び掛かりそうなイスラを前にしても、オーディスは普段通りの穏やかな微笑を崩さない。周囲の人間も、それが豪胆さなのか無神経さなのか判断しかねるところだった。

 今回の作戦を立案し、実行まで移したのはオーディスである。元々難民の中に反乱分子がいることは分かり切っていたし、それをどこかで叩いておく必要があった。それも中途半端にやるのではなく、徹底的に叛意を潰しておかなければならない。

 そのためには圧倒的な力の差を見せなければならない。こんな状況下で反乱を企むような阿呆には、それくらいしなければ分からないだろうからだ。

 だが死者を出すわけにもいかない。カナンやオーディスをはじめとした指導者層が必要以上の暴力を行使すれば、他の叛意を持っていない闇渡り達まで警戒させてしまう。そうなれば、鎮圧する以前よりもさらに厄介な状況になってしまう。

「……と、そう説明したはずだが?」

「そこまでは分かる! けどなあ、こんな格好をする理由なんて無いだろうが!」

「いや。君がそうやってピエ……失敬、ふざけた役を請け負ってくれたおかげで、良い具合に空気が和らいだはずだ」

「おい、今、なんて言いかけた?」

「何も? ともかく、ユーモアは大切だ。特にこういう緊張した状況下ではな」

「こいつ……っ!」

 なおも噛みつこうとするイスラだったが「そこまで」とカナンに頭を小突かれた。

「あんまり怒ってばかりだと、今よりもっと怖い顔になっちゃいますよ?」

「……ほっとけ」

 やっぱり気にしてたんだ、と思いつつ、カナンは足元に転がされたサロムの前にしゃがみ込んだ。顔中真っ青に腫らしたサロムは後ずさりしようとするが、カナンはにっこりと笑って手をかざした。

「今から傷を治しますから、動かないでくださいね」

 カナンの右手が蒼い炎で包まれる。サロムは恐怖に顔を引きつらせるが、口の中まで切れているため唇が奇妙な形に歪んだ。

 だがカナンの天火がサロムを焼くことはなく、光となって傷口のなかに注ぎ込まれていく。それはサロムにとって信じられないような体験だった。あれだけしこたま殴られたにも関わらず、そんな事実など最初から無かったかのように傷跡が消え去ってしまった。自分とは一生縁が無いと思っていただけに、その力の神秘性が一層際立つような気がした。

 何より、自分がはずかしめようとした女性から、こんな風に慈悲を垂らされたこと自体、衝撃的なことだった。

「……もうあんなことを考えたらいけませんよ?」

 顔を上げると、すぐ目の前にカナンの蒼い瞳があった。そこには無神経な説教臭さは微塵も無く、むしろ深い実感と経験と、それを超えてサロム達を赦そうとする穏やかな優しさだけがあった。

 この日、サロムの前歯の一本は欠けてしまった。だがイスラの放った拳よりも、カナンが去り際に残した言葉の方が、どんな一撃よりも重たかった。



◇◇◇



「そこまで怒るくらいなら、最初から作戦に参加しなければ良かったのだ」

 木の幹にもたれ掛かったオーディスは、藪のなかで着替えるイスラにそう声を掛けた。ベルトの金具を鳴らしながら、イスラは「そんなこと出来るかよ」と答えた。

「万一失敗したり、あいつの身に危険が及んだらどうする。取り返しのつかないことになる」

「当然だな。しかし、君が最終的に女装を呑んでまで作戦に加わった理由は、それだけではないのだろう?」

「……」

 イスラの脳裏には、当然アラルト山脈での一件があった。オーディスがカナンを囮にしたこの作戦を打ち出した時から、ずっと考え続けていたことだ。

 あの一件は未だにカナンの中に深い傷を残している……と、イスラは思っている。内容が内容だけに深く突っ込むことも出来ず、カナンも話したがらないのだが、時折彼女が見せる「性」への過敏さだけはどうしても隠しきれていない。

 サウルが動き出した当初、壊滅した村の生き残りを保護したことがあった。行き場を失ったその少女は、最終的に難民団ではなく妓館に入ることを選んだのだが、その時カナンが見せた苦渋の表情をよく憶えている。

 恐らくカナンにとって、「性」に絡んだ問題ほど厄介なものは無いのだろう。イスラの憶えている限りでは、カナンが煌都を飛び出した理由の一つにそれが含まれている。


『煌都に居る限り、私はカナンという名前のついた商品に過ぎません』


 アラルト山脈でカナンが言っていたことだ。

 継火手として絶対に子孫を残さなければならない立場にある以上、カナンは絶えずこの問題を意識してきたはずだ。だからこそ、あんな連中・・・・・の跋扈しているエルシャに嫌気がさして、飛び出す道を選んだのかもしれない。

「……でも、俺に何が出来るってわけでもない、な……」

 脱ぎ捨てたカナンの服を拾い上げながら、イスラはぽつりと呟いた。

 これは結局、カナン自身がケリをつけなければならないことだ。求められれば助言はするし、してあげられることは何でもしてあげたいと思う。だが、カナンの方から積極的に何かを求めてくることも考えにくかった。

 ふと、イスラは自分の唇に触れてみた。そこにはまだ、カナンと交わした口付けの感覚が残っていた。

 ただ、そこから先に進むのは、しばらく出来そうにないな、と思った。

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