闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百ニ十節/狼達の牧者】

 ティグリス川の河畔に集められた闇渡り達は、都軍二千の包囲下で肩を寄せ合っていた。

 そこには最早、新たな王国を打ち立てんとした威勢など微塵も残っていない。また、サウルの扇動に乗じた主戦派も、ほとんどが戦場で命を落としてしまった。戦える人間は五百人ほどしか残っておらず、そのことごとくが伐剣を取り上げられていた。

 武器も戦意も取り上げられた彼らの胸中は、屠殺場に連れ込まれた家畜となんら変わらないだろう。

 だから、カナンが蒼炎を宿した杖を携えて訪れた時、六千人に及ぶ闇渡り達が一斉に彼女を見やった。

 視線は無数にあるものの、その種類はいくつかに分類出来た。

 ほとんどはカナンに対して不安げな表情を向けている。中にはあからさまに恐怖の念を見せる者もいた。
しかし、そう見られるのも無理からぬことだ、とカナンは思った。

 今の自分は彼らの命運を担う立場にある。つまり、何もかもカナンの胸先三寸というわけだ。おまけに、彼女には熾天使級法術という恐るべき力がある。逆らったところで勝ち目など無い。

 また、それとは逆に崇拝めいた視線を送る者達もいた。彼らには、カナンの蒼炎も救いの光に見えたのだろう。まるで女神でも見るかのように目を輝かせ、今にも跪きそうな具合だ。カナンにとっては、いささかやり辛い。

 そして少数ながら、明確に敵意を向ける者達もいた。
 彼らからすればカナンは敵側の人間に他ならない。武器さえあれば襲い掛かってきたかもしれない。
 敵対派の大多数は、サウルが突撃した際に夜魔に充てられた連中だ。若手が多く、戦場で直接法術を喰らっていない。それだけに、カナンに対する恐怖感も薄かった。

 これだけバラバラな集団を纏めなければと思うと、それだけで気が重くなった。

 だが、カナンはさりげなく自分の唇に触れ、それから意を決して顔を上げた。

「……私は煌都エルシャの継火手カナン! 煌都パルミラの商人会議より、貴方達の身柄を預かった者です」

 カナンの名乗りを聞いた瞬間、押し黙っていた闇渡り達が一斉に口を開いた。津波のような大音響がティグリス川の水面を揺らし、暴動かと勘繰った兵士たちが武器を構える。

 その口調や言い方に差異はあるが、内容は全て同じだった。

「これから我々はどうなるのか?」

 カナンは一切動じることなく杖の石突で地面を突いた。蒼炎が瞬き、川辺と集められた人々を照らし出す。
 ただの閃光だったが威力は絶大で、我を忘れて声を張り上げていた闇渡り達は一瞬で気勢を削がれた。なかには法術の恐ろしさを思い出して震え上がる者までいた。都軍兵士も例外ではなく、茫然とカナンの姿を見つめる。

 あたりが完全に静まるのを待ってから、カナンは再び口を開いた。

「パルミラが出した最終回答は、私に貴方達を統率する全権を委任する、というものでした。つまり、今現在、私が貴方達の代表者であり指導者の地位にあります。
 そして私は、貴方達と共に『エデン』を目指そうと考えています」

 エデンという単語が出た時、大半の闇渡りは首を傾げた。彼らにとって聞きなれない単語で、それがどこにあり、何を意味するのか、理解出来た者は少数だった。

「エデンだと!? ふざけるな! 辺獄の先じゃねえか!!」

 その少数も、カナンが言ったことの無謀さに気付くと、先ほどのように猛烈な勢いでがなり立てた。他の者も引きずられるように質問を投げ始める。

 今度はカナンも何もしなかった。言葉の奔流を前に平然と佇み、その一つ一つに耳を傾ける。
 彼らがこういう風に反発するのは予測出来ていたし、当然のことだと思っていた。

 客観的に見れば、彼らが反発するのは当然のことだ。虐殺する側の人間に助けられたと思ったら、今度は地の果てまで連れていくと言い出したのだ。理不尽だと怒りたくもなるだろう。

 だが、彼らにはそれ以外に選択肢が残っていない。その事実は、彼らがどれだけわめこうと決して変わらない。

 沈黙を保つカナンに対して、がなり立てていた闇渡り達も少しずつ冷静さを取り戻していった。いくら叫ぼうと、カナンが何かを言わないことには何も進まないのだから。
 カナンも、それが分かっているからこそ、天火を使わず待つことにした。継火手の威光をちらつかせるのは一度で十分だ。

 やがて、あたりが静かになったのを確認してから、カナンは切り出した。

「貴方達の懸念や疑問は、もっともです。私も無謀なことを言っているという自覚があります。もし、この中の誰かがより良い対案を出せたなら、それに従うのも良いでしょう。
 けれども、今現在私たちが選べる選択肢は一つしかありません。パルミラはこれ以外の回答を見付けられず、最悪の場合貴方達を殲滅する方針すら立てていました」

 殲滅という言葉が出た瞬間、誰かが「脅すつもりか!」と怒鳴った。

 カナンは三度騒動が起きるのに先んじて、「違います!」と鋭く断じた。彼女の清廉な声は闇を駆け抜け、闇渡り達を抑えつけた。

「パルミラには……いえ、どこの煌都であっても、全く同じ決断を下したはずです。
 思い出してください、何故貴方達は闇渡りとして夜のなかに放逐されたのか? それは、燈台の下に住まうことの出来る人数が限られていたからです。燈台の数が増えない以上、新たに人を受け入れられる場所は作れない。だから、員数外の人間は辺境で野放しにせざるを得ないし、反抗の危険があれば処理しなければならない。
 これは脅しなどではなく、煌都が採り得る唯一の選択肢なのです」

 彼女の言葉が終わる前に、誰かが「それは煌都の都合だろうが!」と叫んだ。



「その通りです」



 そして、カナンはあっさりそれを認めた。

 それまで反感ばかりを露わにしていた闇渡り達は、梯子を外すかのようなカナンの返答に困惑した。普通、煌都側に立つ継火手ならば、自分たちの意見など頭ごなしに否定するだろう。ところが目の前の祭司は、あっさりと自分たちの言い分を認めたのだ。

 六千人の闇渡りの幾人かが、少しだけ表情を変化させた。その全てを捉えることは無論出来ないが、場の空気が多少変化したのをカナンは感じた。
 その変化に乗じ、カナンはさらに論を進める。

「これはあくまで煌都の都合に過ぎません。確かに貴方達は戦争を起こしましたが、首謀者を罰すれば終わりというのが、戦争の作法です。虐殺がやむを得ない、などという言説は、最初から間違っています。
 ですが、そうだとしても、煌都の決定を覆すことは出来ません。彼らにもやむを得ない事情があるのですから……」

 誰かが野次を飛ばそうとしたが、隣にいた闇渡りに押さえつけられた。カナンの話には続きがある。それを聞こうとする人間が、少しずつ増えていた。

 六千人の聴衆……それも悪名高い闇渡りを前にして、カナンは少しも物おじせず、また怯えもせず堂々と意見を語っている。容姿もさることながら、強い意思を宿した瞳と、神秘的な蒼い天火は、本人が意識しなくても自然と人を惹き付ける武器となっていた。

 加えて、祭司らしい煌びやかな服を着ていなかったことも、かえって闇渡り達の好感度を引き上げる要因になった。白いシャツに若葉色のチョッキ、脚にぴったりと合わさったズボン、茶色の外套……だが、それらはどれも継接つぎはぎだらけで、色さえ違えば闇渡りの服と大差ないだろう。ぼろぼろの服は、彼女が実際に歩んできた旅路を物語っているかのようだった。

 いつしか誰もが、この美しくもみすぼらしい姿の祭司に目を奪われていた。闇渡りも、都軍の兵士も、あるいは護衛のために駆け付けた難民団の戦士たちも、彼女に視線を注いでいる。

 その視線のなかで、カナンは途切れさせていた言葉を紡いだ。

「貴方達が居場所を求めて蜂起したことは当然の要求であったと、私は思います。何者にも脅かされず、平和に過ごす場所を欲するのは、人間として自然な感性のあらわれです」

 どこかで、誰かが「そうだ!」と叫んだ。カナンは声のした方向に向けて軽く杖を振って応えた。

 逆に、包囲している都軍兵士のなかには眉をひそめた者もいた。そして、誰かが反感を持つであろうことも、カナンは分かっていた。

「夜に生きる人々も、燈台の下に生きる人々も、皆事情や都合を抱えて生きています。それらが食い違い、いがみ合って争いが生じる……互いに自らの生を全うするために行動しているにも関わらず、それが相容れることは無い。ならば、何が間違っているのか?」

 カナンは夜空を見上げた。

 聴衆たちもそれに倣う。カナンの見ている先に、答えがあるとばかりに。

 漆黒の帳には無限の星々が瞬き、いつもと変わらない冷たさで地上を見下ろしている。カナンはそれを見上げながら、言った。



「それは、世界です」



 いつの間にか静まり返った川辺に、カナンの声は静かに染み渡っていった。

「間違っているのは、この世界の仕組みそのものです。一定の数の煌都に、一定の人しか住めないという原則そのものが、作られた時点で破綻していたのです。
 考えてみてください。水を張った鍋を火にかければ、いつか吹き零れるのは自明の理です。同じように、人間の不満が世代を越えて蓄積されれば、暴発するのは当然のことなのです。
 その意味では、貴方達の怒りは正しい」

 カナンが断じるのと同時に、闇渡り達の一部から熱狂的な拍手が沸き起こった。囃し立てるように口笛を吹いている者もいる。都軍兵士に突っかかり、逆に槍で追い立てられる輩まで出る始末だ。

「しかし、私は貴方達の怒りは認めても、争いを認めるつもりはありません」

 今度は冷や水が降り掛かり、闇渡り達は気勢を削がれた。

「闇渡りのサウルが扇動したように、仮に都軍を破りパルミラを陥落させたとして、次はどうなると思いますか。征服者に追い立てられた住民は、必ず元居た場所を取り返そうと戦いを挑むでしょう。そうして終わりのない戦いを続けて、一体いつ休むのですか? 待っているのは、怯え続ける生活だけです。
 確かに、争うことによって生じるもの、変わるものもあるでしょう。けれど、争いが最終的な答えになるわけでもない。
 誰かと戦うことを選択したなら、その人はずっと戦い続けなければならないのです」

 重苦しい沈黙が周囲を包み込んだ。
 カナンの言葉は、一見ただの綺麗事だが、闇渡りにとっては実感のある話だった。常に戦いの中で生きてきた彼らには、争いは最終的な解決にならないという実経験があった。一つの部族を全滅させても、それは一つの戦いの終わりに過ぎない。結局、生き延びるために戦い続けるという構図は変わらないのだ。

 サウルのように、戦いそのものを愉楽に出来たなら、闇渡りの生涯はすこぶる楽しいものになるだろう。だが、例外的な超人に誰もがなれるわけではない。誰も常に勝ち続けられるとは思っていない。いつか自分が倒される側に回る日が来ると悟っている。

「……そうは言うがな、継火手さん。俺らに他に道があるってのかい?」

 誰かの言ったその言葉が、闇渡り達の総意だった。

 カナンはその言葉を静かに受け止め、微笑みを浮かべて投げ返した。

「だからこそ、エデンに向かうべきです。
 人を相手に戦えば、永遠に闘争を続けることになります。でも、世界の枠組みそのものと戦えば、いつか変革という勝利を手にすることが出来ます。闇渡りであった者が打ち立てた、新しい煌都が世界に増える……そうなれば、貴方達は敗者から勝者の座へと昇り詰めるのです!」

 演説が終わるのと同時に聴衆の中から歓声が沸き起こった。今度はからかいではなく、本心からの拍手も聞こえる。
 一方で苦虫を噛み潰したような顔をしている者もいるし、疑うような目線を向けてくる者もいた。

 カナン自身、いくつも嘘をついたという自覚があった。自分の言葉だけで、全ての人間を納得させられると信じるほど己惚れてはいない。

 それでも、賛意を示してくれた者、敵意を和らげてくれた者がいるだけで、皆の前に立つ価値があったと思えた。

 狼達の牧者として、まずは第一歩……カナンは胸の内でそう呟いた。

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