闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百十九節/抱擁】

 パルミラの街を出たカナンは、居留地にペトラを残すと、一人砂漠へと向かった。ごつごつとした岩が散らばる小高い丘に登ると、カナンは辺り一帯を見渡した。

 まず目に入るのは、煌都パルミラの大燈台ジグラットが放つ煌々たる輝きだ。その光の下に街が広がり、人が往来し、船が行き来する。

 ティグリス川の河畔に建てられた古い造船所には、無数の天幕が寄り集まっている。焚き火や灯火の光は、都市のものに比べれば小さいものの、確かな活気を感じさせる。

 そしてさらに下流には、川と軍勢とに囲まれた人々がいる。敗れ、連れてこられた闇渡り達は、飼い主を失った羊のように身を寄せ合っている。

 カナンはため息をつき、両手で顔を覆った。近くにあった岩の上に腰を下ろす。

 頭の中には、先程のオーディスの提案がぐるぐると渦巻いている。


 救征軍の行路、エデンに至る道。


 今から三年前、新たな煌都を見つけるために継火手エマヌエルによって提唱された救征軍は、人界とエデンを隔てる『辺獄』へと分け入って行った。
 そこは既知の夜魔をしのぐ怪物があまた生息する、呪われた大地だ。領域の大半は瘴土に呑まれ、荒れ果てた大地にはエデンに続くと言われる街道が一本だけ伸びている。

 楽園に通じる広大な闇の中で、救征軍は大小二百回に及ぶ戦闘を行い、ついにはエデンの衛星都市であったディルムンへと到達した。しかし、そこでの戦闘でエマヌエルを始めとする大部分が戦死、救征軍は瓦壊した。
 辺獄を抜けて戻ってきた時には、当初五千人を数えていた救征軍は五分の一へと数を減らしていた。

 当時、エマヌエルの守火手であったオーディス・シャティオンが持ちかえれたのは、聖女の髪のひと房のみであったと言う。

 守るべき者を守れなかったオーディスが何を感じたか、推し量るのは難しくない。ずっとそのことを抱え続け、死者の無念を晴らす機会を待ち続けていたのだろう。

 もう一度救征軍を結成し、行き場を失った闇渡り達に目標を与える。それは、現時点で考え得る最も生産的な提案に違いない。それを統率し、管理する人間として最もふさわしいのがカナンであることも必然だ。

 だが、前回の遠征の顛末と辺獄の危険性、何より寄せ集めの闇渡りを連れていくことを考えれば、成功する可能性は限りなく零に近い。ほとんど自殺的とさえ言えるだろう。

 確かに、カナンにとってもエデン到達は夢であった。だが、オーディスの提案と自分の筋書きとはあまりに乖離が大きすぎる。そもそも、エデンにたどり着いたとしても、即座にそこを都市化出来るわけがない。綿密な調査を重ね、街道の燈台を復活させ、他の煌都と連携をとらなければ、エデンを煌都として機能させることは出来ない。

 万が一、遠征を成功させたとしても、そこに彼らを住まわせることが出来なければ何の意味も無い。

 そこに辿り着くまでの犠牲、辿り着いた後の犠牲。幾多の犠牲が生じることは、始める前から分かりきっている。

 それでもこの道を選ばなければ、六千人の闇渡りは都軍によって抹殺される。どの道、彼らに未来は無い。

 これは都軍の兵士やパルミラの人々にとっても不幸なことだ。名無しヶ丘の戦いで、都軍兵士やパルミラの継火手達がどれほど神経をすり減らしたか、カナンは直に見て知っている。
 その上、既に闇渡り達の起こした戦乱は各所に伝播してしまっている。彼らを皆殺しにしたとしても、第二、第三の反乱が起こらない保証はどこにも無い。

 カナンはもう一度顔を上げ、丘の下に広がる光景を見渡した。

 今、目の前に見えているものは、この世界が抱えてしまった歪みそのものだ。それが今、こうして形をとって現れた。いつか必ず現れたであろう欠陥が、浮き彫りになっただけなのだ。

(……私はどうすれば良いの?)

 自分の肩には、過分とも思えるほどの責任がのしかかっている。それは自ら背負い込んだようなものなので、今更否認など出来ない。

 この重圧が嫌というのなら、そもそもあの戦場で闇渡り達を助けなければ良かった。そうすれば、様々な問題が噴出するにしてもカナン一人の負担は無くなる。

 だが、もしそのように振る舞っていたなら、自分で自分を肯定出来なくなる。あの不可思議な空間と、変容した熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブを見た後ではなおさらだ。危険な力を持った人間が、義務も責任も負わずのうのうと特権だけ享受するなど、あってはならない。


「逃げだしたい、ってツラしてるな」


 ぼんやりとしていたカナンは、すぐ近くにイスラが立っていたことに気付かなかった。しばらく呆然と彼の顔を見つめていたが、やがて大きな溜め息をついた。

「ペトラから大体のことは聞いた。また難題を突きつけられたんだってな」

「ええ……」

 カナンは絞り出すような声で言った。そんな彼女を見て、イスラは「酷い顔だ」と思った。いつもの快活さや明朗さが微塵も見受けられない。陽を浴びて美しく焼けた肌も、今は土気色に見えた。

 イスラは持っていた水筒を渡した。中には居留地で買って来た葡萄酒が入っている。カナンはのろのろと栓を開けると、革袋を絞るように中身を飲み干した。口元から赤い滴が垂れる。苦みとほのかな甘みが喉を通ると、渇きが急速に癒されていった。

「落ち着いたか?」

 カナンは頷こうと思ったが、無理だった。自分でも意識しないうちに、カナンは首を横に振っていた。

「無理、ですよ……」

「そうか」

「……」

「後悔してるのか?」

「していない、と言ったら嘘になりますね。でも、あの時はああするしかなかった」

 自分は正しいことをした。その確信はある。だが、それは正しいことであるにも関わらず、重荷となってのしかかって来る。

 正しさと賢さは、必ずしも一致しない。むしろ、しばしば乖離する。カナンが行ったことは正しいが、愚かだった。

 そして、愚かな正しさによって、六千人もの人間が振りまわされている。そうなると、合理性は正義より大切なのだと思えてくる。

「つくづく……私は、馬鹿な人間だと思います。こうなることは分かっていたのに、自分の信じる正しさを選んで、迷って、悩んで、大勢の人を振りまわして……嫌になる」

「確かに、お前は不器用だよ……見た目の割にな」

 カナンは乾いた笑い声を洩らした。

「イスラ。私がもっと賢かったら、こんなことにはならなかったんでしょうか。もっと良い道を見つけられたんでしょうか」

 どんどん自分というものを信じられなくなっていく。無力さが胸の中を真黒に塗り潰していく。

「私は……ただの偽善者です……偉そうなことを言って、結局は中途半端な覚悟しか持っていない。重すぎる責任なんて負いたくない、怖いんです!」

 膨れ上がる自己嫌悪が、心臓や肺を圧迫する。

「でもっ……でも、そんな風に考えてる自分が嫌で……結局は自分のことしか考えていなくてっ……!」

 いつの間にか、目じりに涙が浮かんでいた。そんな風に涙を浮かべること自体が、とんでもなく恥知らずなことに思えた。自分には泣く権利などありはしない。ただ自分で自分を憐れんでいるだけだ。自分に酔った馬鹿の典型ではないか。

 すべては己の選択の結果だ。自分の行為を恥じるくらいなら、最初からやらなければ良い。

 今は、自分の全てを呪いたかった。自分の存在も、行為も、何もかもを。


「それなら、最初から何もしなかった方が……!」


 だが、イスラはそれを許さなかった。

 父親が子供を受け止めるように、座したままのカナンの身体を引き寄せ、自分の腹に彼女の顔を押し付けた。これ以上、何かを言わせたくはなかった。

 驚いたカナンは声を詰まらせる。


「それだけは言わないでくれ」


 イスラの手に力が込められるのを感じた。カナンは彼の身体に顔をうずめた。


「お前が自分のことをどう思おうと構わない。でも、俺はお前に救われた。それだけは確かだ」


 前にもこんなことがあったな、とイスラは思った。リダの町で彼女に助けられた後、今みたく自分を責めるカナンに、「自分を責めるな」と言ったことを憶えている。


「お前は神様じゃない。何もかも、全部うまくやることなんて、最初から出来ないさ。
 でも俺は、お前が与えられた環境のなかで、いつも全力を出して来たことを知っている。裏切られたり、酷い目に遭ったことも、全部隣で見て来た。あがきながら、少しでも出来る事をやってきたことだって、分かってる」


 言葉を紡ぎながら、イスラの脳裏には次々と旅の間の風景が浮かび上がって来る。その風景のなかで戦うカナンの姿を、いくらでも思い出す事が出来た。


「俺には、お前が背負っているものを肩代わりすることは出来ない。他の誰も出来ない、お前だけが出来る……それが重苦しいってことは、よく分かるよ。怖くて当然だ」


 カナンが悩んでいる光景なんて見慣れている。能天気なようでいて、いつも自分自身に重荷を課している。それがカナンという女だ。
 だからこそ皆に頼られ、彼女自身も拒まない。


「お前が逃げたいって言うのなら、俺は全力でお前を逃がしてやる。何かを決めろなんて言うつもりも無い」


「……もし、逃げないって言ったら?」


「お前の側にいる。
 お前がどれだけ敵を作っても、どんな場所に行こうとしても、一緒にいたい。
 俺は絶対にお前の敵にはならない」


 イスラは砂の上に膝をついた。
 すぐ目の前に、涙で滲んだ蒼い瞳がある。月明かりの中でも分かるくらいにその顔は赤くなっていた。
 イスラは破顔した。


「俺に出来るのはそれくらいだ」


 カナンはしばらくの間視線を彷徨わせていたが、やがて目を瞑ると大きく息を吸った。


「……それだけじゃ足りません」


 平静を装おうとするものの、声も唇も震えていた。カナンの気恥ずかしさを読み取ったイスラは、彼女の頭に片手を添えた。
 何を望まれているか分からないほど、イスラも鈍感ではなかった。


 穏やかな風が砂丘を撫で、月の光が降り注ぐなかで、二人は唇を重ねた。


 そうしたところで問題は解決しないし、現実が書き換えられるわけでもない。

 それでもカナンは、背中にのしかかっていた物が軽くなるのを感じた。恐怖が揺らぎ、胸の支えが取れた気がした。代わって、イスラの気持ちを知った喜びと、自分が彼に愛されているという実感が溢れてきた。

 我に返って照れるまでの間、二人は唇越しに互いの体温を交わし続けた。

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