闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百十五節/夜を征く者共のさだめ 中】

 気がつくと、崩れかけた廃墟の中に踏み入っていた。旧時代に造られた街並みは長い年月によって文字通り風化し、かつて街を囲んでいた石垣は老人の歯のように溶け崩れている。

 サウルはその石垣に手を当て、俯きつつ息を吐いた。今まで聞いたこともないほど荒い呼吸をしている。服を内側から濡らしているのが血なのか汗なのか判然としない。鉛の手錠を掛けられたかのように手足が重かった。

(おかしいな……)

 今ほど最悪な状況などかつて体験したことが無い。どれほど追い詰められようと、五体満足なら何も怖くはなかった。だがこれほど窮地に追い込まれたのは初めてで、こういう時にどんな顔をするのか、自分でも想像出来なかった。考えようともしなかった。


 そして今、自分は、どういうわけなのか、笑っていた。


「いやいや、おかしいだろ。ヤバ過ぎて参ったってのか?」

 その割には冷静だ。錯乱などとは無縁の状態にある。何より、身体の奥底から滲み出た力が、重くなった四肢を動かして止まらせない。
 妙に晴れやかな気分だった。こんな状態なのに、絶好調で起き出した日のように活力が湧いてくる。頭の中がすっきりとしていて、鋭敏になった神経がわずかな風の流れや音を捉える。だから、世界が何倍にも広がったように感じた。

 空を見上げる。生まれた時から一度も変わらない満天の星々が、今日も同じように瞬いている。最後にこうしてしみじみと星を見たのはいつぶりだろう。いつからか、目の前にあることだけを真っ直ぐ見据えて生きるようになっていた。そうでなければ寝首を掻かれるから、目を逸らす暇が無かったのだ。

 だがそれで良かった。別に、追い詰められたから人生を悔やんでいるわけではない。そっちの方を選んで穏やかに生きる……などと、考えただけで吐き気がする。サウルは生来のさがとして、獰猛に生きることを定められていたのだ。

(だから、明日も星を見るか)

 これまでやってきたことに加えて、星を見る習慣を付け加えてみるのだ。例えば、人を殺しても星を見るし、酒を飲んでも星を見る。

(そうして生き続けて、探し続けるんだ……何を?)

 もう一度玉座に手を伸ばしてみようかと思ったが、違うな、と考え直した。何故なら、こうして手に入れた挙句失って、ついでに滅茶苦茶な有様になったというのに、あんまり悔しいという気分がしないからだ。もう一度同じことをしたところで、面白さは半減しているだろう。

「そうか。俺はずっと探してたんだな。けど、何をだ? 何を探していた?」

 いつしかサウルは、崩れかけた聖堂の前に辿り着いていた。廃墟と化した街は静寂に包まれているが、この場所はその中でも一層静かだった。白い石柱は経年劣化でやせ細っており、石畳や階段は雑草に覆い隠されている。

 自分自身、理由も分からないまま、サウルはその中に踏み込んだ。

 真っ先に目に入ったのは、首から上を失った石像だった。体型や服装から見て恐らく女神だったのだろうが、どのような力を持った神なのか今となっては分からない。かつて太陽があった頃は、ステンドグラスから差し込んだ光が後光のように石像を照らしていたのだろう。その破片は、外と同じく草木の生い茂った床の上に散らばっていて、わずかな月明りを跳ね返すだけだ。

 サウルは石で出来た椅子に腰を下ろした。右腕の痛みは相変わらず酷いが、左腕は自由に動いた。明星を膝に立て掛け、空いた手を頭に当てた。

「何だ? 俺は何を探していたんだ?」

 崩れた屋根の隙間から淡い月光が降り注ぐ。首の無い石像の影がサウルの上に伸びた時、雑草と石畳の破片を踏みつける音が聞こえた。

「何を探していようと、あんたはここで終わりだ」

 イスラは剣を突き付けた。右肩を動かすと傷が痛むが、イスラは気力でそれを押さえつけた。

 廃墟に入るとサウルが逃げた痕跡は簡単に見つけられた。瓦礫に垂れた血や手をついた後をたどって聖堂までたどり着いた。
 今、敵は疲れ果てて動けないように見える。それでもイスラは油断していなかった。奇襲をかけることも考えたが、下手な策はかえって見破られるだけだろう。それに、サウルの能力や精神を考慮しても、この出血では満足に身体は動かない。ならば、正面から戦って倒すのが一番確実な方法だ。

「終わり……終わりだって? 俺が?」

 サウルがゆらりと立ち上がる。左手をぶらりと下げ、その手の中に明星ルシフェルを握っている。

「冗談じゃねえ、俺は生きるぜ。今日も、明日も、明後日も……ずっと、な」

「あんたは全ての札を切って、負けた。あんたに明日は無い。ここで支払ってもらう」

 イスラは伐剣を構え、その金色の瞳で敵を見据えた。
 サウルもまた、明星を背中の後ろ側へ隠すように構えた。

 沈黙の中で二人は互いに目を離さず、時が至るのを待った。何かの兆しがあれば即座に飛びだすつもりだった。限界まで張りつめた弓のように、緊張が両者を捉えて離さない。両者とも瞬きさえ出来なかった。少しでも視界を閉ざしたら、次の瞬間には斬られているような気がしたからだ。獲物を射程に捉えた狩人のように――逆に、狙いを付けられた鹿のように、殺意と危機感が胸の内でせめぎ合っていた。

 しかし、時と同じように雲も流れる。月光に覆いが掛けられた瞬間、両者は同時に駆け出した。

 イスラにはサウルの攻撃線が読めた。彼がとったのは、闇渡りにとって最も基本的な型だ。自分でも多用するが故に、剣の軌道がどこを通るか手に取るように分かる。

 だがあまりに見え透いている。この土壇場で、この男がそんな正攻法を使うわけがない。必ず何かの仕込みがある。そして、その起点となる武器は一つしかない。

 両者が接触する直前、サウルは傷ついた右腕を振るい、その中に着けなおしていた梟の爪ヤンシュフを射出した。
 イスラの目を抉るべく放たれたそれは、顔に当たる直前で斬り払われる。この程度の小細工に今更動揺などしない。むしろ、攻撃を返した分、イスラの方が先に剣を届かせられる状況だ。

 だが弾かれることさえもサウルは読んでいた。痛む右腕に力を込め、弾かれた勢いを加えて天井の石材に絡みつかせる。
 飛んで逃げるためではない。経年劣化でボロボロになった石では体重を支え切れないだろう。だが、だからこそ使い道がある。

 イスラが剣を薙いだ。だが、サウルはその間合いを完全に把握している。何故なら、今イスラが握っている剣こそ自分が長年使ってきたものだからだ。そして距離感をつかんでいるがゆえに、剣の軌道上に梟の爪ヤンシュフの糸を持ってくることも、造作もなかった。

 イスラが繰り出した剣撃はサウルを割くことなく、刀身に鋼線を絡みつかせる。そして振り切った力が糸を伝わり天井に届いた。脆くなった石材を壊せる程度の衝撃が。

「ッ!」

 天井から大小様々な瓦礫が降り注ぐ。落ちると同時に砕け、破片や砂、埃が舞い上がって煙幕となる。イスラは回避を余儀なくされるが、その隙を突き、立ち込める煙を突き破ってサウルが強襲した。

「死ねッ!!」

 イスラは咄嗟に身を守った。剣を前に、左腕を後ろに構えて胸を守る。だがサウルから見れば、苦し紛れであることは一目瞭然だった。並みの剣では明星ルシフェルは止められない。刀身をへし折り、腕を斬ってもなお止まらず、胸まで斬り割くだろう。サウルは勝利を確信した。

 そして事実、明星はいとも容易く伐剣を両断した。

 そのままイスラの左腕をも斬り飛ばす……はずだった。

 しかし、刀身が沈み込むのと同時に何かを折るような感触が伝わってきた。イスラの腕は斬れていない。血の一滴も流れず、完全に明星ルシフェルを受け止めている。


「馬鹿なッ」


 刹那の間、サウルは動揺した。すぐに立ち直るがもう遅い。こうなることが分かっていたイスラは、すでに動き始めていた。

 折れた伐剣をサウルの左腕に突き立てる。皮肉なことに、綺麗に両断された分、その切り口は傷を作れるだけの鋭さを備えていたのだ。

 鮮血が飛び散り、指先から力が抜ける。サウルの顔が歪む。イスラは間髪入れず明星を奪い返した。

 一閃。逆袈裟に斬り上げる。切っ先がサウルを捉え、左の脇腹から右胸に至るまで一直線に斬り割く。

 しかし決定打にはならない。まだサウルの生の意志を挫くには至らない。
 サウルは飛び退りながら、ベルトに吊るしてあった最後の光玉を叩き落した。外套を巻き付けはしない。両者ともに目が潰れようが、梟の爪ヤンシュフは意のままに操れる。たとえ右腕が傷ついていようと、首に巻き付けて絞め殺すくらいのことは出来る。

(最後の、勝負……!)

 だが、イスラは乗らなかった。これは一度見た攻撃だ。土壇場で使って来ることは想定してある。その対処方法も、すでに編み出していた。

 光玉が地面に落ちる直前、明星の切っ先ですくうように跳ね上げ、自分の背後……光を浴びない位置へと送り込む。爆発音とともに強烈な閃光が辺り一面を照らし出した。イスラの目は焼かれない。向かう先にある、敵の姿を見据えている。

 サウルは、光玉が無効化されるところも、その光が白く瞬くところも、しっかと目に焼き付けていた。しかし動かなかったのは敗北を認めたからでも、絶望したからでもない。

 白い視界の中に、サウルは答えを見出した。

 闇の中にある己を浮き彫りにするものを。己を闇から引き離すものを。

 剣も宝も、王冠も天火も、全て記号、代替物に過ぎなかったのだ。だからいくら奪っても満たされず、失っても悔しくなかった。



「これか! 俺が欲しかった物!!」



 光を背負い、一人の若き闇渡りが突進してくる。

 彼が振り翳した光を運ぶ者ルシフェルの刃を、サウルは歓喜の内に受け止めた。

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