闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第九十五節/魔剣】

 いかなる地位、いかなる才覚も、死んでしまえば意味をなさない。

 炎にまかれれば、どんな人間でも黒く焼け焦げる。

 たとえ生前にどれほど美しさを讃えられた少女たちであろうと、あるいは塵芥のように見下された闇渡りたちであろうと、火で炙られれば同じ悪臭を放つ。

 そんな当たり前の真実を突きつけられたマスィルは、耐え切れずその場で嘔吐した。

 昨日まで何気なく接していた人たちが、今はただの炭の塊になってそこらに転がっている。マスィルにとって、胃を握り潰されたかと思うほどの衝撃だった。

 城壁に足を掛けた闇渡りたちが鬨の声を上げている。脅威であった継火手は無力化された、自分達の勝利は決定したと信じ込んでいる。
 そして、石畳に転がった継火手の遺体に殺到し、次々と煤まみれの装飾品を毟り取っていく。その様は死肉に群がる鴉を連想させ、それまで恐怖の側に傾いていたマスィルの心を、一瞬で憤怒へと引き上げた。

 獣のような唸り声を漏らしながら、転がっていた戦斧を手に立ち上がる。衝撃から立ち直ったヴィルニクが制止しようとした時には既に、マスィルは咆哮と共に敵の中へと突っ込んでいた。

「触るなァ!!」

 継火手たちの遺体を取り囲んでいた敵に突入したマスィルは、勢いと力に任せて、まとめて三人の闇渡りを胴体ごと両断した。

「闇渡り風情が、継火手の遺体をはずかしめるなどと!!」

 法術が使えない以上、体内の天火は全て身体強化に回す。元々制御が得意でないマスィルの身体から、生き渡らなかった天火が噴き出した。それは彼女自身の服と肌を焦がし、染み出た血液が音を立てて沸騰する。
 だが、修羅の如く顔を歪め、怒りと力のままに得物を振るうマスィルの姿は、勝った気でいた闇渡りたちの士気を挫くには十分過ぎた。

 吹き荒れる感情に身を明け渡し、憎悪の限りを込めて敵の頭蓋を叩き潰す。背後から斬りかかってきた敵の両脚を斬り飛ばし、倒れたところで首の骨をへし折る。そうしていくら叩いたところで、周りの敵は一向に減らない。次々と城壁の上へよじ登ってくる。

 三人分の斬撃を柄で受け止め、逆に城壁の外へ向かって押し飛ばす。悲鳴と共に落ちていく敵には一瞥もくれず次の獲物を探すが、そんなマスィルに向けて一斉に矢が放たれた。

「ったく、後先考えないから……!」

 間に割り込んだヴィルニクが盾を構える。手近なところにあった伐剣に手を伸ばすが、その柄に触れた瞬間、右肩がズキリと痛んだ。

「ぐっ、っつつ……やっぱりヒビくらい入ってるかな、これ……」

「ぼさっとするな、立て!」

 無防備な背中に斬りかかろうとした敵を始末するが、マスィルも肩で息をしている。この数分間で優に十数人は斬り伏せたが、彼女の疲労も大きかった。本来なら疲労回復に回せるはずの天火まで攻撃に転用したのだから、当然と言えば当然だった。苛烈な戦いぶりや法術の威力を讃えられようと、天火の容量そのものは普通の継火手と大して変わらない。もとより長期戦に向いた人材ではなかった。

 そして、ここは戦場の一部分に過ぎない。城壁のほかの箇所はすでに突破されかけており、市街に侵入した闇渡りが逃げ惑う人々を追いかけまわしている。火をつけられた家が燃え上がり、方々から人の悲鳴や痛々しい嗚咽が聞こえてくる。

 片手を盾でかばいながら、ヴィルニクはぼんやりと考え事をしていた。そんな状況でないことは分かっているが、城壁の上から見えるこの光景が、彼にある一つの歴史を思い出させた。


「……戦争ってのも、こんな感じだったのかな……?」


 意識が他所を向いた一瞬をついて、敵が石垣の上から飛び掛かってきた。盾を引っぺがそうとする敵を殴りつけ、蹴り飛ばすが、同時にヴィルニクも石畳に溜まった血だまりに足を取られてしまう。「ヴィルニク!?」彼の窮地に反応したマスィルがこちらを向いた。彼が「来るな!」と怒鳴ったときにはすでに、マスィルも数人の闇渡りに取りつかれ石畳の上に押さえつけられていた。

 それでも力任せに身体を持ち上げようとするが、マスィルは顔を蹴り飛ばされ力を失う。唇が切れたのか、流れた血が顔の下半分を赤く染めた。


「無様な姿だな、え?」


 頭上から降ってきた侮辱の言葉は、マスィルに痛みを忘れさせた。頭に血が上り、敵意も露わに相手を睨みつける。

 彼女を蹴った闇渡りは、他とは明らかに異なっていた。黒い外套という闇渡りに共通の衣装こそ着ているものの、布地は墨のように滑らかで、その下に纏っている服も見るからに高価なものばかりだった。いずれも黒を基調としているが、ところどころに金糸による刺繍が織り交ぜられている。

 だが、どれほど高価な服を纏おうと、その顔に浮かんだ残忍さや卑劣さは拭えない。見たところ四十かそれよりやや若い年齢のようだが、あちこちに刀傷が刻まれている。それはすなわち、いくつもの修羅場を渡り歩いてきた証拠だ。男の放つ重苦しいまでの威圧感は、決して芝居で出せるものではない。敵意をむき出しにしながらも、マスィルは心のどこかに怯えの感情が沸き上がるのを自覚した。

 ただ、男が携えている得物が普通の伐剣であったなら、マスィルもここまで圧倒されることはなかっただろう。
 男が携えている武器は、普通の伐剣とは異なっていた。刀身の形状はより鋭角的に鍛えなおされており、並みの伐剣に見られるような無骨さとは無縁となっている。その柄には人面を模した不気味な彫像が刻まれており、波打つ髪の造形がそのまま剣の柄を形作っている。

(この剣か)

 何か確証があるわけではない。だが、マスィルは直感でこの剣の危険さに気付いた。それが放つ異様なまでの不気味さもさることながら、他の闇渡りをあっさりと支配するだけの権威を与えている……これは、ある種の王権レガリアなのだと。

「それが貴様の、力の源か……!」

 体重を掛けられるたびに、腕の関節が悲鳴を上げる。だが、マスィルは確かめずにはいられなかった。自分の直感が当たっているなら、この男も剣の力を誇示したがるに違いない。
 案の定、男はいささか気分を良くしたように剣の柄を叩いた。

「おうさ。俺たちを虐げてきたお前らに報いを与える、闇渡りの聖剣ってとこだな。こいつの力は見ての通りだ」

 男の背後では、継火手たちの遺体が無造作に転がっている。マスィルは奥歯が砕けそうになるほど強く歯軋りした。この男を道連れに、法術で吹き飛ばすことは出来ないか考える。……だが、どれほど詠唱の速い術であろうと、敵が自分の首を刎ねる方が早いだろう。

「俺たちが恨めしいか?」

「当然だ。貴様らを呪いながら死んでやる」

「っはは、勇ましいお嬢さんだ。……そうか、火花の継火手ってのはお前のことだな。噂に違わない苛烈な性格のようだが……俺にとっちゃ都合が良い」

 男は剣を抜き、ぴたりとマスィルの首筋に添えた。

「こいつの威力は凄まじいんだが、死体まで滅茶苦茶になるから、曝し首にしても今一なんだよ。名の知れたお前の首を綺麗なまま刎ねれば、その血がこの剣の威光を一層輝かせてくれる……」

 やはりそうか、とマスィルは思った。それと同時に、これを誰かに伝えられないまま死ぬのは無念だとも思った。
 戦いのなかで死ぬのはいたしかたないことだが、闇渡り風情に良いようにされた挙句殺されるのは屈辱だった。

 だが、それよりも……。

(ヴィルニク)

 いつも振り回してばかりで、ろくに何かを報いてやった記憶が無い。それどころか裏ではずっと助けてもらっていたことも分かっている。知った上で、甘えていた。
 挙げ句の果てに、猪突猛進に付き合わせて一緒に殺されそうになっている。

(私は……!)

悪霊ウドゥグの剣と、継火手の血によって、我が王権は確固たるものとなる!」

 マスィルは目を閉じ、意識が失われるのを待った。

 死ぬ時に人は何を感じるのか。それが分からないから、死ぬことは怖いのだろう。もし痛みを覚えたまま逝くなら、それだけ恨みや呪いも深くなるに違いない。

 だが、彼女がそれを覚えることは無かった。

 マスィルの首が落ちるより先に、背後の闇渡りたちが悲鳴を上げた。拘束を解かれたヴィルニクは腕の痛みも無視して突進し、マスィルを押さえつける闇渡りを払い除ける。

「マスィル、無事かい!?」

「あ、ああ……一体何が……」

 二人の見ている前で、ひしめいていた闇渡りたちが次々と斬り伏せられていく。それも、軍勢の力ではなく、たった一人の男が振るう剣によってである。

 マスィルはこれまで、こんなに速く鋭く、それでいて鮮やかな剣閃を見たことが無かった。

 切っ先が見えたと思った時には、すでに刀身は敵の身体を斬り裂いている。最小の動きで確実かつ速やかに敵を処理・・するため、一対多にも関わらず少しも不利なように見えない。

 風の噂で聞くエルシャの剣匠ならば、こういう風に戦うことも出来るかもしれない。だが、彼の主だった特徴は銀色の瞳と髪くらいで、容姿は特筆するほどではないという。

 だが、彼女達の前で戦っている剣士は、一本に束ねた波打つ金色の髪をなびかせ、どこか穏やかさを感じさせる水色の瞳を持っている。

 そして何より、この世に二人といないのではないかと思わせるほどの美貌を備えていた。

 神が手ずから形作ったかのような完璧な造形で、マスィルはさっきまで死にかけていたことすら忘れて見入ってしまった。貴公子然とした顔立ちとは裏腹に、肌はあまり日焼けをしていないのだが、それさえまるで気にならない。むしろ闇渡りの純白の肌の方が似合うのではないかとさえ思える。

「……厄介なのが湧いたな」

「サ、サウル! もう保たねえ!」

「しょうがない。目的は果たしたんだ、ずらかるぞ」

 剣士が踏み込む直前で、闇渡りの頭領――サウルは城壁から飛び降りていた。それに呼応して角笛が鳴り渡り、戦闘に参加していた闇渡りたちが次々と引き上げていく。

 急展開についていけないまま、マスィルはその場に座り込んでいた。ヴィルニクもまた、窮地を脱したことから緊張を解いている。忘れかけていた痛みがぶり返したのか、やや顔が引きつっている。
 そんな二人の元に剣士は歩み寄り、立てなくなっていたマスィルに手を差し出した。

「お怪我はありませんか?」

 どこか中性的な声で優しく語りかけられたマスィルは、しどろもどろになりながら何とか「い、いえ」と答えた。

「それは良かった。私もまた、一つ善行を積めたようですね」

「あの、貴方は……」

 名を尋ねられた剣士は、穏やかな微笑を浮かべながら答えた。



「私の名はオーディス・シャティオン。旅の剣士です」



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