闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第九十六節/軋轢と妥協 下】

「納得がいかんッ!!」

 エリコの重鎮たちの説得など一顧だにせず、マスィルは大声で怒鳴りつけた。
 イスラの姿を見た彼女の反応には凄まじいものがあった。机の上に飛び乗り、そのまま地団太を踏みながら居並ぶ要人たちを罵倒していく。

「街を焼いたのが闇渡り、これから助けを乞うのも闇渡り……恥ずかしくないのか!? ちょっとでも意地とか根性とかがあるなら、こんな胡散臭い連中など叩きだして、我々だけで追撃し撃滅するのが本当だろうが!」

 胡散臭い連中、と一方的になじられたサイモンは顔をひくつかせた。だが、何か言おうとしてもマスィルの喧しい怒声にかき消されてしまう。

 ひとしきり身内を罵倒し終わったマスィルは、机の上を占拠したままくるりと振り返り、「おい貴様」とイスラに指を突き付けた。

「今すぐエリコから出ていけ。闇渡りの姿を見たい者など、この街には一人もいない。そっ首を刎ねられないだけ有難いと思うことだな」

 一方的な言いがかりに、サイモン達はおろかエリコ側の人々も騒然となった。

「この野郎、もう一度言ってみろ!」

「俺らの仲間なんだぞ!」

 故無く仲間を罵倒された調査隊の面々は今にも暴発しそうな様子だった。サイモンも血の気の多い男だが、さすがにこの状況で先頭を切って殴りこむわけにはいかない。前のめりになる仲間たちをなんとか制しているものの、彼の我慢も限界に近付きつつあった。
 エリコ側はエリコ側で、マスィルの不用意な言葉で戦力を失うわけにはいかないと必死に弁解をしている。だが、当のマスィルが好き放題に罵詈雑言を吐き出しているため、どう見ても焼け石に水だった。

 あわや会談自体がご破算になるか……誰もがそう思った時、卓上のマスィルがひょいと床の上に降ろされた。
 そして、守火手ヴィルニクの大きな拳骨が、継火手の少女の頭に振り下ろされた。

「ふんっ」

「ごっ!?」

 ぼぐっ、という生々しい音が響いた。居合わせた人間の目が二人に注がれ、それまでの騒々しさが嘘のように静かになった。

「ちょっとやり過ぎたんじゃないかい、マスィル?」

「だ、黙れ! 私が何か間違いを言ったか!?」

「自分の胸に手を当てて聞いてごらん」

 ヴィルニクはおっとりとした、それでいて有無を言わさない口調でそう言い放った。ぼんやりとした表情に見えるが、上背があり体つきのがっしりとしたヴィルニクが無言のまま立っていると、何か尋常ではない迫力を醸し出すのだ。
 そして、彼と付き合いの長いマスィルは、今のヴィルニクが本気で怒っていることに気付いていた。

 こうなった時の彼は、マスィルよりも遥かに頑固になる。

「エリコを襲ったのは闇渡りだ。でも彼じゃない。君は個人的な鬱憤を彼にぶつけただけだって、本当は分かっているだろう?」

「そ、それでもだな! 我々が闇渡りと共闘する理由にはならないだろ! 納得出来ない奴だって大勢いるはずだ!」

「それはそうかもしれない。でも、それは君の考えるべきことじゃないよね? そうやって君が場をしっちゃかめっちゃかにすると皆が困るんだよ。
 さ、彼に謝って……って、あれ?」

 ヴィルニクがマスィルの背中をぐいと押したときには、イスラは部屋の扉を開いて出ていこうとしているところだった。サイモンが慌てて呼び止めるが、イスラは振り返ると「そのうるさい女の言う通りだ」と言った。

「う、うるさいとは何だ!」

「言った通りだ……まあそれはいいさ。俺がここに居るのは確かに場違いだし、絶対に居なきゃいけないわけでもない。後のことはサイモンに任せるさ」

「任せるっておま、って、おい!」

 サイモンの制止も聞かず、イスラは部屋を出た。気を利かせた町長が二人の護衛をつけたものの、イスラは窮屈そうに肩を竦めた。

 部屋を立ち去ったのは、無論マスィルに恐れをなしたからではない。ただ、彼女の言う通り場違いだと感じたからだ。それに、立場上自分は難民団の一兵士に過ぎない。作戦を練るような必要は無かったのだ。

 たとえ、他の皆から畏敬の念を持たれていようと、イスラ本人にとっては何の感慨も実感も湧かない。
 それに、外の世界では役に立たないものだということも、よく分かっている。

 サイモン達からすれば、イスラは黒炎の魔女と正面切って戦い生還した英雄だ。だが大坑窟の外の人間は、元よりベイベルの名前も力もまるで知らない。むしろ、ただの闇渡りを担ぎ上げているように見えて、不自然に思えるのではないか。イスラはそう考えていた。


 もし誰かがイスラの内面を読むことが出来たなら、彼の自己評価の低さに驚くだろう。


 何しろ、「生き延びる」という一点のみをひたすら貫いてきた彼には、最初から生か死かの二択しか存在しない。蛇百足の夜魔であれティアマトであれ、あるいはベイベルやギデオンと戦い生き延びたことも、イスラにとっては「死んでいない」という一言で済んでしまうのだ。武勲や栄誉など、最初から眼中に無い。

 評価とは、そもそも社会があってこそ成り立つものだ。社会と無縁の場所で孤独に生き抜いてきたイスラには、凄いと言われてもまるで響かない。

(それでも、俺なんかのために喧嘩腰になってくれるのは、有り難いことなのかもな……)

 評価され、重んじられているということについては、今ひとつピンとこない。

 だが、彼らが自分を仲間として扱ってくれたのは、少し嬉しかった。

 主戦場だった裏門に向かう間、イスラは絶えず敵意の篭った目で見られていた。もちろんそれには気付いていたが、とっくの昔に慣れてしまった。
 だが今は、ほんの少しだが、敵意以外の視線を向けてくれる人々がいる。


 それは、彼女・・との旅が始まってからのことだ。


 風読みの少年からは憧れなどというむず痒い眼差しを受けているし、ペトラやオルファからは何故か鈍感だと呆れ半分に見られている。サイモン達は飲み仲間なのか何なのかよく分からないが、悪い連中ではない。
 エルシャのユディトからは妹を託され、剣匠ギデオンからは未熟者だと叩きのめされた。同じエルシャの人間でも、レヴィンとかいう軍人は敵意を超えて剥き出しの憎悪や悪意を叩きつけてきた。



 そして、その誰よりも……。



「…………」

 門の外に出たイスラは、まだ血の臭いの染み付いた土の上に立った。周りでは討ち死にした闇渡りの死体に火がかけられていた。その光が星空を焦がし、漂う白い煙には人肉の焼ける悪臭が篭っている。

 そしてイスラはふと、今自分に向けられた視線の中に、敵意とは異なるものを感じ取った。

 隣に一人の男が立っていて、彼もまた、死体の焼ける臭いが染み付くのも構わずに、燃え盛る炎を眺めている。

「君も闇渡りだろう?」

 男は言った。

「ああ。あんたは……違うな」

 男の整った容姿は、とても闇渡りが備えられるものではない。一目で違うと分かった。

 だが、男は「似たようなものさ」と答えた。


 イスラとオーディスの、それが最初のやり取りだった。

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