闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百節/王の肖像】

 闇渡りのサウルはこれまで一度も、夢、というものを見たことがなかった。

 夢は少年が見るものだが、彼には少年の時期が無かったからだ。

 あるいは、四十年あまりの人生のなかでそんな場面もあったかもしれないが、それは時の闇の奥深くに隠されてしまった。

 気がつくと、生きる為に生きていた。最初のうちは、猟や採取によってそれを成していた。だが、同時にそれは奪われる日々でもあった。

 十四の時のことだ。彼は一人で猟に出て、一頭の雄鹿を仕留めた。稀に見る立派な鹿で、その肉を食えばもっと強くなれると思った。
 ところが、そこに少し年上の闇渡りがやってきて、彼に獲物を明け渡すよう要求した。

 それまでは、奪われるのが当たり前だった。大人に逆らったことは一度も無い。

 だがその時は、相手は大人になりきっていない青二才で、まわりに人の目は無く、何より相手は餌を貪る豚のように油断していた。


 だからサウルは、殺した。


 真正面から掴み掛かり、揉み合いの末、近くにあった石で頭を殴り付けた。その時の感触は、今でも歓喜の震えとともに思い出せる。指の間をしたたる血潮の熱、頭蓋の砕ける音、恐怖に歪んだ表情……そのどれもが、彼の内に住まう加虐心という名の怪物を狂喜させた。誰であったか、昔の偉い闇渡りが「征服は夜伽に勝る歓び」と言ったそうだが、それは真実だと思う。

 かくしてサウルは奪うことを覚えた。奪えば強くなり、強くなればさらに多くのものを奪える。まさしく獣の生き方だった。

 そうして奪い続け結果、彼は三千人の部下とその家族を手に入れた。馬車五台分に及ぶ金銀財宝に、選りすぐった十七人の側女達。子供もずいぶん増えたが、一番最初に生まれた息子に毒殺されかけて以来、男児が生まれたらその場で地面に叩き付けて殺すようにしている。
 潰した部族の数だが、もうとっくに数えるのをやめてしまった。そこに奪える物があるなら、規模の如何いかんに関わりなく襲撃した。



 だが、ある日ふと、いくら略奪を繰り返しても満足していない自分に気が付いた。



 まるで胸の真ん中に空洞が出来たような気分だった。何かを奪った後は、一時的に快楽を覚える。しかしそれは絶頂と同じで、法悦の後に必ず虚無がやってきた。どんな美酒も、喉を通り過ぎた途端に味わうことは出来なくなる。

 サウルは考えた。その思考の礎には、彼自身の略奪と殺人の人生が敷かれている。何故、奪っても奪っても満足出来ないのか?

 それは、自分が真に奪うべきものを奪っていないからではないか? では、それは何か?

 そうして思索にふけっていたある日、彼は小さな村の近くを通り過ぎた。老人ばかりで、狼にしゃぶり尽くされた骨みたく何も無い村だったが、そこには天火アトルがあった。


 その光を見た瞬間、これだ、と思った。


 だが、いくら彼とてうかつに天火に攻めかかることは出来ない。村を襲うことは、闇渡りにとっても相応の危険を孕む。煌都の怒りを買い、継火手を引き連れた軍勢と相対することになれば、彼らに勝ち目はない。森の中に引きこもろうと、法術によって木々ごと焼き払われるのが関の山だ。

 自分にはまだ奪うべきものがある。しかしそれは、彼の力だけでは決して手に入らないものだ。成程自分の直感に誤りは無かった、と思ったのだが、それだけに手に入らないという事実が不愉快でたまらなかった。何とかして、あの忌々しい継火手たちを皆殺しにすることが出来れば、天火を手中に収め、新たな煌都を造ることとて不可能ではない。
 その都の玉座に座る自分の姿を思い描いた時、これこそ自分が真実求めていたものだと確信した。


 王になること。それが、サウルが初めて描いた夢だった。


 そして、彼の願いを聞き届けたかのように、一振りの剣が与えられた。



◇◇◇



 エリコから撤退した後、サウルは一軍を率いて近くにあった村を襲撃した。先の戦いは、エリコの陥落こそ叶わなかったものの十分な戦果を挙げることが出来た。一方で、略奪を十分楽しめなかった連中がいるのも事実で、鬱憤ばらしという側面もある。

 無論、襲われた方はひとたまりもない。村の男は瞬く間に皆殺し。雪崩れ込んだ闇渡り達はあちこちの家を荒らしてまわり、遊び半分に老人の首を叩き斬っていった。

 歓声や嗚咽が満ちる中、サウルは広場に建てさせた天幕で、幾人かの美女を侍らせつつ酒杯を傾けていた。
 天幕が開き、貢物を持った闇渡り達が次々と中に入ってくる。エリコでの戦果はすでに知れ渡っており、彼の旗下に続々と闇渡りが集まっていた。サウルは、以前襲った村で手に入れた豪奢な椅子の上でふんぞり返り、馳せ参じてきた闇渡り達を尊大な表情で見下ろす。

 手駒が増えること自体は喜ばしいが、サウルにとってはいささか面倒だった。いかんせん、野心だけは一人前の弱小部族ばかりなのだ。経験不足な若い闇渡りが、ウドゥグの剣の力に魅入られて仲間入りを求めてくる。

 はっきり言って邪魔だった。魔剣の威光で押さえつけることは出来ているが、そのうち弱小部族同士で内輪揉めを始めるだろう。それを一々制圧していくのは面倒だ。

 だが、今は王国を作るための最初の段階だ。なるべく寛大に振る舞い、身内を少しでも増やさなければならない。切り捨てるにしても時と場合を考える必要がある。

「まったく、統治というのは思った以上に面倒だな……え?」

 ひとしきり来訪者を捌き終えると、サウルは杯を放り投げて言った。その言葉は、王座の陰に控えている一人の少女に向けられていた。

 喪服のようだが、所々切り込みの入った扇情的な衣装。鳥の翼を思わせる長い袖に、ほっそりとした白い腕を通している。人形のように冷たい美貌と、神秘的な青紫の瞳。
 トビアが居合わせたなら、驚愕せずにはいられなかっただろう。

「……そうね。あの人も、統治することを面倒くさがっていたわ」

 サラは果物の盛られた杯から、柘榴ざくろを一つ取り上げた。それを食べるでもなく、虚ろな瞳の前でゆっくりと回転させる。

 数か月前、初めてこの少女が姿を現した時、サウルも他の闇渡りたちも驚愕を隠せなかった。彼女が語った話の内容も、同時に彼女が携えてきた剣の力も。

「お嬢ちゃんの話を聞いてると、政治ってのはつくづく業が深いと思い知らされたよ。つまるところ、俺に魔剣こいつを持って暴れさせることで、他の煌都の足を引っ張ろうってんだろ? まったく、悪いことを考え付くもんだぜ」

「それだけ必死なのよ、ウルクの法官たちは。大坑窟の労働力を失ったうえ、他の煌都から追及や制裁を受けているのだから、当然ね」

「それを解決するための方法がこれ・・ってのは、ちょっとお粗末だと思うがな」

「あなたはどうなの? お粗末な策だと分かって乗ったのでしょう?」

 サラにそう切り替えされるやいなや、サウルは大口を開けて笑い出した。すぐそばで抱きかかえられていた愛妾たちでさえ、その禍々しいくぐもった笑い方に嫌悪感を抱く。サラも、煩わしそうに小さく鼻を鳴らした。

「お嬢ちゃんには分からねえだろうがな、男ってのは賭け事をしてナンボってもんさ。世界って賭場を舞台に、こんな面白そうな札を引いたんだぜ? 張らなきゃ生きてる甲斐が無え」

 鍔鳴りと共に魔剣を引き抜き、天幕の中の光に刀身をかざす。その鋭さは、新たに四人の継火手を殺したことによって更に磨かれたようだった。

「こいつは俺に夢を見せてくれた。生まれて初めて見た夢だ、何を踏み台にしたって掴んでやる」

 そう呟くサウルの目には、歳に見合わない幼い光が宿っていた。無論、多分に狂気を宿していたが。

 だが、そんな陶酔を邪魔するかのように、伝令の兵士が天幕の中に駆け込んできた。

「お頭、煌都の連中が追いかけてきてやがる!」

「なんだよもう来たのか……それとお頭って言うな。陛下と呼べ」

「へ、へいっ」

「ケッ、どうもな……まあ良い。さて、どうするか」

「迎え撃てば良いじゃない?」

 サラが割り込むが、サウルはその案を退けた。そろそろ兵糧が少なくなっており、部下の間でもストレスが溜まっている。こんな小さな村を略奪した程度では、三千人近い兵数は賄えない。ましてや新たにいくつかの部族も加わったのだ。減り方は今以上に早くなるだろう。

「こんなところで足止め喰らって、パルミラの都軍に追いつかれるのも面白くねぇな……一旦岩城に帰るとして……」

 ウドゥグの剣を片手でもてあそびながら、サウルはしばらくの間思案していた。やがて考えがまとまると、邪な笑みを浮かべて指示を出した。

「ついさっき、俺のためにどんな仕事でもするって連中がいたよな? 言葉通り、俺のために働いてもらうことにしよう」

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