闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第七十六節/多頭の蛇の巣 上】

 煌都パルミラは、砂漠を縦断するティグリス河に寄り添って作られた都市だ。大河の中にいくつも出来た中州に大小様々な橋が架けられ、その上を人や物が行き交っている。

 商人たちの都と称されるだけあって、色彩の華やかさや騒々しさは他の追随を許さない。ほぼ全ての橋にバザールが立てられ、小さな店を構えた店主たちが精いっぱい声を張り上げている。香辛料や香水、煙草の匂いが漂ってきたかと思えば、別のところからは肉の焼かれる匂いが漂ってくるし、川辺の方に行くと家畜やラクダの生臭い臭いが充満している。
 一戸建ての家は少なく、そのほとんどが石造りの集合住宅になっている。様々な物産品が集まるだけあって、家々の装飾や花壇に植えられた植物は、どれも何かしらの差異を持っている。女たちはそこで料理を作り、洗濯をし、掃除をするのだが、子供や男の姿はほとんど見られない。子供はどこかの商店に奉公に出されるし、男たちは市場で取引をするか、隊商として他の煌都へと出かけていくからだ。

 煌都の例にもれず、パルミラの中心部も大燈台ジグラットに違いはないのだが、それは川の中心にある最も大きな中州に建てられている。行政府や神殿はもちろんのこと、学院や図書館が併設されており、さらにはパルミラが運営する銀行まである。

 都営銀行は煌都の施策に重大な影響力を持ち、さらには他の煌都と有力商人が大事な取引をするための場も提供している。まさに、パルミラの心臓部と言って良い場所だ。

 そして、パルミラを牛耳る商人会議の議場も、この銀行の内部にある。

 パルミラが他の煌都と決定的に異なるのは、行政を豪商が取り仕切っているという一点に尽きる。

 元来、パルミラは交通の要所として栄えて来た都市だった。旧時代以前にはすでに存在し、流動する物と人が必ず通る、水門のような場所だった。だが、人が増えればそれだけ問題が増える。詐欺や強盗といった犯罪から、文化や為替の違いで生じる摩擦まで、人間の営みとともに様々な事件が発生する。

 そんな事件を調停してきたのは、その時々で権勢を誇った商人たちだった。彼ら成功者は、代々互いに競い合う競争相手であったが、そのためにはパルミラの平和と秩序が何よりも大切であることを良く心得ていた。

 現在の商人会議に集う五人の豪商も、その全員が平和主義者である。
 何故なら平和とは、暴力に頼らず言語と信用によって経済活動が成立している状態を意味するからだ。
 仮に戦争が起きたとて商売が消えることは無い。しかし市場の規模は限定的なものとなるだろうし、また市場の寿命そのものも短命なものにならざるを得ないだろう。それはおよそ効率的ではない。

 パルミラはそれ自体が巨大な市場であり、それが存在し続ける限り、資本家である彼らの財産は常に上昇し続ける。これは疑う余地のない経済法則であるが、もしこの法則が破れるようなことがあれば、彼らは即座に戦争主義者になるだろう。

 ……分厚い木の扉を隔てた向こうに居るのは、そういう連中だ。カナンは耳に掛かっていた髪を指で払った。

「行きましょう、ペトラさん」

「ああ」

 カナンは扉を開いた。鞄を持ったペトラがそのあとに続く。

 議場の中は思いのほか狭かった。長方形の室内には大きな円卓が置かれ、その真上には小さなシャンデリアが掛けられている。天井は妙に高いのだが、窓がどこにも無いため、墓穴の中にいるようだった。

 その円卓の反対側に五人の男女が座り、カナンとペトラを待ち構えていた。一見柔和な表情だが、その視線の鋭さにペトラは寒気を覚えたほどだ。

(おっかねぇー……)

 そんな感想を他所に、状況は進む。
 円卓の端に座っていた男が立ち上がり、二人に握手を求めた。

「ようこそおいで下さいました。私は倉庫貸しの商売をしております、ニカノルと申します」

 そう名乗ったニカノルは、四十代半ばの落ち着いた印象を受ける男だった。見る限り紳士的で、動作にも余裕が見られる。何より癖が無く、この商人たちの中では最も取っつきやすい人物だった。
 あるいは、そういう役割を持った男なのかもしれないな、とカナンは思った。他の連中は軒並み強い印象を与える者ばかりだった。

 ニカノルは居並んだ商人たちを二人に紹介していく。

 両替商のアナニアは髭を蓄えた痩身の老人で、一座の中では最年長だ。もっとも白い眉の下には、他者を圧倒する鋭い眼光が宿っている。金融を司る人間は油断ならない者が多いが、彼はその典型と言えるだろう。

 対して、穀物商のバラクは肩書通りに太った大男で、よく肥えた豚のように桃色の顔をしていた。控えめに言っても愚鈍そうだが、それこそ見た目に騙されているだけかもしれない。

 装飾商のデメテリオは、一座の中で最も若い男だった。まだ二十代……ギデオンよりも少し若いくらいかもしれない。その分野心的な顔つきで、ある意味最も分かりやすい男だった。

 そして最期の一人、妓館の主エステル。カナンには、彼女が最も印象的な存在だった。一座の中で唯一の女性ということもあるが、何よりその顔に刻まれた深い太刀傷は一度見たら忘れられない。若く美しいだけに、その独特の凄みは一層強く伝わってくる。

「以上が、議会の構成員になります。今はこのように簡単な挨拶となりましたが、また後日、親睦を深めたいと考えております」

「ありがとうございます、ニカノル様」

 カナンが礼を言うと、両替商のアナニアが咳払いを一つついた。

「親睦を深めるに足るかどうかは、貴女たちの提示する品物による。ここは商人の街だ。有意義な商品も持たず、腹をすかせた難民だけを連れてきたのであれば……我々が好意を寄せる理由が無い」

 アナニアは撥ねつけるように言った。それは無礼極まりなく、同時に恫喝混ざりの言葉でもあったのだが、かえってカナンには有難かった。表面上は友好的な態度をとられても、無意味な読み合いに付き合わされるだけだ。それならこうして、状況をはっきりさせてくれた方が分かりやすい。

「それは承知しています。確かに私たちの状況は良いとは言えない……けれど、取り引きをするに足るだけの物は持っています。ペトラさん」

「あいよ」

 ペトラは両手で持っていた鞄を机の上に置いた。留め具を外し、全員に中身が見えるよう向きを変える。

 そこには、天井の照明の光を反射させて輝く聖銀の延べ棒が敷き詰められていた。


「これはほんの一部に過ぎません。私たちは、馬車五台分の聖銀をもって、商売を始めたいと考えています」

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