闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第五十三節/若き剣士と闇渡りのシャムガル 上】

「うおおおおおっ!?」

 狭く暗い通路の中を、イスラとギデオンは全力で走っていた。

 背後からは大きな足音とともに、熊とモグラを足して割ったような大柄な生物が迫っている。蒼白いぶよぶよとした肌には体毛が一切なく、眼窩にあたる部分にも皮膚が張っていた。四肢は太く、特に前肢の先端はくわのようになっており、鉄のように硬く発達している。口の形は円形で、丸い口腔の内部には細かい歯がいくつも生えていた。
 二人は知る由もないが、この場にペトラがいれば、この生物を岩喰らいロックイーターと呼称したはずだ。

 最初は不死隊アタナトイに追撃されていた二人だが、徐々に地下へ地下へと押し込まれていき、いつの間にか追撃者が人間から怪物に代わっていた。瘴土の雰囲気を感じ取った二人は、これが新手の夜魔かと勘ぐったが、どうやらそうでもないらしい。

「おい、おい、おい! どうすんだよこれ!」

「騒ぐな。走らんと死ぬぞ」

「畜生!」

 こんな狭い場所ではまともに剣を振り回すことも出来ないため、二人は全力で走る以外になかった。無論地理に明るいはずもなく、地上に出るどころかどんどん泥沼へ入り込んでいっているわけだが、止まったら死ぬ。

 やがて広間のような場所にたどり着くと、ギデオンとイスラは合図をして左右に分かれた。直後に飛び込んできた岩喰らいは、嗅覚と聴覚を頼りに二人の位置を特定し、自分により近い方へと襲い掛かった。

「こちらに来たか、結構」

 ギデオンは長剣を抜き放つと、振り下ろされた爪を巧みに受け流した。岩喰らいの剛腕は狙いを逸れ床を砕く。間髪入れずにもう片方の腕でギデオンを殴りにかかるが、彼はそれを受けず、岩喰らいの脇をすり抜けつつ一閃を叩き込んだ。

「む……」

 しかし、手ごたえは良くなかった。思いのほか脂肪の層が厚く、内臓まで切っ先が届いていない。

「硬いぞ、闇渡り」

「おうっ」

 ギデオンが岩喰らいの攻撃を受け止めている間に、イスラはその背後へと回り込んでいた。剣の持ち手を思い切り背中側へと伸ばし、一瞬で間合いを詰め、全力で振り下ろす。ファルシオンはわずかに岩喰らいの背中に埋まったが、やはり痛打とはなっていない。

「糞っ、面倒だな」

 振り返りざまの一撃を避けつつイスラはぼやいた。距離を取り、再突撃の機会を探す。

「硬いと言っただろう、やり方を考えろ」

 ギデオンは狙いを脚部へと変えた。低い体勢から片足に集中攻撃を加え、振り下ろしや薙ぎ払いは紙一重のところで回避する。「チッ、偉そうに……!」彼が岩喰らいの注意を引いている間に、今度はイスラが真後ろから攻撃を仕掛け、巨躯を支える膝裏に着実にダメージを蓄積させていく。

 結局のところ、二人は岩喰らいの硬さに難儀しているだけで、所詮敵ではなかった。

 やがて体重を支え切れなくなった岩喰らいが崩れ落ち、背後に飛び乗ったギデオンが長剣を一閃させ首を刎ねた。

「思ったより手間取ったな。この程度の相手にこうも時間を掛けるとは……私もまだまだか」

 ギデオンは剣を振って血糊を落とし、布で丁寧に刀身を拭った。なまじ脂肪の厚い相手だっただけに、手入れをしないとすぐに切れ味が鈍ってしまう。
 自分の剣を済ませると、ギデオンは岩喰らいの身体をつま先で突いていたイスラに布を投げ渡した。

「貴様もやっておけ。武人のサムソン曰く、手入れを怠るは死の契約、だ」

 イスラは乱暴にファルシオンを磨きながら、かすかに首を傾けた。「どうした?」とギデオンがたずねる。

「いや……妙だって思ってさ。あんた、何でそんなに闇渡りの格言に詳しいんだ? それに、あんたの剣だって闇渡りが使うような中古品じゃないか。あの姉ちゃんの下についてるんだったら、もっと良い剣なんていくらでも手に入るだろ?」

 ギデオンは手の中にある剣に視線を落とし、微笑を浮かべた。それはどこか苦味を含んだ表情で、鉄面皮を崩さない彼には珍しく、深い感傷が見て取れた。

「そうだな……」

 ギデオンはここまで走ってきた道と、広間からさらに先へと延びている通路に目をやった。奥からは生臭い瘴土の臭いが漂ってきているが、かといって戻れば不死隊たちと戦う羽目になる岩喰らいにまた襲われないとも限らない。
 瘴土へ入るしかないとなれば、何か話の種を持っていかなければならない。そこでは、明るい話題は松明の火と同じくらい重要なものだ。もっとも、自分の抱えている話が明るいものとは言い難いが。

「これから瘴土に入る。そこ以外に道はなかろうからな……歩いている間に、貴様の疑問に答えてやろう」

 松明に火を着けなおして、ギデオンは闇に包まれた通路に踏み込んだ。イスラも荷物を背負ってそのあとに続いた。
 狭い空間に二人分の靴音が反響する。ねっとりと絡みつくような闇の中を歩きながら、ギデオンもイスラも、特に恐怖は感じていなかった。ギデオンは懐かしさを覚えていたし、イスラもイスラで、エルシャの剣匠と呼ばれる男の過去に興味があった。この二人ほど豪胆な人間ならば、心に瘴土の闇が入り込んでくることもそうそうありはしない。

やがて、考えをまとめたギデオンは淡々と話し始めた。

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