闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第五十節/投げ棄て!】

 翌日、地下の大燈台の遮光壁が開くのと同時に労働者たちはのろのろと小屋の中から這い出てきた。彼らにとって、いつもと同じ苦難と忍従の一日が始まるのだ。不死隊アタナトイの監視の目に常にさらされ、作業効率が落ちれば(あるいは高くても)容赦なく監督官の鞭が飛ぶ。疲労や空腹、渇きによって倒れたものは一片の慈悲さえ与えられずに奈落の底へと叩き落されるのだ。
 故に彼らは働くしかなく、いつか擦り減って死ぬと分かっていても、その日その日を乗り切っていかなければならない。

 そんな労働者たちの中の数人は、毎朝荷馬車に乗せたリンゴを運搬する仕事を充てられている。積み込みと運搬、そして積み下ろしは彼らの仕事であり、労働の質的には他の者と比べて若干易しい。もっとも、戻ってくれば他の者達と同様の仕事が待っており、夜の間に翌日の分のリンゴも積み込まなければならないため、結局他人より楽ということはないのだが。

 今朝も三人の運搬人たちは、昨夜積み込んだ荷馬車のところまでやってきて、布をかけた荷台に馬を繋いだ。

「……おい、この山、昨日より高くなってねえか?」

「何言ってんだ。盗んで減ったならともかく、リンゴが増えるわけねえじゃねえか。気のせいだよ」

「そうかい?」

「下らねえこと言ってねえで、さっさと手ぇ動かせ! さもなきゃ首を刎ねられちまうぞ」

 無駄口を叩いていたふたりを三人目の男が嗜める。二人はそれを脅しとは思わず、前任者・・・の辿った運命を思い出して身を震わせた。

 だがこの時一番肝を冷やしていたのは、間違いなくリンゴの下敷きになったイスラだった。

 荷台の上に山と積まれたリンゴ。その山の下に、イスラとギデオンは仰向けで横たわっている。荷馬車が動き出し、ガタゴトと揺れるたびに、身体の前面がリンゴで揉まれた。匂いにいたってはすでに数時間嗅ぎ続けているため、当分リンゴは遠慮したい気分である。

「……ずいぶん冴えた作戦だな、おい」

「で、あろう?」

「ボケっ、皮肉だ!」

 一歩間違えれば発見されて大騒ぎになる。さらに下手を打てば袋叩きだ。そんなリスキーな状況に身を置いたにも関わらず、ギデオンはイスラの隣でつい先ほどまで安らかな寝息を立てていた。

「何だ、寝なかったのか」

「こんな最悪の状況で寝れるかよ……」

「ふむ。いかなる状況にあっても睡眠が取れんようでは、一流の戦士とは言えんな。もっと精神の鍛錬を積むべきだ」

「だからって熟睡するかぁ?」

 さすがカナンの師匠、とイスラは思った。彼女のマイペースなところや能天気なところは、間違いなくこの師匠から受け継いだに違いない。

「貴様はずいぶんこき下ろすが、決して悪い策ではないぞ。ここにあるリンゴを見て、どう思う?」

「どうもこうもねえよ、腐りかけ……いや、本当に腐ってるやつまである。お陰で最悪の臭いだったぜ」

「そうだ。ユディト様の生活を見ていれば分かるが、ここに積んであるのはとても貴人に出すようなものではない。つまりここの被支配層……労働者たちに配られるものと私は睨んだのだ。であれば、当然各農地を巡るだろうし、その中には麻薬を作っている畑もある。それに、外周部の道は監視が少なく、岩肌を登ることも出来る。見つかったとしても逃げる余地がある」

「とは言ってもな……!」

「文句を垂れるな。貴様も最終的には賛成しただろう」

 確かに、こうして何かに紛れて移動するしか別の場所に行く方法が無いのも事実だ。どこかから服を奪うことも考えたが、不死隊の兵士だろうが、労働者だろうが、居ないと分かれば大騒ぎになる。入り込んでいるという状態がバレていないのは大きなアドバンテージだ。
 リスキー云々を言い始めたら、そもそも未知の領域で隠密行動をするという試み自体が無謀なのだ。それに乗って引き返せないところまで来た以上、これ以上愚痴を言っても仕方が無い。

「枝走りのカイナン曰く、細い枝でも駆け抜けよ、細い枝でも駆け抜けよ、細い枝でも……」

「闇渡りの格言か。……懐かしいな」

「あん? 何であんたが」

 イスラが訊こうとした時、馬車が止まった。「静かにしろ」とギデオンが小声で命じたので、イスラの疑問は一旦先延ばしになった。

 周囲を大勢の人間が動き回っているのが分かる。車輪の軋む音も一つ二つではない。一方的な怒声が方々に飛んでいて、その主が今まさに彼らの潜む馬車へと近づいてきた。

「ええい、遅い! 遅い! あの御方をお待たせするつもりか!? 火炙りになりたいか貴様ら! どけぃ!」

 酷い濁声と共に、鞭が飛び、人間の皮膚を抉る音が聞こえてくる。それでも、周囲を包む人々の声や車輪の動き、蹄の音はそのままだ。これがこの地下の日常なのである。

「何だか知らんが、酷ぇことしやがる」

「まったくだ」

 二人は人知れず憤慨したが、この状況では出来ることなど何もない。
 濁声の男は労働者たちに幌を開けるよう命じた。イスラは歯を食いしばり、ファルシオンの柄に手をかける。

「んん……? おい貴様らぁ!!」

 イスラは衝動的に動き出そうとした。その彼に、隣のギデオンが「待て」と鋭い叱責を飛ばす。

「し……新鮮なリンゴだあ!? こ、このクズ共ッ!」

 再び鞭が唸る。訳が分からないイスラは困惑しながら、それでも自体の推移を推察すべく息を殺した。

「おい、おかしくないか? あの御方とか言ってたってことは、偉いやつに差し出すつもりだろうが……こんな腐り物を?」

「どういうことかは分からんが……」

 矛盾した自体に疑問を覚える二人を余所に、外では監督官が怒りを爆発させていた。

「こんな物を差し出したら、俺の沽券に関わる!」

「ど、どうか半数だけでもお納めを……!」

「馬鹿がァ! 半端な数を差し出すとは不敬な奴! そんな不埒な考えを持っている者は教育だ! おい、荷台の物は全部棄てろ」

 荷台の中の二人は、リンゴで阻まれながらも顔を見合わせた。次の瞬間、荷台がグンと持ち上がったかと思うと、天地がぐるりと逆転した。

「うおおっ!?」

 地上の法則に従い、二人の身体は腐りかけのリンゴと一緒に大坑窟の巨大な縦穴へと引きずり込まれていく。その底知れない奈落を目にした時、さすがのイスラでも背中に冷や汗が浮かんだ。

「跳べ!」

 ギデオンの声が無ければ、飛び移る機会を逸していたかもしれない。二人は支えの無い荷台を無理やり足場代わりに使い、壁面に向かって跳躍した。無論、大した距離は跳べないが、壁との距離が近かったのは幸運だった。カエルのように張り付いた二人は、真っ逆さまに落ちていく荷台を見やって「ふう」と溜め息をついた。

 だが、事態が好転したわけではない。投げ捨てられた際に姿を見られたのか、頭上では大騒ぎになっている。先ほどから耳障りな濁声が何事かを怒鳴っており、弓矢で武装した不死隊たちが崖に集まってくる。

「これじゃ狙い撃ちだぞ!」

「分かっている。……とりあえずあの横穴に逃げ込むか」

 そう離れていない場所に、都合よく小さな坑道が作られていた。二人は可能な限りの速度でそこまで渡り、矢が放たれる前に何とか中へと滑り込むことが出来た。

「え、エラい目にあった……おい手前! どこが良い方法だ!?」

「喚くな、そんな余裕は無かろう。それに……はっはっ、博打打ちのサウル曰く、危機を楽しみ苦難を喜べ、だ。我々もその故事にならうとしよう」

「お、おい待てよ! まだ話は……!」

 怒鳴るイスラに一瞥もくれず、ギデオンは松明に火をつけて先々前へと進んでいってしまう。慌ててイスラは追いかけるが、彼の目には、ギデオンがどうにもはしゃいでいるようにしか見えなかった。

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