闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第三節/エルシャの剣匠】

 煌都の巨大な城壁には街の方へ張り出す形でいくつも民家が突き出ている。屋根には必ず小さな菜園があって、各々の食卓事情の改善に貢献している。そのため、都市の内側から城壁を眺めると壁が樹々で覆われているように見えるのだ。

 イスラは少女を抱えたまま、家と家の間を飛び越え、苗木を掻き分けながら楽々と城壁を上り詰めていく。
 微塵も恐れを見せずに動く彼は、少しずつ追いかけて来る兵士たちを引き離しつつあった。

「もうそろそろ諦めてくれるか……おい、どこまで連れて行けば―――」

 質問は途中で嘆息に変わった。「伸びてやがる」

 少女はイスラの腕の中でぐったりと脱力していた。
 まいったな、捨てていこうかな。そう思ったが、やめた。闇渡りの掟を破るわけにはいかない。

 イスラにとって、掟は絶対だった。夜の森の中をたった一人で生き延びてきた彼には、それ以外に守るべき規範が無かったのだ。
 そして、先人たちの教えは常に彼を助け、生き延びさせてくれた。

「もうそろそろ、頂上か」

 そこまで行けば下ろしても良いだろう。兵士たちがたたらを踏んでいる間にずいぶん高く登り詰めていた。

 ふと顔を左に向けると、溢れるほどの光を放つ煌都の風景が視野一杯に広がった。都の中央を貫く大通りはいつか火山の麓で見た溶岩流を彷彿とさせ、頂上に巨大な炎を戴く大燈台ジグラートは、見る者に溜息をつかせるほどに壮麗だ。

 だが、イスラはその眩しさにわずかに目を細めただけだった。

 都市の人間にとっては信仰の対象だが、彼にとってはそうではない。ここは異郷であり、彼は異邦人なのだ。物珍しさを感じこそすれ、畏敬や郷愁を抱くことなどありえない。

「やっぱりここは、俺の居るべき場所じゃない」

「その通りだ、闇渡り」

 独り言に対して、あるはずのない返答が返ってきた。

 がらんとした城壁の上で、一人の男が待ち構えていた。

 長身だが貧弱な印象とは全く無縁で、鍛錬に鍛錬を積んだであろう引き締まった肉体を備えている。黒い軍服を完璧に着こなし、風にひるがえる外套の下に一振りの長剣を吊るしている。顔立ちは精悍で、髪と同じ銀色の瞳は油断なくイスラを見据えていた。

「貴様はここに居るべきではない。その御方を置いて早々に立ち去れ」

「そうしたいとは思うけど、出来ない」

  イスラは即答した。「何故だ」男―――ギデオンは訊き返す。

「こいつは恩人で、その恩人が逃げたいと言ってる。掟に従って、その願いを叶えなくちゃならない」

「……義理堅いな」

 ギデオンは少し感心したような口調で言った。だが、右手は腰の剣へと伸びている。

「しかし難儀だろう? 曲げられないものがあるというのは」

「俺もそう思う」

 イスラは少女をその場に下ろし、腰に手を伸ばしながらじりじりと距離をとる。無論、逃げるためではない。戦うための姿勢だ。
 腰の後ろに手を伸ばし、そこに吊るしてある剣の柄を握る。得物の形や間合いは決して見せず、一気に接近して斬り捨てる。闇渡りの多くが好んで使う戦法だ。

 そのことはギデオンも理解している。これまで手合わせした者も、ほとんどが同じような手を使った。

 彼が相手取った歴戦の戦士に比べれば、イスラの構えはまだまだ粗削りだ。だが、ギデオンは微塵も油断していなかった。
 気迫は十分、しかし急に飛び出さないだけの冷静さも備えている。深く腰を落とし、相手を見据えたまま呼吸を整えている。素質があるな、とギデオンは思った。故に惜しい、とも。

「もう一度だけ言うぞ。退け」

 剣の柄を握ったまま勧告する。イスラは答えない……いや、すでに聞こえてさえいなかった。

「……」

 イスラは、己の呼吸の波長が戦闘に適応しつつあることを感じていた。
 普段はこれほど悠長に構えることは無い。機を逸してしまうからだ。だが……今回は事情が違う。

 ―――こいつに勝てるか?

 自問する。
 打ち込む隙がまるで無い。頭のなかでどう攻めるか考えているが、どうしても失敗する像しか思い浮かばない。

「ビビるな……」

 まだ抜いてさえいない相手を恐れるのは滑稽だ。
 居合い斬りの勝負であれば、自分の得物の方が優位に立てる。時間をかける暇も無い。先手必勝を決意し、イスラは駆けだした。


 刹那、イスラの脳内に火花が散った。


 そういう感じがした。強烈な衝撃を受けて脳が揺さぶられ、視界が暗転する。
 本能的に踏みとどまった。が、今度は右頬を捉えた拳に吹き飛ばされる。
 意識を飛ばされることは無かったが、石畳の上を三、四歩分転がる。そして、その石畳を砕くかと思えるほどの踏み込みとともに、ギデオンの長剣が振り下ろされた。

「糞っ!」

 咄嗟に剣で受け止める。まるで落石に遭ったかのような衝撃だった。両腕が痺れ、危うく剣を取り落しそうになる。だが、それほどの一撃を受けても、イスラの剣は折れずに支え続けていた。

伐剣ばっけんか……よくも折れなかったものだ」

 ギデオンが感嘆の言葉を呟いた。

「頑丈さが売りなんでね!」

 徐々に押し込まれながら、イスラは最初の一撃が何だったのか見当をつけた。抜刀の勢いに任せて、剣の柄尻で殴ったのだ。

「いきなり小技を使いやがって……!」

 イスラは押し潰すかのように迫る刀身を受け流し、素早くその場から飛びすさった。改めて右手の伐剣を構え直し、左手で腰に差していたナイフを引き抜く。

 伐剣は曲刀の一種だが、その刀身は異様なほど分厚い。先端は鋭く反り返り、握り手を覆うようにナックルガードが付けられている。
 森のなかで暮らす闇渡りにとって、樹々を切り開くための鉈や斧は必要不可欠なものだが、それらの機能を一手に持たせたのがこの伐剣だ。切れ味は悪いが頑丈で、破壊力もある。
 イスラにとって何よりも頼りになる得物だ。

「行くぞ!」

 イスラは一気に距離を詰めて伐剣を薙いだ。ギデオンは難なくそれを受け止めるが、イスラはさらにナイフで追撃をかける。
 狙いは、相手の指。
 人を相手にする場合、手さえ潰せばどうとでもなる。伐剣をこれ見よがしに振るいながら、ナイフでしつこく指を狙う。突いて、突いて、突いて、時々斬撃を織り交ぜ、また刺突に戻る。

 だが、釣れない。ギデオンは動じるどころか、鬱陶しいとさえ思っていない。全てお見通しとばかりに回避し、反撃を加えてくる。

 ―――おいおい待てよ、冗談じゃねえぞ。何で伐剣とナイフの両方を、長剣一本でいなせるんだ?

 答えは簡単、考えるまでもない。踏み込めていないからだ。

 ギデオンは長剣の間合いを決して崩さない。イスラがナイフを届かせようとすれば、必ず無理をしなければならない距離を維持している。
 ならば伐剣で……と行きたいが、そちらで攻めようとすると、先手を打って斬撃が降ってくる。防ぐしか無い。

 ナイフは届かない。伐剣を使おうとすれば制圧される。状況を変えるためにまたナイフで攻めるが、結果は同じだ。

「やべぇ……」

 焦りが口から出てしまった。その隙を見逃すギデオンではない。

 押し飛ばすような強烈な斬撃がイスラを襲う。何とか防ぐが、両足が地面から離れた。「っと……!」ギデオンは手を抜かない。態勢を崩したイスラに突きを見舞う。一手、二手と疑似餌を仕込んだ後に一気に踏み込み、矢のような勢いでイスラの首筋を狙う。
    だが、その程度なら読めていた。イスラは左に飛んでやり過ごし、隙だらけになったギデオンの側面を狙う。

 完全にったと確信していた。それだけに、視界が手で塞がれた瞬間、何故暗転したのか分からず反応が出来なかった。

 もっとも、仮に反応出来ていたとしても、回避することは出来なかっただろう。ギデオンはイスラが横に避けることまで織り込み済みだった。三手目の突きも囮だったのだ。そして、どれほど屈強な人間であろうと首の筋肉は鍛えられない。

「終わりだ」

 万力で頭骨を締めあげられているかのようだった。ギデオンの手はイスラの頭を完全に捉え、そのまま持ち上げる。
 イスラが反撃するより早く、彼の身体はボールのように放り投げられていた。
 たたらを踏みながら着地したイスラの目の前にギデオンの拳が迫る。

「舐めるなッ!」

 態勢を崩しながら放った苦し紛れの突きは、わずかにギデオンの右頬に裂傷を作った。
 無論、そんな攻撃で彼を止められるわけも無く、顎を捉えた一撃がイスラを吹き飛ばした。

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