絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~

巫夏希

第百八十七話 攻略作戦、中盤Ⅲ

 それを聞いてマーズは舌なめずりした声を出す。

「ふうん……」

 彼女としては生きたい気持ちが優っていた。けれども彼女としてはその『副作用』というのが引っかかった。その副作用とはどういう意味なのか、どうせ訊ねても答えてくれないような気がしたので、マーズは何も言わないことにした。

「何を迷っているんだい? 君からすれば選択はたった一つしかないじゃないか。ほら、さっさと選ぶんだ。その力を手に入れるんだよ。簡単だ。難しいことではない」
「難しいことではない、ね……そうかもしれないけれど、人間には一応『決意』ってもんが必要なのよ。それをどうにかして正当化するための考え事。まあ、今回は生きるためだといえばそれまでの話だけど」
「ならばいいではないか。さっさとそれを受け入れろ。そして僕との素敵な素敵な賭け事をはじめようじゃないか」
「……なんかいけすかないけど、私は確かに『生きたい』。それは確か。ならば仕方ない。……いいわ、その戦い、受けて立つ」

 マーズは帽子屋との賭け事を『戦い』と称して言った。それは聞いていた彼にとっても想定外のことだったのか、一瞬思考が遅れて、そしてそれに気づいたようにシニカルに微笑む。

「は。ははっ! 人間風情がシリーズに戦いを挑むっていうのか! 面白い! 面白いねえ! これだから人間は面白いのか! チェシャ猫も白ウサギもバンダースナッチも……漸くあいつらが言っていることが理解できたような気がするぞ!」

 帽子屋は興奮しているようにも見えた。
 そしてそれは間違いではなかった。現に帽子屋は興奮していた。そしてそれを抑えるので精一杯だった。彼が人間だった時代もあったが、シリーズになってこれほどまでの興奮を覚えたのも初めてのことだった。

「……面白いねえ。ほんとうに面白い」

 そう言って、マーズの顔を撫でる。

「……君ほどの気品もあれば、オトコってもんはホイホイやってくるんじゃないかい?」
「生憎私はまだお付き合いをしようなんて思っていないの。まだこの身体は国のために働かなくてはならない。そう……強いて言うならば、私は国と、リリーファーと結婚したようなものよ」
「リリーファーと結婚……くくっ、そんなことが出来るとでも思っているのか。いくら表現の問題だからとはいえ、無理な話だ」

 表現の問題、と帽子屋は自らでその答えを言っているのにそれを否定するというのは少々おかしな話である。
 帽子屋はポケットから何かを取り出した。

「……まあ、いい。とりあえずこれからはじめよう。バンダースナッチは聞いたことがあるかい。マーズ・リッペンバー」
「……名前だけは、ね」
「そうかい。この世界の人間はあんまりおとぎ話を知らないからねえ……。『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』……、そういうおとぎ話が生まれた世界の人間はそういうのを知っているんだろうけれど。……って、あれ? 君もこの世界で生まれた人間じゃなかったっけ。どこかでそういう話を耳にしたとか?」
「タカトが教えてくれたのよ」

 マーズは答える。

「タカト……ああ。大野崇人、この世界ではタカト・オーノと呼ばれている人間だね。君はタカトの保護者であり、タカトが初めてこの世界で出会った人間でもある。なら、そういう話を聞いてもおかしくはない……か」

 帽子屋はマーズの周りを歩き出す。
 鼻歌を歌いながら歩くその光景を、マーズはただ眺めることしか出来なかった。というよりも、相手の様子を伺うためにはそれしか方法がないのだ。

(あいつ……急かしたり焦らしたりと忙しいな……。何が目的なんだ?)
「バンダースナッチが出てきているのは、『ジャバウォックの詩』だったかな。もしかしたら『スナーク狩り』、或いはその両方かもしれない。ともかく、それに記述されている。あとはさっきもいった『鏡の国のアリス』。しかしそのどれも、バンダースナッチについて詳細に書かれていないんだ。バンダースナッチはどんな形をしていて、どんな大きさをしているのか解らない。……まあ、そこまで忠実にする必要がないにしろ、それはたぶん『アリス』が一番素晴らしいと思ったことの一つなのかもしれないね」

 帽子屋は踵を返し、マーズの方を向いた。

「……まあ、それはそれとして、バンダースナッチは即ち『単数』か『複数』かすら解らない、謎に包まれた生き物なんだよ」
「……何が言いたい?」

 マーズは痺れを切らして、言った。
 対して帽子屋は溜息を吐く。

「やれやれ、人間というものはどうしてここまで慌てるのか。先を知りたがるのか。だから程度が低いんだ。だから面倒臭いんだ。だから僕が面と向かって関わりたくないんだ。……まあ、いい。バンダースナッチは複数でも単数でも構わない。それが意味することは――」

 そう言って、帽子屋はポケットから取り出したそれを見せつけた。
 それは瓶だった。瓶の中には黒いボールが入っていた。その大きさは手のひらよりも小さい。

「……これはバンダースナッチの魂だ」
「さっきあなた、バンダースナッチは生態不明だとか言っていなかったっけ」
「謎に包まれている、とは言った。だがそれも『あっちの世界のおとぎ話』の話だ。『こっちの世界の僕たち』に関してはバンダースナッチはすでに定義されていて、存在しているんだよ。君はこれで『二つ目』だ」

 そう言って。
 帽子屋はマーズのお腹に、瓶から取り出した黒いボールを埋め込んでいく。しかし、手が埋まることは常識的に考えられない。
 だが。


 ――入った。


 帽子屋の手が、マーズの腹部に、ゆっくりと入っていく。

「……な……!」

 マーズは自らの見ている光景を疑ってしまうほどだった。当然だろう。自らの腹部に腕が入っているのだ。しかも少しだけではなく、確実にゆっくりと腕を飲み込んでいく。
 そして、彼女にはそれが入っていく感覚があった。

「く……あぁ……っ」

 嬌声を上げ、彼女は力を込める。彼女の頬は紅潮していて、どこか艶っぽい。それを見て帽子屋は微笑み、彼女の肌を伝う汗を舌で舐めとった。
 帽子屋はぐりぐりとマーズの腹部を弄り始める。それはマーズにとって苦痛であった。
 しかし、徐々にマーズはその苦痛が苦痛だと感じなくなっていった。そしてそれが『愉悦』であるということに気付くまでそう時間はかからなかった。
 だが、彼女はそれを認めたくなかった。
 彼女は『苦痛』が『愉悦』に変わっているという事実を信じたくなかった。

「信じるのも疑うのも結構。でも君の身体は正直だ。やはりこの世界の『耐性』があるし、このバンダースナッチの魂を受け入れる器も用意されてある。充分だ。充分すぎるほどだ。あとは君自身の精神がそれに耐えうるかどうか……それが問題だね」

 そして。
 マーズの身体の『器』に完全にその黒いボールが埋め込まれた。
 マーズの身体から帽子屋の身体が引き抜かれた後も、マーズはそこにまだ何かが残っている感覚と身体が疼いている感覚があった。
 何を埋め込まれてしまったのかは解らないが、このこと自体彼女にとって屈辱的行為であったことにはかわりないはずだ。しかしそれを帽子屋に言っても無駄なことは、いくら彼女にだって理解できることだった。

「……身体が落ち着くまで、まだ時間がかかるのかな? 身体がまだ火照っているのかもね」

 そう言って、帽子屋は再びマーズの身体を撫で回す。マーズはせめて顔だけでも抵抗の意志を示そうと考えてはいたが、それを行動に示すことが出来なかった。
 マーズの目は虚ろで、口からははあはあと喘ぎ声を漏らしていた。
 帽子屋は呟く。

「……君が落ち着いてきたら、君を元の世界に戻してあげよう。そしてそれから僕と君の賭け事は始まる。努努忘れないでおくんだね」

 そう言って帽子屋は踵を返しゆっくりと立ち去っていった。
 あとに残ったのは、水滴がその下に形成された水たまりに落ちる音とマーズの小さな喘ぎ声のみだった。

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