絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~

巫夏希

第百十七話 夢想

 タカト・オーノは微睡みの中で目を覚ました。
 そこは大きな木の根元だった。あたり一面には彼が見たこともないような花畑が広がっていて、タカトはそれを見て思わず笑ってしまうほどだった。

「……いったい、ここはどこだっていうんだ?」

 タカトは立ち上がり、周りを見渡す。
 しかし、周りにもその花畑が延々と広がっているだけで、特になにもなかった。
 タカトはここが何の空間だか解らなかった。
 強いて言うならば、ここは自分の生きていた世界とはまた別の世界だということを、証拠こそなかったが確信していた。

「なあ……誰かいるなら返事してくれよ……」

 タカトはそう言って、ゆっくりと庭園を歩き始める。しかし、いくら歩いてもなにも出てこなかった。

『ここだよタカト』

 そんな時だった。
 彼を呼ぶ声がした。
 その声はか細いものだったが、それでもタカトの心を直接揺さぶるような、そんなはっきりとした声だった。
 いったいこの声は誰のものなのか。
 そんなことは、彼が考えなくてもすぐ解ることだった。

「……エスティ、エスティなのか!?」

 タカトは叫んで、その声のする方へと駆け出した。
 走って、走って、走って、走り続けて、それでもなにも世界は変わらなかった。

「エスティ……エスティ……、お前はいったいどこに居るんだ?!」
『タカトくん、もっと、もっとこっちだよ。もっと、もっと、もっと、もっと、その先へ』
「もっと、か!」

 走って、走って、走る。
 エスティの声を聞いて、さらにタカトは走っていく。
 それでもなにも景色が変わることはなかった。

『そうよ、タカト。さらに進むの……頑張って……その先へ……』
「もっと、もっと、もっと、もっと!」

 走る、走る、走る、走る。
 彼自身の命の炎を燃やすように。
 彼女に会いたい、というただ一心で――タカトはその世界を走っていた。
 もう彼女は死んでしまっているのに。
 もう彼女の姿を見ることはできないというのに。
 それでもタカトは諦めたくなかった。
 それを考えると、タカト・オーノ――いや、大野崇人という人間は諦めが悪すぎる人間ということになろう。
 しかし、それが人間というものだ。
 人間というものは、案外そういうものを忘れられずに、諦められずに、そのままそれを追いかけてしまう傾向にあるものだ。
 だからこそ、人間はそれを追いかける。そして、それを追い求める。
 今のタカト・オーノもそれに漏れず、エスティ・パロングというひとりの女性を追いかけていた。
 タカトは彼女が好きだったのだ。
 だからタカトは彼女の声を聞いて、彼女に会いたい気持ちがタカトの心を支配してしまったから――彼女の声を求めることとしたのだ。

「エスティ……どこだ……どこにいるんだ……!」

 タカトはそう叫んで、さらに大地を駆け出す。裸足だったからか、足の裏は汚れていた。さらに傷だらけで、その傷から血が滴り落ちていた。

『私はこっち……』
「どこだっ!!」

 タカトは追いかける。
 ただ、彼女の声のみを頼りにして。
 その大地は間隔を空けて樹木が生えていた。その樹木の大きさも様々で、中には今から生えて大きな樹へと育つような若葉もある。
 それを横目に、さらにタカトは駆けていく。
 そしてタカトは漸くそこへ辿りついた。
 そこはひときわ大きな木の根元だった。

「……なんだここは……木?」
『タカト……ここだよ……』
「エスティ、どこにいるんだ!」

 タカトは叫んで、周りを見渡す。
 そして、タカトはついにひとつの結論を導いた。

「まさか……エスティ……お前、この木だっていうのか!?」

 そこにあった一本の大木から、エスティの声が聞こえてきていたのだ。
 エスティの声は、さらに続ける。

『そう……。私はこの木の中から聞こえてくるのね。そうよ、そうなの。……ねえ、タカト……あなたは決して死んではならない』
「死んで……? 馬鹿な、生きているぞ!」
『それはまやかしに過ぎない。あなたは死んでいるの、既に、とっくに』
「まやかし? 死んでいる? どういうことだ?」
『あなたはとっくに死んでいるの。そう、死んでいるのよ。その事実に気がつかないだけ』
「気がつかない? 何が言いたいんだ? まったくもって理解できないぞ」

 そう。
 今のタカト・オーノはエスティの言葉を理解出来なかった。
 理解することが出来なかったのではない。理解しがたいことだったのだ。
 現にタカト・オーノはこの場に立っている。そしてエスティと会話をしている。
 だのに、どうして『死んでいる』といえるのだろうか? タカトはまったく理解できなかった。

「……俺は死んでいない。俺はここに居る、それは間違っていないはずだ!」
『間違っていない……そう。たしかにあなたはなにも間違っていない。間違っているのは私……なのかもしれない』
「な、なあ……エスティ……まったく意味がわからないよ……」
『私はエスティ・パロング。だけれど、「あの世界」のエスティ・パロングではない。私はこの世界におけるエスティ・パロングなのよ』

 タカトはそこで漸く意味を理解した。
 タカトは死んだのではない。気を失ったのではない。
 また別の世界へと、移動してしまったというのだ。
 拉がれるタカトをよそに、エスティの言葉は続く。

『……ここはまた別の世界。だけれど、クローツがある世界と結びつきが強いのもまた確か。だからあなたが来ることは充分ありえるし、それを待っていた』
「どういうことだよ……どうしてエスティは姿を見せてくれないんだ」

 タカトはそう言って、木に拳をぶつけた。
 だが、木に反応もなく、エスティが現れる様子もない。

『ここはあなたが来てはいけない場所なのよ』

 エスティの話は続く。

『ずっとずっとずっとずっと、待っていた。何度間違えても、あなたはここへやってきた。私は選択を誤ったなんてことはない。たしかにこの世界に留まっていれば、あなたはいい人生を送れるのかもしれない。平和な生活となるのかもしれない。だけれど、そうもいかない。あなたは元の世界へと戻らなくてはならない。そのためには、あの世界へ、「クローツ」へ戻る必要があるの』
「エスティ、一緒に戻ろう。君も一緒に、あの世界へ戻ろう」

 そう言って、タカトは弱々しく手をあげた。
 そして、その手はゆっくりと、しかししっかりと、木に触れた。

「なあ、エスティ……戻ろう」

 タカトの目からは涙が零れ落ちていた。

『……ダメです。ダメなんです。私はこの世界から離れることは出来ない。私はこの世界に住み、この世界に生きるもの。あなたの世界に行って、共にすることは無理なんです』
「……本当に、ダメなのか?」

 その声とちょうど同時に、タカトの背後にまばゆい光が照らし始めた。
 その光に気づいて、タカトは振り返る。

『……ついにあなたが帰る時がきました。さあ、帰るのです』
「いやだ! エスティ、君も行こう!」

 しかし、エスティの姿は見えない。

『私は……この世界でしか生きることが出来ない……』

 タカトは何かに捕まったような感触を覚えた。
 光から伸びてきた手足に捕まってしまっていたのだ。

「い、いやだ、いやだ!」

 タカトは必死に抵抗する。しかし、無情にもタカトの身体はゆっくりと後退していく。

『さようなら、タカト・オーノ。また会えることを願っています……』
「エスティ、まだ間に合う!! 来い!!」
『ダメです。なぜなら私は――』


 ――そして、タカトの視界を完全なる光が支配した。





 タカトが居なくなって、エスティ・パロングは小さなため息をついた。
 最後の言葉は、彼に届いただろうか。
 最後の言葉の意味を、彼は理解してくれるだろうか。
 いや、きっと理解できないだろう。
 そして、その言葉を聞いていることもないだろう。
 それでいい。それでいいのだ。
 この世界での彼女は、ただタカト・オーノを元の世界に戻すだけで、充分な価値を見出していたのだ。

『出来ることならば、また……いや、きっとまた会えるはず』

 タカト・オーノに再会を約束して、エスティ・パロングの声は消えた。

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