絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~
第九十七話 壁の中の住人
フェムトというスラム街は、食に困っていない数少ないスラム街である。
そもそもスラムというのは町が行う公共サービスを受けられない極貧層が居住する過密した地域のことを指し、だから『食に困っている=スラム』というのは少々お門違いなところがある。
フェムトでは畑を共同管理して、それから出た産物を管理時間の割合で配分する――というシステムを導入しており、つまり貧しい生活ながら食に困ることはそうない、ということである。
共同管理システムによる食料管理。
これを実現させた数少ないスラム街、それがフェムトである。
その町に暮らすひとりの少年、ウルは今日も取り分である産物の入った袋を抱え、彼が住む家へと向かった。
家に入り、荷物をキッチンに置く。キッチンとはいうが、実際には木箱の上にまな板代わりの小さい板とサバイバルナイフ、水桶があるだけという簡素なものである。
麻袋の封を開け、中から産物を出していく。じゃがいも、さつまいも、大豆、人参、トマト、豚肉、それぞれ一個(またはひと切れ)づつ出した。
これが彼の夕食の材料である。主食がないように見えるが、そのような贅沢をする余裕など彼にはない。
「今日はどんな料理を作ろうかな……」
そんな長閑な風景が広がっていた。
そんな、時だった。
その音を聞いたとき、ウルは最初にこう思った。
――巨大な獣が、叫んだ声だ
しかし、直ぐに彼はその考えを撤回することとなる。
なぜか?
スラム街から見える、カーネルを囲う壁が破壊されていたのを見たからだ。壁は破壊されて、そこからあるものが覗いていた。
「リリーファー……」
ウルは、それがリリーファーであることを直ぐに理解した。
黒い躯体に、引き立てるように存在するピンクのカラーリング。
彼がリリーファーに詳しかったならば、直ぐにそれが『ペルセポネ』であると解っただろう。しかし彼はリリーファーがリリーファーであることが解っただけでも、普通の人間ではできないことだ。恐らくは、彼の兄がリリーファーの起動従士訓練学校に入っていたから――だろうか。
リリーファーはゆっくりと動いて、壁の中へと入っていく。
足元にある建物や、人々は、地面に群がる蟻のように無残にも踏み潰されていく。
それについて、意外にもウルは怒りを覚えなかった。
どちらかといえば、嬉しかった。
彼はこの世界から解放されたかった。
兄を殺した――いや、もしかしたら生きているのかもしれないが――この都市を出て行きたかった。
しかし子供の独り身。お金もなければ働いていく技術もなかった。
だからこの都市から出してくれる機会を、今までずっと待っていたのだ。
「……ああ、カミサマ……」
彼には、そのリリーファーが神様に見えていた。
そのリリーファーは、彼の住んでいた場所を、これから破壊し尽くしていくというのに。
それだとしても。
今の彼がそれを聞いたとしても――関係ないと突き放すだろう。
今の彼に、この都市を懐かしむ気持ちなどない。
◇◇◇
その頃。
エル・ポーネを目指していた崇人たちは、新たにフェムトに向かうことに決定した。理由は単純明快、ウルを助けるためである。
「普通ならばそんなことは絶対にしないはずだが……まあ騎士団長の命令だから仕方がない」
ヴァルトはぶつくさ言いながらも進路を変更し、今崇人たちを乗せた車はフェムトへと向かっている。
そもそも彼らが乗る車はフェムトでウルの兄が持っていた車だった。だからそれを返却すべきだ――崇人がそう言ったためである。
「……お前くらいだぞ。実際車を返却しに、わざわざ戻るのは」
「戻るんじゃあない。これは『任務』のためには必要なことだろう?」
崇人の言葉に、マーズはため息をつく。
マーズは別に崇人の意見に反対しているわけではない。むしろ賛成の立場である。
にもかかわらず、そのような反応をするのは、崇人がはっきりとそう物事を口に出したからということである。
この年齢で、そう物事をはっきりと口に出して行動出来る人間は居ない。彼がそれを出来るのは外見こそ違うが内面は三十五歳の企業戦士だからということなのだが、それを知るのはマーズやアーデルハイトといった数少ない人間だけである。
「『任務』……か。随分と、この時代には生きづらそうな騎士団長だな。まあ、≪インフィニティ≫のためには仕方のないことなのだろうが」
そう言ってヴァルトは皮肉を飛ばすが、崇人はそれを聞いてただ微笑むだけだった。
「そんなことを話している場合か?」
ヴィエンスが口を開いたのは、ちょうど会話の間となった時だった。
「どうかしたか、ヴィエンス?」
「お前たちがなんだかんだ色んな話をしているうちに、どうやら目的地が見えてきたようだぞ」
そう言ってヴィエンスは窓を開け、前を指差した。
そこに見えたのは、見覚えのある高層ビル群と破壊された壁だった。
「あそこまで破壊したのか……ペイパスのやつら、少し強引過ぎだ」
そう言ってマーズは舌打ちした。
彼らを乗せた車は、南カーネルの住宅街エル・ポーネへと進んでいく。
◇◇◇
エル・ポーネでは人々が逃げ惑っていた。
無理もない。突然のリリーファーによる壁の破壊は、人々に大きな不安を植え付けた。
逃げ惑う人々を、容赦なく踏み潰していく存在。
リリーファー『ペルセポネ』。
民有リリーファーだが、ペイパス王国に属するこのリリーファーは今、カーネルを壊滅させるために動いていた。
ペルセポネの目的は、カーネル壊滅。
そしてその後の、ペイパスによるカーネル支配も視野に入れた形で、という条件付きではあるものの、今、ペルセポネはそれを達成させるために動いている。
凡ては計画通り。
そんなペルセポネのコックピットにいるひとりの少女は――操縦しながら未だ考えがまとまらずにいた。
なぜ自分はこのようなことをしているのか? なぜこんなことをしなくてはならないのか? 彼女の頭の中は疑問だらけだった。
しかしながら、彼女にはそれを断る権利など存在しなかった。
理由は簡単、彼女の父親のせいだ。
彼女の父親が彼女を起動従士に推薦した。理由は彼の地位のためだ。
彼の地位をより固いものとするために、彼は自分の娘を起動従士としたのだ。
それにより彼はペイパス王国で絶対的な地位を誇り、今や王族すらも凌駕するほどだという。
その報告を、ひとり本宅から離れた起動従士の寮で聞いて、彼女は苛立ちを覚える。
――どうして、あの男のために、戦わなくてはならないのだ!
彼女は何度も何度も反抗しようと考えた。
しかし、ヴァイデアックス家の後ろ盾を無くしてしまうと彼女の地位が無くなってしまう。
即ち、彼女の存在が無くなってしまうということと同義である。
彼女はそれを知っていたから、思い切って父親に反旗を翻すのが難しかった。
だが、もう――。
「……私はこのままだとヒトで無くなってしまうかもしれない」
彼女が行ったことは、人間としてやってはいけないことだった。
人間の大量虐殺。
それを考えて――ふと彼女は自分の手を見た。
彼女の手は白く透き通るような美しさだった。しかし、今の彼女にはそれが血に塗れているような錯覚に陥っていた。
「もう……戻れない……」
彼女はもう、まともな考えを持ってはいなかった。
気がつかないうちに、人間という考えから常軌を逸脱していたのだ。
そもそもスラムというのは町が行う公共サービスを受けられない極貧層が居住する過密した地域のことを指し、だから『食に困っている=スラム』というのは少々お門違いなところがある。
フェムトでは畑を共同管理して、それから出た産物を管理時間の割合で配分する――というシステムを導入しており、つまり貧しい生活ながら食に困ることはそうない、ということである。
共同管理システムによる食料管理。
これを実現させた数少ないスラム街、それがフェムトである。
その町に暮らすひとりの少年、ウルは今日も取り分である産物の入った袋を抱え、彼が住む家へと向かった。
家に入り、荷物をキッチンに置く。キッチンとはいうが、実際には木箱の上にまな板代わりの小さい板とサバイバルナイフ、水桶があるだけという簡素なものである。
麻袋の封を開け、中から産物を出していく。じゃがいも、さつまいも、大豆、人参、トマト、豚肉、それぞれ一個(またはひと切れ)づつ出した。
これが彼の夕食の材料である。主食がないように見えるが、そのような贅沢をする余裕など彼にはない。
「今日はどんな料理を作ろうかな……」
そんな長閑な風景が広がっていた。
そんな、時だった。
その音を聞いたとき、ウルは最初にこう思った。
――巨大な獣が、叫んだ声だ
しかし、直ぐに彼はその考えを撤回することとなる。
なぜか?
スラム街から見える、カーネルを囲う壁が破壊されていたのを見たからだ。壁は破壊されて、そこからあるものが覗いていた。
「リリーファー……」
ウルは、それがリリーファーであることを直ぐに理解した。
黒い躯体に、引き立てるように存在するピンクのカラーリング。
彼がリリーファーに詳しかったならば、直ぐにそれが『ペルセポネ』であると解っただろう。しかし彼はリリーファーがリリーファーであることが解っただけでも、普通の人間ではできないことだ。恐らくは、彼の兄がリリーファーの起動従士訓練学校に入っていたから――だろうか。
リリーファーはゆっくりと動いて、壁の中へと入っていく。
足元にある建物や、人々は、地面に群がる蟻のように無残にも踏み潰されていく。
それについて、意外にもウルは怒りを覚えなかった。
どちらかといえば、嬉しかった。
彼はこの世界から解放されたかった。
兄を殺した――いや、もしかしたら生きているのかもしれないが――この都市を出て行きたかった。
しかし子供の独り身。お金もなければ働いていく技術もなかった。
だからこの都市から出してくれる機会を、今までずっと待っていたのだ。
「……ああ、カミサマ……」
彼には、そのリリーファーが神様に見えていた。
そのリリーファーは、彼の住んでいた場所を、これから破壊し尽くしていくというのに。
それだとしても。
今の彼がそれを聞いたとしても――関係ないと突き放すだろう。
今の彼に、この都市を懐かしむ気持ちなどない。
◇◇◇
その頃。
エル・ポーネを目指していた崇人たちは、新たにフェムトに向かうことに決定した。理由は単純明快、ウルを助けるためである。
「普通ならばそんなことは絶対にしないはずだが……まあ騎士団長の命令だから仕方がない」
ヴァルトはぶつくさ言いながらも進路を変更し、今崇人たちを乗せた車はフェムトへと向かっている。
そもそも彼らが乗る車はフェムトでウルの兄が持っていた車だった。だからそれを返却すべきだ――崇人がそう言ったためである。
「……お前くらいだぞ。実際車を返却しに、わざわざ戻るのは」
「戻るんじゃあない。これは『任務』のためには必要なことだろう?」
崇人の言葉に、マーズはため息をつく。
マーズは別に崇人の意見に反対しているわけではない。むしろ賛成の立場である。
にもかかわらず、そのような反応をするのは、崇人がはっきりとそう物事を口に出したからということである。
この年齢で、そう物事をはっきりと口に出して行動出来る人間は居ない。彼がそれを出来るのは外見こそ違うが内面は三十五歳の企業戦士だからということなのだが、それを知るのはマーズやアーデルハイトといった数少ない人間だけである。
「『任務』……か。随分と、この時代には生きづらそうな騎士団長だな。まあ、≪インフィニティ≫のためには仕方のないことなのだろうが」
そう言ってヴァルトは皮肉を飛ばすが、崇人はそれを聞いてただ微笑むだけだった。
「そんなことを話している場合か?」
ヴィエンスが口を開いたのは、ちょうど会話の間となった時だった。
「どうかしたか、ヴィエンス?」
「お前たちがなんだかんだ色んな話をしているうちに、どうやら目的地が見えてきたようだぞ」
そう言ってヴィエンスは窓を開け、前を指差した。
そこに見えたのは、見覚えのある高層ビル群と破壊された壁だった。
「あそこまで破壊したのか……ペイパスのやつら、少し強引過ぎだ」
そう言ってマーズは舌打ちした。
彼らを乗せた車は、南カーネルの住宅街エル・ポーネへと進んでいく。
◇◇◇
エル・ポーネでは人々が逃げ惑っていた。
無理もない。突然のリリーファーによる壁の破壊は、人々に大きな不安を植え付けた。
逃げ惑う人々を、容赦なく踏み潰していく存在。
リリーファー『ペルセポネ』。
民有リリーファーだが、ペイパス王国に属するこのリリーファーは今、カーネルを壊滅させるために動いていた。
ペルセポネの目的は、カーネル壊滅。
そしてその後の、ペイパスによるカーネル支配も視野に入れた形で、という条件付きではあるものの、今、ペルセポネはそれを達成させるために動いている。
凡ては計画通り。
そんなペルセポネのコックピットにいるひとりの少女は――操縦しながら未だ考えがまとまらずにいた。
なぜ自分はこのようなことをしているのか? なぜこんなことをしなくてはならないのか? 彼女の頭の中は疑問だらけだった。
しかしながら、彼女にはそれを断る権利など存在しなかった。
理由は簡単、彼女の父親のせいだ。
彼女の父親が彼女を起動従士に推薦した。理由は彼の地位のためだ。
彼の地位をより固いものとするために、彼は自分の娘を起動従士としたのだ。
それにより彼はペイパス王国で絶対的な地位を誇り、今や王族すらも凌駕するほどだという。
その報告を、ひとり本宅から離れた起動従士の寮で聞いて、彼女は苛立ちを覚える。
――どうして、あの男のために、戦わなくてはならないのだ!
彼女は何度も何度も反抗しようと考えた。
しかし、ヴァイデアックス家の後ろ盾を無くしてしまうと彼女の地位が無くなってしまう。
即ち、彼女の存在が無くなってしまうということと同義である。
彼女はそれを知っていたから、思い切って父親に反旗を翻すのが難しかった。
だが、もう――。
「……私はこのままだとヒトで無くなってしまうかもしれない」
彼女が行ったことは、人間としてやってはいけないことだった。
人間の大量虐殺。
それを考えて――ふと彼女は自分の手を見た。
彼女の手は白く透き通るような美しさだった。しかし、今の彼女にはそれが血に塗れているような錯覚に陥っていた。
「もう……戻れない……」
彼女はもう、まともな考えを持ってはいなかった。
気がつかないうちに、人間という考えから常軌を逸脱していたのだ。
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