天井裏のウロボロス

夙多史

Section5-1 ウェールズの赤き竜

 それは、早朝六時のことだった。
『秋幡紘也様ですか?』
 珍しく家の据置電話が鳴ったかと思えば、やけに丁寧な少女の声で名前を呼ばれた。
 最初、ウロの新手のイタズラかと考えた。だが、彼女は天井裏で寝息を立てている。こんな朝っぱらから動けるほど彼女の血圧は高くない。それに声も口調も違う。底抜けに明るくやかましいウロとは真逆の、あまり抑揚のない澄んだ声色だった。
『秋幡紘也様ですか?』
 紘也が黙っていたので、少女らしき相手がもう一度確認してくる。
「そうだが、あんたは?」
『ウェルシュはマスター――秋幡辰久様の命令で紘也様を危険から守るために派遣された契約幻獣です』
「……………………え?」
 電話の向こうの少女がなにを言っているのか、紘也は咄嗟には理解できなかった。
『ですから、ウェルシュは紘也様を守るようにマスターから命じられた契約幻獣です』
「……」
 紘也は沈黙した。耳から入ってきた情報が脳内で忙しなく駆け回っている。

 ウェルシュ        マスター
         秋幡辰久        命令
     紘也を守る                派遣
               契約幻獣

 寝ぼけて聞き間違えたわけではない。紘也の寝起きの覚醒速度は反射神経並に速いのだ。靄の一切かかっていない思考で紘也は聞き取った情報を整理する。
 まさか父親はもう一体送ってきたのだろうか?
 そう考えるのが自然だろうが、なにかが引っかかる。
 今思えば、ウロは父親の名前を一度も言っていない気がする。
 それは彼女が紘也の父親を嫌っているからだ、そう考えていた。だが違うのではないか。彼女は最初から、秋幡辰久とはなんの関係もなかったのではないか。
『もしもし、紘也様?』
「あ、悪い。なんだっけ?」
『ウェルシュはもう少しで到着すると思います。よろしいですか?』
「あ、ああ」
『了解です。ではすぐに向かいます』
 通話が切断される。紘也はすぐに二階の自分の部屋へ駆け込み、携帯を開いて登録してある番号に電話する。こちらからは滅多にかけることのない番号――秋幡辰久の携帯電話に。
 ――Trrrn! Trrrn! Trrrn! ガチャ!
『お父様は感激しているぅううううううううううううううう!!』
「親父! あんたが送ってきた幻獣は何体だ!?」
『え? スルーなの? なにを感激しているかスルーなの? 実は父さん、紘也少年から電話かけてくれたことにすこぶる感激してい――』
「んなもんどうでもいいから質問に答えろ!」
『なんか今日の紘也はキツイねぇ。えっと、幻獣何体寄こしたかって? 一体だけど?』
「その幻獣の名前は?」
『なにを言ってるんだ? 本人から聞いていないのか?』
「いいから!」
『ア・ドライグ・ゴッホ――ウェルシュ・ドラゴンだよ。ウェールズの赤き竜。紘也なら知ってるだろう?』
 そこで紘也は通話を切った。もう充分だった。
 ウェルシュ。電話の少女は確かに自分のことをそう呼んでいた。ウェルシュ・ドラゴンはウェールズの国旗や、イングランド歴代王朝の紋章などに取り入れられている真紅の竜だ。伝承では地底に住む侵略民族の象徴――白き竜と戦ったと記されており、ウェールズの人々にとっては守り神以上の存在となっている。
 そんな存在が紘也を守りにやってくる。それは決して、ウロボロスではない。
 だとしたら、ウロボロスは一体なんなのだ? なにが目的であの蛇は紘也に近づいたのだ?
 考えるより先に体が動いた。部屋を出て廊下の端にある梯子から天井裏へと駆け上り、布団を蹴飛ばして爆睡している少女に容赦なくフライングエルボースタンプ。
「おぶげぼごっ!?」
 ビクンと跳ねてウロが変な悲鳴を発した。
「ひ、ひほやくん? げほっ、いくらあたしが低血圧だからって、ごほっ、この起こし方は酷くない?」
 一瞬で覚醒したようだ。起こすところから始めると面倒極まりなかったので丁度いい。
「ウロ! お前、なんで俺と契約したんだ!?」
「え? え? どしたの突然?」
 ウロが狼狽するのは当然だったが、一から説明している心の余裕は紘也にはなかった。早くしないと父親の契約幻獣がやってきてしまう。
「答えないとぶっ刺す」
「ええっ!? 理不尽過ぎて意味わかんないよ!? あっ、そうかわかりやした。これは恋人同士の愛の確認的なアレで――言います! 言いますからそのチョキを下ろして!」
 ウロはパジャマの乱れを整え、姿勢を正し、真剣な表情で口を開く。
「あたしが紘也くんと契約したのは――」
「嘘つくとぶっ刺す」
「見抜かれた!? まだなんも言ってないのに見抜かれた!?」
 一回刺してやろうかと思ったがやめた。そうすると話が進まない。
「俺を守るため、と言っていたな」
「そうだよ。紘也くんを悪い虫、もとい野良幻獣から守るためです」
「本当は?」
「本当だよ!」
「じゃあ質問を掘り下げる。俺を守る本当の理由は?」
 父親の電話やヘルハウンドの襲撃で、結局本人の口から聞かないままだった質問だ。あの時は父親が送ってきたということで納得していたが、それは勘違いだった。
 ウロはしばらく渋って目を泳がせていたが、紘也があまりにも真剣に見詰めてくるので、ついに折れた。
「……あたしを守るため、だよ」
 その言葉が嘘でないことを、紘也は直感的に感じ取った。
「どういうことだ?」
「人間と契約する必要のないあたしは、今までずっと野良としてこの世界で生きてたんだよ。だけど、魔術師連盟が実験ミスって幻獣狩りを始めちゃったから、もう野良では自由に過ごせなくなったの。だからあたしは契約者を探した。あたしはあたしの好きなように過ごしたいから、連盟の魔術師なんかと契約なんてしたくない。かといって魔力の少ない一般人だと契約そのものが成り立たないし、できたとしても魔術師でもなんでもないから野良と変わらない」
「そこで俺、か」
 ウロはコクリと頷いて、訥々と話を続ける。
「この街に来てすぐに紘也くんを見つけたよ。なんせビックリするくらいすごい魔力を垂れ流しにしてたからね。でも接触は躊躇った。だってもしかしたらどっかの組織の魔術師かもしれないし、ただの一般人かもしれないもん。そこであたしは紘也くんを二日間監視して調べたんだ。んで、紘也くんは一般人だけど魔術師と関わりを持ってるってことがわかった。だから、あたしは紘也くんと契約しようと思ったわけです」
「ほとぼりが冷めるまで幻獣界に帰る、という選択肢はなかったのか?」
「それは無理だよ。連盟の実験の弊害は、幻獣をこの世界に無差別召喚しただけじゃない。無理にマナをこの世界に定着させようとしたことで、世界が他世界を拒絶するようになったの。つまり、次元の壁がもんのすごく硬くなって、召喚術も送還術も使えなくなっちゃったのですよ」
 ウロボロスやヴァンパイアのような高位の幻獣は自分で世界間を渡れる。普通なら勝手に戻るところを、それができなくなったから連盟は慌ただしく幻獣狩りを始めたのだ。
「てか、なんでお前は連盟の事情に詳しいんだよ」
「知り合いに情報通がいまして」
「もしかして元契約者か?」
「いやいや幻獣の知り合いだよ。まあ、確かにあたしは何百年前かに一回だけ錬金術師と契約してたさ。無論、とっくのとうに破棄されてるけどね」
 ウロはへらへらと笑って頭を掻いた。「何百ってお前何歳だよ!」と突っ込みたい衝動を紘也は持ち前のスルースキルで押し殺す。
「つまりお前の目的は、連盟の幻獣狩りを回避して自由に楽しく遊ぶためってわけか?」
「そうだよ。これ契約前に言っちゃうと、紘也くん絶対契約してくれなかったでしょ?」
「ああ、しなかっただろうな」
「あたしは紘也くんを守って、紘也くんの存在があたしを守ってくれる。これが俗に言うギブ&テイクです」
 ウロボロスは、ウロボロスという非日常は、私欲のために紘也へと接触し利用した。今まで守ってくれたのも紘也のためではなく、全て己のため。
 少し、イラッときた。
「そうか。よーくわかった。――出て行け」
「………………ホワッツ?」
 キョトンとするウロに、紘也はもう一度告げる。
「これから俺の本当の守護幻獣が来る。お前は邪魔なんだ。だから出て行け」
 重い口調で言い終えると、ウロは時が止まったかのように静止した。瞬き一つせず、指一つ動かさない。等身大の人形みたいになっていた。
 何分経っただろう、やがて、彼女の口から囁くような声が漏れた。
「……それ……ホント……?」
「ああ」
 紘也は首肯する。すると、彼女の瞳が潤み、目の端にじわりと涙が滲んだ。
「あはは、なんだ。あたし、もう、用済みってことですか」
 呟き、立ち上がるウロ。俯いているためどんな表情をしているのかわからない。ただ、声は震えていた。
 彼女はそのまま紘也の横を通り過ぎ、天井裏の窓を開くと、寝巻のまま外へ飛び出していった。
 開き切った窓をしばしの間見詰め、紘也は頭を振る。
「――これで、いいんだ」
 口の中だけでそう呟いた時、ピンポーン、と間抜けたインターホンの音が響き渡った。

        ∞

 鷺嶋愛沙は早朝の路地を愛犬と散歩していた。
 愛犬はパピヨンのメスで、名前はニコ。愛らしくてみんなをニコニコさせてくれるから愛沙がそう名づけた。
 犬の散歩は愛沙の日課でもある。五時半に起床して弁当を作り、朝食を済ませてから行う。散歩から帰ると少しのんびりしてから登校するのだが、今日は日曜日。休日だ。特にやることもないのでテスト勉強か読書をすることになるだろう。
 昨日は大変なことに巻き込まれた愛沙だったが、それで一日の生活習慣が変わるようなことはない。家族に心配かけさせないためにも普段通りに過ごしている。
「あ、この辺りってヒロくんちの近くだ」
 気がつくと秋幡家の近くを愛沙は歩いていた。いつも気の向くままに進路を決めているので、愛沙の散歩ルートはこれといって定まっていない。今日はたまたま秋幡家の近くを通っているみたいだ。
 いや、たまたまではないかもしれない。
「昨日ちゃんとお礼言えなかったから、ちょっとヒロくんちに寄って行こうかな? でもこんな時間からは迷惑だよね。ウロちゃんはお寝坊さんみたいだし」
 ウロ曰く、あのヴァンパイアは存在ごと消滅するため、一般人の愛沙は一日二日もすれば攫われたことすら忘れてしまうらしい。だからそうなる前にきちんとお礼がしたい。そんな気持ちが無意識にあったから、愛沙はついこの辺りまで来てしまったようだ。
「気づかなかったらコウくんの寮とかカガリちゃんのお家まで行ってたかも。……あれ? そう言えばカガリちゃんのお家ってどこだろ? 今度訊いてみようかな」
 えへへ、と微笑する愛沙。その時、わうわう! と唐突にニコが吠えた。
「どうしたの、ニコ? ……あれ?」
 ふと前を見ると、目の前の角を見覚えのある姿が通り過ぎていった。
 ピンクの可愛らしいパジャマに、非常に目立つペールブロンドの長髪をした少女。彼女はなぜか裸足で走っていた。
「あれって、ウロちゃん?」
 なんだか、泣いているように見えた。



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