天井裏のウロボロス

夙多史

Section1-3 猫の妖精

 ――なんだ、アレ?
 一通りの買い物を終えた紘也が、今も決着のつかない低レベルな争いが繰り広げられているだろう我が家へと帰宅する途中だった。
 路地の脇。ゴミ捨て場の隣にポツリと、大きな段ボール箱が置かれている。それ自体には別段不思議はない。解体しないまま資源ごみとして放置しているだけであれば紘也も気に留めることはなかっただろう。
 ただ、そのダンボール箱には中身があったのだ。
 頭に猫耳、腰に尻尾をつけた、紘也よりも一つか二つほど年下と思われる少女。なんか死ぬほどわざとらしく吊り目を寂しそうにして紘也をじっと見詰めている。
 厄介事の臭いしかしない。
 なら、見なかったことにしよう。紘也は猫耳少女と一切目を合わせることなくスタスタと早足で前を通り過ぎた。
「そこゆくお兄にゃん」
 話しかけられた。
「……」
 スタスタ。無論、紘也はガン無視である。
「お兄にゃん」
「……」
「そこゆくカッコイイお兄にゃん!」
「……」
 カッコイイ、か。となると紘也のことではないだろう。それより今日の晩御飯は結局なにを作ればいいのだろうか? 豚肉が安かったから冷しゃぶがいいかもしれない。カレーもシチューも肉じゃがも材料は買ったけれど、炎天下の中を歩き回ったため冷たいものが食べたくなった紘也である。
「フシャーッ!? さっきから呼んでるのににゃんで止まってくれにゃいにゃ!?」
 紘也が聞こえてくる雑音をシャットアウトして別のことを考えていると、ついに猫耳少女がダンボール箱から飛び出した。人間離れした身軽な動きであっという間に紘也の目の前に回り込む。
「お兄にゃん、ちょっとみゃあの頼みごとを聞いてほしいにゃ」
 彼我の距離は約一メートル。
 鼻がむずっとした。次いで全身に僅かながら痒みが走る。
 ピクピクと動く猫耳は作り物とは思えない。腰の辺りでくねくねしている尻尾も同様だ。加えて、流石にこの距離なら紘也も相手の魔力を感知できる。
 ――間違いない。
 ただのイタいコスプレ少女だったら幸せだったのに、と内心で溜息を吐きつつ――紘也は少し大回り気味に猫耳少女を避けて通った。
「にゃんで!?」
 愕然と振り返る猫耳少女だが、紘也は徹底的にスルーすると決めている。一言でも口を交わせばその時点でもう後戻りはできない。
 なにも見えていない。なにも言わない。なにも聞こえない。見ざる言わざる聞かざる。三猿の精神はスルースキルホルダーの基本である。

「だ~か~ら~なんで無視すんだこのクソ人間はぁあああああああああああああッ!?」

 ぐわし、と。
 猫耳少女がなんか喚きながら紘也の背中に飛びかかってきた。
「うわっ!?」
 流石に物理的接触をされては紘也の強固な意思を持ってしてもスルーできない。勝手に涙が出て勝手に鼻水が出て勝手にくしゃみが出て勝手に皮膚が発赤してしまう。魔力のコントロールは得意でも、アレルギーのコントロールまではどうにもできない紘也だった。
「ぶえくしゅん!? み、見えない。見えないぞ。ケットシーなんて見えない……」
「この後に及んでまだ無視する気だ!? あとめっちゃ見えてるから!? おい人間! いい加減にしろコラ! みゃあの話を聞けっつってんだよ!」
 さっきまでにゃーにゃー言っていた猫撫で声はどこへやら。猫耳少女は紘也の背中にしがみついたまま口悪く喚いた。年貢の納め時である。
「くっそ、お前こそいい加減離れろ!? は、話はぶくしょっ! 聞いてやるから!? この状態じゃ話聞けないからっくしょん!?」
 くしゃみ混じりに叫ぶと、猫耳少女はぴょんと腕の力だけで紘也の肩を押して飛び上がり、再び進路を塞ぐように軽やかに着地した。
「ニャハ、最初っから素直にそうしてればよかったんだにゃ♪」
 にこぱっとした笑顔とわざとらしい猫撫で声に戻った。今さっき素を見てしまったから完全にわざとだろう。
 紘也は二・三歩下がって距離を取り、改めて猫耳少女と向き合う。
 幻獣ケットシー。
 高い知能を持ち、彼らだけの王国があると伝わっている猫の姿をした妖精だ。情報通で様々な国の言語を操り、人間に幸福をもたらすこともあると言われている。基本的に人間と敵対関係ではないが、猫を苛める人間に対しては牡牛ほどの大きさに巨大化し、自分たちの王国に連れ去ってしまうという話もある。
 日本では化け猫と呼ばれる怪異が、今、紘也の目の前にいる。
 とても幸福を運んできてくれたとは思えない。なんにしても警戒レベルは全開にしておくべきだろう。
「俺を喰いに来た野良……ってわけじゃなさそうだな」
「ほう、わかるのかにゃ?」
 ケットシーは値踏みするように金色の瞳を細めて紘也を見た。
「一応、魔力のリンクくらい感じ取れる。あんたは野良じゃなく契約幻獣で、つまりどっかに契約者がいるはずだ」
 なんでダンボール箱に入って捨てられた猫の真似事をしていたのかは不明だが、明確な目的があって紘也に接触したことは間違いない。
 契約者はどこかに隠れているのか? それともこのケットシーとは別行動を取っているのか? 後者だとすれば、紘也を足止めしてよからぬことを企んでいる可能性が高い。
 ケットシーは知能こそ高いが、そこまで強力な幻獣ではない。いざとなれば紘也の魔力干渉でどうにかすることだってできるはず……。
「やめとくにゃ、秋幡紘也。魔術師を辞めた・・・・・・・おみゃあじゃ、みゃあに触れることすらできにゃいにゃ」
「――ッ!?」
 ――こいつ、俺のことを知ってやがる……。
 初見の相手であれば、紘也に秘められた莫大な魔力と幻獣契約のリンクを感じ取って高レベルの魔術師だと勘違いするところである。だが、このケットシーは紘也の名前はもちろん、魔術師を辞めたことまで知っていた。となると、もっと詳しい経歴まで調べ上げていると思った方がいい。
 ハッタリは通じない。
 そして確かに、ケットシーの機動力に魔術で肉体を強化できない紘也がついて行くことなど不可能だろう。紘也の魔力干渉は触れられなければなんの意味もないのだ。
 夏の暑さも忘れて冷や汗を掻く紘也に、ケットシーの少女は腹立つほど勝ち誇った笑みを浮かべ――
「心配しにゃくても、おみゃあに危害を加えるつもりはにゃいにゃ。ただ、みゃあのお願いを聞いてほしいだけにゃ」
「お願いだと? 俺になにをさせる気だ?」
「それは、みゃあのご主人を――」
「必殺! 問答無用スーパーハイパーウルトラダイナミックミラクルウロボロスローリングサンダーキィイイイイイック!!」
「ぐげほあにゃああああああああああああああああああああああああああああッ!?」
 突然背後から現れた金髪少女の飛び蹴りがクリティカルヒットし、弓なりに反り曲がって放物線を描くのだった。元のゴミ捨て場に頭から突っ込んだケットシーの少女は、ビクンと尻尾を痙攣させたかと思うとすぐにへにゃりと力尽きた。
 ザッ、と。ケットシーを蹴り飛ばした少女が路地の中央に仁王立ちする。
「まったく、他の幻獣おんな魔力においがすると思って来てみれば、やっぱり妙なことになってましたね」
「ウロ、よく来てくれた。ナイスタイミングだ」
「紘也くん紘也くん、お怪我はありませんか? オゥ!? これは大変お顔を擦り剥いているじゃあないですか! 具体的には唇辺り。となるとこの幻獣界に名を馳せる白衣の天使ことウロボロスさんがぺろぺろして消毒をばにゅっへっへじゅるり」
 ――グサッ!
「なんか久々にほんぎゃああああああああああああああああああああああッ!?」
 ミスった。今後は控えようと思っていた目潰しがオートで発動してしまった。とはいえあのまま二度目の唇を奪われるわけにはいかなかったから、紘也の自動防衛機能は優秀だったと自己評価しておく。
「ウロ、よく来てくれた。ナイスタイミングだ」
「オゥ、そこからやり直すんだね……オーケーですよくそう」
 両目を『*』にしながらしくしく咽び泣くウロボロスは大変鬱陶しかった。わざとらし過ぎて。
「……マスター、ご無事ですか?」
《こら人間の雄。己が死ねば吾も死ぬのだぞ。勝手に危険な目に遭うでない》
 ウロに遅れてウェルシュと山田も駆けつけてくれた。これで完全に紘也の家に人がいなくなった。たぶん鍵は開けたままだろうから空き巣が入り放題で心配である。
 いや違う。そうではなく、今心配すべきはウロがどっかのお姫様よろしく蹴っ飛ばしたケットシーである。マナの乖離が始まっていないから、まだ生きているのだろう。意外としぶといナマモノだ。
「ウロ、とりあえずアレ、引っこ抜いてやってくれ」
「いいんですか? このままトドメ刺した方が確実ですよ?」
「トドメを刺すのは話を聞いてからでもいいだろ。なんか事情があったっぽいんだ」
「はいはい。まあ、紘也くんのそういう優しそうでいて残酷なところあたしは大好きですよ」
 投げ遣りな返事をしつつもアピールを忘れないウロも本当に鬱陶しい。幻獣に懐かれるのはもう諦めたが、ラブ的な意味で『大好き』などと言われても紘也の鉄の心は決して動かない。動くものか。頑として微動だにしない。
「……マスター、顔が赤いですよ?」
「猫アレルギーの発赤だ。直に引く」
 顔に昇った熱も猫アレルギーのせいである。まったく、猫アレルギーには困ったものだ。
「ほんじゃ、やりますよ。よっこいせっと」
 上半身をゴミ山に埋めたケットシーの尻尾を握ったウロは、カツオの一本釣りのごとく豪快に彼女を引っこ抜いた。
 ゴミ塗れになったケットシーの少女が路地に大の字で転がされる。どうやら気を失っているようで、目を渦巻にして「ふみゃあ」と呻いていた。
「さて、こいつどう料理してくれちゃいましょうかね?」
「猫料理……ウェルシュは一度食べてみたいです」
《喰っても不味そうだぞ?》
「いや喰うなよ。日本の猫食文化は幕末までだ」
 四人で動物愛護団体から怒られそうなことを言いながら取り囲む。ただし、紘也は三メートル以内には絶対近づかなかった。
「うぅ……んにゃ!?」
 意識を取り戻したらしい。ピクッと瞼を痙攣させて持ち上げたケットシーは、自分を覗き込む三つの顔を見るや悲鳴を上げた。
「ひぃ!? ウロボロス!? ウェルシュ・ドラゴン!? ヤマタノオロチ!? いつの間にかみゃあでは逆立ちしても勝てにゃい化け物どもに囲まれてるにゃ!? 喰われるにゃ!? 闇市でおでんにされて売り飛ばされて『あれは本当においしかった』って言われるにゃ!? ご主人、どうやらみゃあはここまでのようにゃ……」
「落ち着け。なんでそんな具体的なんだよ。喰ったりしねえよ」
 半錯乱状態になっているケットシーを落ち着かせるため、紘也は手振りでウロたちに離れるよう指示した。
 さっきまでの威勢を完全に萎縮させたケットシーは、ウロたちが離れたことでどうにか安堵したように深呼吸をする。
「ていうか、こいつらの正体まで知ってるんだな?」
「ご主人から聞いてたにゃ」
 語尾に『にゃ』がつく部分はまだわざとらしいが、幾分か大人しくなったためようやく彼女と会話ができる。
「あんたをどうするかは話を聞いてからにする。正直関わりたくないが、俺になんか頼みごとがあるんだろ?」
「にゃ、そうだったにゃ」
 ケットシーは今思い出したかのようにピンと猫耳を立てた。それから姿勢を正し、他に人はいないとはいえ道路の真ん中で深々と頭を下げる。アイルランド方面の妖精とは思えない綺麗な土下座だった。
「秋幡紘也、さっきの非礼は詫びるにゃ。おみゃあのことをちょっと試してみただけにゃ」
 顔を上げ、ケットシーはどこか必死な顔をして告げる。

「そして改めてお願いするにゃ――どうか、みゃあのご主人を助けてほしいにゃ」

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