悠久のアトランティス

夙多史

第02話 少年と少女

 草と土の匂いがする。
 小鳥の囀りが聞こえ、心地よいそよ風が肌をくすぐる。背中から伝わる硬い地面の感触が、少年――ディオの意識を覚醒させた。
「……なんだ、ここは?」
 ディオは上体を起こして訝しげに周囲を見回した。天高く聳える巨木が幾本も所狭しと並び、背の低い雑草が絨毯のように地面を緑一色に染めている。神秘的に煌めく木漏れ日に、ディオは思わず目を細めた。
 森だ。
 それも、ディオの知らない森だ。
「なんだよここ? 俺、確かフェリテと街でデートしてたはずじゃ……?」
 幼馴染にして、つい最近恋人になったばかりの彼女とショッピングをしていたところまでは覚えている。ディオの十六回目の誕生日をどこで祝おうかと話し合っていたはずだ。でも、そこからどうしてこのような場所にやってきたのか、その記憶は薄らとも覚えていない。
「そうだ、フェリテは!?」
 恋人の姿を捜すが、辺りは見知らぬ深い森が広がっているだけで誰もいない。自分だけが、こんな得体の知れない場所に来てしまったのだろうか。
 両親も恋人もいない、どうやって来たのかもわからない不思議な場所に、自分だけがいる。
 夢……にしては意識がはっきりとしている。
 わけがわからない。
 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。

「また、新しい人が来たのね」

 思考が混乱して叫び出しそうになったその時、背後から鈴を転がしたような透き通った女性の声が響いた。
 振り向き――ディオは声を失った。
 そこに立つ彼女が、見たこともないような美少女だったからだ。
 さらりと流れるように伸びた白銀の長髪に、健康的な白い肌。整った輪郭は小ぶりで可愛らしく、澄み切った空のような青色の大きな瞳が無感情にディオを見下ろしている。
 ディオと同い年か、少し年下だろう。そのどこか神々しさすら感じさせる容姿もさることながら、最も目を引くものは彼女の服装だった。
 ゆったりと余裕のある白袖に、緋色のロングスカートといった格好である。
 見たことのない……いや、いつぞやに読んだ歴史本に載っていた他国の神子シャーマンの装束に似ている気がしないでもない。この謎の森に住む妖精か精霊にでも出会ったのではないか、ディオは真剣にそう考えていた。
「君は……?」
 どうにかそれだけ問うことのできたディオに、少女は再び形のよい唇を動かし、透き通った声で言の葉を紡ぐ。
「あなたは敵? それとも味方? それとも、私とは無関係な存在かしら?」
 ゾクリ。
 ディオの背中に冷たいものが走った。
 なにか凶器を突きつけられたわけでもない。少女から強い殺気を感じたわけでもない。彼女はただそこに立っているだけだ。
 なのに――
 敵だと言えば、迷いなく殺される。無関係と言えば、迷いなく見捨てられる。そんな機械めいた意志が嫌と言うほど彼女から流れ込んできた。
「み、味方……だと思う」
 ディオの口は生存本能に従い、勝手にそんな曖昧な答えを声にしていた。殺されるのはもちろん、こんな右も左も現在の状況すらわからない時に孤独になることも死と同義だ。だとしたら味方になるしかない。後づけの理由が自分を説得するかのごとく脳内に浮かんでくる。
「……そう」
 少女の氷のようだった表情がほんの僅かだが緩んだ。それはなんとなく、嬉しそうにも見えた気がした。
「こっち、ついてきて」
 少女は踵を返すと、それだけ告げてディオが立ち上がるのを待たずに歩き始めた。
 見捨てられては堪らないので、ディオは慌てて彼女を追いかける。
 森の木々の間を縫うように通る細い獣道を小走りで掻けて追いつくと、彼女はこちらを一瞥しただけでまた前を向き、淡々と歩き続けた。彼女の歩幅は小さく、ディオが合わせなければすぐに追い抜いてしまいそうな速度だった。
 地面につきそうなほど長い白銀の髪を揺らす彼女の一歩半後方をディオは歩く。これではまるで家来かなにかだ。
「……」
「……」
 沈黙が続く。
 気まずさに堪え切れなくなったディオは、とりあえずなにか会話をしようと少女に話しかけることにした。
「えーと、俺はディオ。君の名前は?」
「……イラハ」
「へえ、いい名前だ」
「……」
 会話終了。
 自分のコミュニケーション能力のなさに頭を抱えて嘆くディオだったが、ここで本当に会話を終わらせるわけにはいかない。訊きたいことは山ほどある。どういう順番で訊ねればいいのか整理できていないだけなのだ。
 十秒ほどディオは思考を加速させて、次に問うべき質問を考えた。
「ここは、どこなんだ?」
 なによりも最初に訊かなければならないことはこれだろう。
「その質問……あなたも、なにも知らずに転移させられてきたタイプのようね」
 前を歩く少女――イラハは振り返ることなく淡白に答える。
「ここは《アトランティス》。あなたもその名前くらいは聞いたことがあるでしょう?」
 その名称を聞いた途端、ディオはチクリと頭の隅っこで電気が走ったような感覚を覚えた。
「ああ、知ってる知ってる。あのお伽噺だよね? 俺も小さいころはよく絵本で読んでたなぁ、ははは。――それで、本当はどこなんだ?」
「……信じてないのね」
 イラハの声は心なしかしゅんと沈んでいた。
「え? まさか、本当に?」
 冷や汗を垂らしながら確認すると、イラハは前を向いたままコクリと首肯した。
「じゃあ、なに? 俺、絵本の中に入ったとかそんなファンタジー?」
 次の問いには、ふるふると首を横に振られた。
「ここは、正真正銘の《アトランティス》よ。絵本の中じゃない。現実に存在する場所」
 そう言われても、簡単に信じられるものではない。ディオの知っている《アトランティス》は、一言で表すなら『深海に存在する楽園』のことである。昔々、クジラと心を通わせた少年がそこへ訪れ、楽園を謳歌するあまり時の流れを忘れ、時代を超えて地上に戻ってきた。概要だけならそんな話だったと記憶している。
 だが、見上げれば明澄たる蒼穹がどこまでも続いているし、踏み締める大地は地上のものとなにも変わらない。とてもこの場が深海に存在するとは思えない。
「でも、あなたの知っている《アトランティス》とはたぶん違うわ」
「違うって?」
「ついたわ」
 ディオの質問には答えず、イラハは足を止めた。喋ったり考えたりしているうちに森を抜けたようだ。
「うわ……」
 ディオは思わず感嘆の声を漏らす。
 街があったのだ。
 全てが大理石でできているかのような白一色の美しい都市が、小高い丘から望める開けた視界いっぱいに広がっていた。中央と思われる場所には巨大な塔が天を衝かんとばかりに聳え立ち、包むように内側に反れた高い城壁が都市全体を円形に囲っている。
「これが《アトランティス》の中核都市。私たちが王様となるための試練を受ける場所」
 荘厳な都市のあまりの美しさにディオが見入っていると、横からイラハが淡々とした口調で説明してくれた。
「王様になるための、試練?」
「そう、あなたも私も《アトランティス》の王様候補生の一人。あなたの知っている《アトランティス》に、そういうお話はなかったの?」
「……あった。俺の知ってる絵本の主人公は確かに試練を乗り越えて王様になってたよ」
 そのまま自分勝手に振る舞った挙句、神様を怒らせて《アトランティス》から追放された。そう絵本には描かれていたけれど。
「そう……私の世界では、主人公は試練に敗れて死んでいるわ」
「え? 私の世界って、どういうこと?」
 意味のわからない言葉に困惑するディオを、イラハはその宝石のような青い瞳でじっと見据えて言う。

「あなたと私は、別々の世界からこの《アトランティス》に来た、ということよ」

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