朧月夜に蓮華と愛

40.昔話。


 何度も心が折れそうになりながら暗闇を抜け出して、不思議な岩の中から出てきた蓮太郎は、背中に背負っていた朧共々ばたりと花の咲く地面に倒れこんだ。
 あちらの、澪のいる世界も花の香りが溢れていたが、こちらも瑞々しい花の香りが、倒れこんだ拍子に蓮太郎の鼻梁を掠めた。
 白と黒の狐はぼろぼろで、まして朧は再び意識を失ってぴくりとも動かない。このままもう二度と目を開けないのではないだろうかと不安に駆られた蓮太郎は、痛む身体を押して起き上がり、朧に縋りついた。
「おぼろ……朧……目を開けてください」
 全身無傷なところがないほどに細かい傷から大きな傷まである。呼吸が浅く血の気は完全になくなっている。長い睫毛を伏せた目元の赤い化粧がやけに浮き上がって見えるほど、褐色の肌は土気色を呈していた。
 足元から揺らいで崩れ落ちそうな不安の中、何もできない蓮太郎はただ大好きな兄の名前を呼ぶことくらいしかできなかった。
 いくらかそうして、気の狂いそうな時間を過ごしていたとき、二人のすぐ傍で何かの気配が生まれはじめた。それはよく知った、とても安心できる気配だ。暖かな春のような、何もかもを芽吹かせていくその香りを含んだ気配に、蓮太郎の瞳から大粒の涙がいくつも零れ落ちた。
「サクラさんっ」
 振り切るようにして見上げると、そこには赤い装束を着た馴染みの神の姿があった。黒髪に冴えた銀色の瞳。少女のような女性のようななんとも表現しがたい不思議な雰囲気を纏った、小柄な身体に似つかわしくない壮大な気配。
 いつも自分たちを何かと気遣い、厳しく優しく接してくれている社の神。可愛らしい鞠を手にして現れたその神は、白い容貌を座り込んでいる蓮太郎に向けると、無残なほどぼろぼろの狐たちの姿にらしくないほど目を丸くした。
「お前ら……何して遊んでてん?」
 しかし落ち着き払った神は、余裕の口調でそんなことを言う。そのまま整った造作の顔立ちに真剣味を帯びると、蓮太郎の返事も待たずに二人に歩み寄り、装束が汚れるのもかまわず膝を地面に落とした。しっとりとした土が高価であろうサクラの装束に付着する。
 サクラは白く小さな手を、倒れたまま動かない朧の額に持っていき、そっとその肌の感覚を確かめるように押し当てた。
「こらまた、こっぴどくやられたなぁ」
「なんで、分かるんですか……?」
 今この姿を見ただけで、サクラが何もかも知っているように言ったことが、この状況で混乱している蓮太郎には理解できなかった。そもそもよく考えればサクラが自分たちの世界にいること自体がもうおかしなことだとすぐ分かるはずなのだが、すっかり動転してしまっている狐には考えることもできない。サクラはそんな蓮太郎に視線を不意に持ち上げると、鞠を地面に置き白い手を蓮太郎の顔に持ち上げる。そしてその手で極軽く頬を叩くようにして触れた。
「お前らのおとんが教えてくれたわ。ばか息子共が心配でならんようやで、あいつは」
「そ、そうなんですか……?」
「あたりまえやろ。どんな親でも子供のことを心配するのが普通や。たとえあんなお気楽で女好きなやつでもな」
 意地悪そうに笑みを浮かべながら、蓮太郎の涙と血で汚れた頬を撫でてサクラは言う。それからまた朧に視線を落とすと、眉間に皺を刻みながら嘆息した。
「ここまでやられるほどとはなぁ。……朧? 返事してみ?」
 額に手を置いたまま、サクラは長い睫毛を伏せて、ぽってりとした唇から何か小さく言葉を紡ぎ始めた。蓮太郎には聞こえないほどに小さく、まるで歌でも口ずさんでいるように、軽やかに零れ始めた言葉。それに反映されるように、サクラの掌から白い光が迸る。その光はやがて朧を包み込むように広がり、輪郭を覆い尽くした。どれくらいの時間、光が朧を包み込んでいたのかは分からないが、白い光がふんわりと燐光を残して消えていくと、甚平はぼろぼろのままだが、すっかり傷の癒えた朧の、しなやかな身体が蓮太郎の視界に入り込んだ。
「朧……」
 褐色の肌は血の気を取り戻し、若々しく瑞々しい躍動を感じさせる。艶やかな黒髪は下ろされ地面に散ってはいるが、血糊は跡形もなく消失していた。長い手足を放り出すようにして倒れていた朧の長い睫毛を湛えた瞼がふるふると震え、ゆっくりと持ち上がったのを見て、思わず蓮太郎の口から嗚咽ともつかないため息が零れた。金色の瞳からまた涙が零れた。
 赤い瞳がぼんやりと、見るともなしに空を彷徨う。自分に何が起こったのかよく分かっていないのだろう。瞬きもしないそれをただ黙って見ていたサクラは口許に安堵の色を滲ませ、今度は蓮太郎の傷を癒し始めた。
 朧と同じように光に包まれた蓮太郎は、とても安らかな、波間に漂うような浮遊感を感じた。言葉では言い表すことができない温かな何かに包まれる感覚。ここまでの大怪我をしたことがなかったし、サクラに癒しを施してもらうことがなかったので知ることもなかったのだが、サクラの大いなる力を身を持って体感した。
 視界いっぱいに広がる白くて聖なる光が、蓮太郎の中にしみこんで消えていくと、見えるものは可愛らしい花々とサクラと、胡坐を組んで座っている朧だった。
 朧は輪郭が現れはっきりと見えるようになった弟を確認すると、満面の笑みで笑いかけた。
「おー、蓮太郎。元気になったか?」
 自分の方がよほど死にかけていたのにも関わらず、黒い狐はのんきに笑った。蓮太郎よりも少し目尻の上がった赤い瞳は、親愛の情を溢れさせている。表情の豊かな朧の笑顔に、蓮太郎が我慢できないといったように長い腕を伸ばして抱きついた。自身の身体も完全に軽くなっており、痛みなどはじめからなかったかのようだ。
「朧の方こそ……どんだけ心配したと思ってるんですかっ」
 ぎゅうっと、首を絞める勢いで抱き締める蓮太郎が涙の間に言葉を差し込む。こんな風に感情を表に出すことがあまりなかった弟の行動に、朧が驚き目を丸くしたが、まんざらどころかかなり嬉しそうに、その瞳を和らげた。褐色の大きな手で、今は結われていない白銀の髪を優しく撫でて口を開いた。
「すまんかったなぁ。俺もここまでやられるとは思わんかったわ……お前のことも守れんで情けないったらないわぁ」
 いつも溌溂とした口調の朧が、珍しく声音を落として乾いた笑いを零した。自信に溢れた瞳を落とし、小さくため息をつく。それを見た蓮太郎は更に朧をぎゅうっと抱き締めた。自分の思いを口にするのがあまり得意ではない白い狐は、その代わりとでも言いたげに、黒く長い髪を撫でる。
「そんなことありません。僕のほうこそ……いつも迷惑かけて申し訳ないと思てるくらいやのに」
「何言うてん? そんなことないない」
 涙の合間に言葉を押し出した蓮太郎に、朧が明るく笑い声を立てた。まるで子供のように抱きついてくる蓮太郎をあやすように背中を叩き、赤い瞳だけでサクラを見やる。すぐ横でしゃがみ込んでいたサクラも、安心を滲ませた銀色の瞳で二人を見ていた。真っ直ぐに切りそろえられた黒い前髪の下の月の瞳は、母親のように二人を見つめていたが、やがて不自然な岩の積み重なった澪の世界へと通じるそこに移った。
 緩やかな風がサクラと狐たちの髪を花の芳香に漂わせる。この場所だけ見ていれば、先ほど狐たちが死にかけたなんてことは夢か幻だったのではないかと思わずにはいられない。実際傷も癒えてしまい、朧に至っては瀕死だっただけに記憶も曖昧だ。二人の擦り切れてぼろぼろになった装束だけが、その威力を物語っているだけなのだから。
 サクラの長い睫毛の下の銀色の瞳が、澪の世界を見透かすように見つめていたのを見た朧が、離れようとしない蓮太郎の頭を撫でながら問うた。自分を痛めつけた相手ではあるが、妙にサクラのその眼差しに何かを感じるものがあったので、口調も表情も柔らかく。
「あいつ、なんであんなんなん?」
「あ?」
 言葉足らずな朧の問いかけに、サクラは思わず視線を黒い狐に止めた。あいつということは誰を指しているのか理解できたが、あんなんとはなんだ。口に出さずとも伝えてきたサクラの表情に、朧が自分でも問いかけが簡単すぎたことに苦笑した。
「いや、なんかやたら俺のこと気にいらんぽかったし」
「あー……」
 朧がどこまで澪のことを知っているのかサクラには分からなかったが、ここまで関係のない朧たちを痛めつけた澪のことを話してやらないのもまた、二人にとっては納得がいかないだろう。遥かかなたの記憶の中にうずもれるように、しかし忘れることはできない出来事を簡単ではあるが、二人に聞かせる。
「澪は、お前らの祖先みたいなもんや」
「はぁ?」
「祖先って……あの人生きてますよね?」
 サクラの口から出た言葉に、二人揃ってぽかんとした。祖先という言葉の意味を勿論知っているからこそそんな反応になってしまうし、それをサクラは否定しなかった。
「あの子は、お前らの何代も前の子や。そら今生きてるくそじじい共よりも長く、この世界の誰よりも長く生きてる。なんでそんなことになったんかは私でもよく分からん。ただ言うなら、あの子の強烈な信念だけがあの身を生かしてるんかも知れん」
「信念って?」
 ようやく離れた蓮太郎の背中をまだあやすようにして撫でながら、朧がサクラに尋ねた。蓮太郎も意味が分からないように端整な顔をキョトンとさせたまま、地面に行儀よく正座をしてサクラの話に耳を傾けている。サクラは赤い装束をひらりと広げて胡坐を組み、そばに置いていた鞠を抱き締めるようにして白い顔を俯けた。艶やかな黒髪がさらりと顔を隠すようにして流れ落ちた。
「澪は、人間と狐のあいの子や。朧と同じな」
「へ? ま、まじで……」
「でもな、お前と違って、澪はそれを忌みきろうてる。自分が大嫌いで、それ以上に人間も狐も憎んでる……哀れな子や」
 遥か昔、今のこのときからどれくらい遡ればいいのかも分からない時代に、澪は人間と狐の間に生まれた。そのころのアヤカシは今よりも神に近い存在であったとサクラは言う。神もアヤカシも混在していた時代。澪の母親、つまり人間は貢物とされた極普通の少女だった。
 澪の父親になった狐は、その土地を守るためだけに命を捧げた少女に深く同情し、土地神としてここを豊かにするために、もらう命はないとそれを断った。約束どおり田畑は実り天候にも恵まれて、村人は大層喜んだ。それも自分たちが捧げた命のおかげだと思っていたからだ。
 しかし数年たつと、その捧げたはずの少女がふらりと戻ってきた。白銀の髪と耳と尻尾を持つ二人の赤ん坊を連れて。それは勿論人間が初めて目にするアヤカシの姿で、そんなモノを見て驚かない人間はいなかった。
 しかも貢物とした少女は生きて返ってくることも初めてだった。これは何かの前触れなのかもしれない。当時、神々への信仰が厚かった世界ではそう思うのも当然だった。
 まるで腫れ物に触れるように少女と白い狐の子を、村人は受け入れた。ように装った。小さく古い家をあてがい、まずこんなところで作物が生るはずがないほどに荒れた土地を与えた。少女の家族も勿論いたが、アヤカシの子を持った娘を迎え入れることはなかった。娘よりも自身の保身の方が大切だった。裕福とはいえない家だったこと、耳と尻尾を持ち、明らかに人ではない色をした子供を孫とは認めたくなかったこと。そんなモノを身内だと認めたことを周りにどんな反応をされるかという恐怖にも似た感情。
 まだまだほかに地域があるなどとは知らない、狭い世界しかなかった時代では、よそに移り住むことなど頭には思い浮かばなかった。
 そして誰もが、疑念を抱いていた。なぜ少女がわざわざ奇妙な子供を連れて帰ってきたのか。誰かが口にしたことでそれは誘い込むように疑念を大きくさせた。何か目的があってここに戻ってきたのだ。口伝にそんなことが流れ、それは尾ひれがつき、最後には、少女が自分を捧げ者にしたことに対する復讐のために戻ってきたのだと、誰もが疑わなくなった。白い狐の子供を連れて現れた少女に、誰もが恐怖した。
「ほんまに……復讐が目的やったんですか……?」
 話を聞いていた蓮太郎が、眉根を寄せてサクラに問いかけた。いつもの気弱な優しい眼差しを苦悶に変えた白い狐の横では、朧が黙り込んだまま話の続きを待っていた。サクラはそんな二人にそれぞれ視線を置き、それから呆れたように首を横に振った。
「そんな訳あらへん。だいたい子供の澪らに何ができるねん」
 少女は、ただ自分の世界に帰りたかった。神とアヤカシの世界も美しく、まことの楽園のようだった。森も水も豊かで争いもない。気候がよく長寿の世界ではゆったりとした時間が廻る。
 しかし、少女はただの人間だった。その中で心を分け合った狐は優しく、本当の愛を与えてくれた。温かくどこまでも澱みのないまっすぐな愛。それを信じ、共にあることを誓ったのだが、無性に寂しくなってしまった。
 自分とは命の期限が違いすぎることを。そして今生きているならば、せめて親兄弟が生きているうちに会いたいとも思った。
 それを長い間悩んでいた少女は、最愛の存在である狐に話をした。願いを、心をこめて聞いてもらいたくて、何日も何日も話し合いをして過ごした。しかし最初、狐は一度少女を人間の世界に帰してしまうと、二度と会えないかもしれないという不安に駆られた。生きていく時間と世界が元々違うから、帰りたいと思うこと自体は否定しない。それはむしろ痛いほどよく分かった。だが自分の心が弱くて、首を縦に振ることができなかった。そうしているうちに何年も、人間の世界で言う時間は流れ、子供を身ごもり家族となった。それがきっかけになり変化が現れる。
 二人の愛情の証拠である子供たちに、人間の、その身体の中に流れている半分の源を見せてやりたい。
 そうどちらもが思うようになった。それは、深く魂の中にまで刻まれた愛情の絆が揺るがないことも、互いが理解していたからだ。
「ほんで、澪とその妹を連れて、母親は一旦帰ったって話や」
 鞠の模様を繊細な指でなぞりながら、サクラは言った。サクラの中で何かが蔓延るのか、美麗な顔の眉間には皺が刻まれている。思い出しながら話している神の表情は決して明るいものではない。それを感じ取っている蓮太郎も朧も、何かをはさむわけでもなく黙っているしかできなかった。
 いくらか時間を置いたサクラは、小さく息を吐き出すと、不意に視線を朧に向けた。真っ直ぐに射すくめられた朧あ思わずのように眉を上げてサクラを見返す。
「朧」
「な、なんや」
「お前、人間好きか?」
 唐突に聞かれた内容に朧が虚を突かれたように目を見張った。しかしそんな簡単なことなど、答えは一つしかなかった。
「当たり前やないか」
 はっきりと言い切った朧に対して、サクラは安心したように微笑んだ。緩く首をかしげたサクラの肩に豊かな黒髪が流れ落ちた。
「そうか。お前は幸せやな……」
「どういうことや?」
「澪はな、母親を人間に殺されたんや。だから人間が嫌いやねん」
 サクラは至極簡単にそう言った。

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