朧月夜に蓮華と愛

37.親心。

 朧が澪の住む山に向かって丸一日がたったころ、狐たちの生家では、大柄な狐が身を小さくするように正座をしていた。
 廊下に面し、今を盛りとばかりに咲き乱れる花々の庭がよく見える。緩やかに吹き抜ける風が白い狐の髪を撫でていく。そしてその前に座っている存在の黒髪も撫でていく。
 金色の瞳が居心地悪そうにきょろきょろと彷徨い、時折その美しい黒髪を掠めた。それを受け止めた黒髪のヌシが、いかにも面白そうに小さく笑いを零した。いつも白い狐が腰を下ろしている上座に当たり前のように座り、脇息に凭れている姿は貫禄を感じる。しかし手にしているのはなんとも可愛らしい模様の鞠なのだが、それが妙に似合ってもいる。その鞠を不思議な力で掌から少し浮かせて転がしながら、のんきな口調で目の前の白い狐に声をかけた。
「お前は相変わらずみたいやなぁ、銀?」
 ぽってりとした妖艶な唇から零れた少女のような声音。なのにこんなに背筋が寒くなるのは自分の主だからか。それとも昔の黒歴史を全て知られてしまっている相手だからだろうか。ともかく久しぶりに対面した狐の仕える神であるサクラに、朧たちの父親、銀は苦虫を噛み潰したように顔を顰めていた。
「相変わらずって、もうわしかてたいがいええ年してますやんか」
 何を言われるのだろうと内心びくついて仕方ない。しかも初めてだった。サクラがここに、自分たちの世界に来たことが。神の世界とここはまた違う。煙管を咥える余裕すらない銀が、落ちつかなげに一つ息を吐いた。それにサクラの雅な眉がくいと上がり、冷え切った月のように冴える銀色の瞳が不愉快そうに眇められた。
 大柄な狐に比べると、小柄なサクラはかなり小さく見える。しかし片膝を緩く立てて装束を広げて座っている様子は、身体の大きさには似合わないほど迫力があった。そしてそれが迫力だけでなく、優婉とした美しさに高貴さも含まれているからこれがまた不思議なのだが。
    赤を基調にしたサクラの装束は、細やかな糸で模様が刺繍されている。柔らかく高価な生地は、ふわりと風が吹くだけで重さなどないように裾が小さく踊る。また、サクラ自身もここに体がないように少しばかり燐光をまとっているところを見ると、今見えているこの神は実体ではないのかもしれない。だが溢れ出る妖艶さと迫力は、そんなことは全く関係のないことだった。
 奇妙な沈黙しか流れない広間で、サクラは黒い睫毛に囲まれた月の瞳を、真っ直ぐに銀へと向けたまま口を開いた。
「あの二人はどこに行った?」
「あの二人?」
「お前のばか息子どもに決まってるやないか」
 ばか息子。と言われても不思議と不快感を感じないのは、サクラが普段から朧と蓮太郎を大事にしてくれているのを理解しているからだ。口は悪いがそれ以上に愛情を注いでくれている神に感謝している銀は、サクラの言いように口許を綻ばせた。二人によく似た目許も和らぐ。
「なんや、サクラさんにも迷惑かけてるやろうけど……ともかく蓮太郎の問題をなんとかせんと、長老たちも黙ってないもんで」
「そらそうやろうな。まさか蓮太郎みたいなくそ真面目なんが、人間好きになるなんか思わんかったやろ」
「……サクラさん、ほんま口悪いですな」
「あ? そんなもんお前が私に仕えてたときから変わってへんわ。耄碌すんのはまだ早いで」
 からかうように銀を斜に見てサクラは笑いを零した。しかしすぐ真面目な表情になり、更に言葉を続ける。
「ほんで、蓮太郎と朧はどこにいったんや。あの子らの家にもおらんしここにもおらんてどういうことやねん」
 サクラの問いかけに銀の眉間に困ったように皺が刻まれる。口外するなという長老たちのお達しは神にも有効なのだろうかと思うが、しかし子供を心配する気持ちに長という立場は弱くなる。何を持ってもやはりあの二人の前では一人の父親にすぎなかった。
「今頃……朧も、澪様のところについたかと思います」
 その言葉に、サクラの瞳がわずかに見張られた。意外な名を聞いたといわんばかりに一瞬言葉を失う。
「澪? なんで澪が出てくるねん」
「長老たちが、蓮太郎を澪様のところに促したんやと思います。おおかた説得できれば許してやるとか言うたんやと思うんですけど、わしにもその辺は分からんのですわ。ただ、心配やから朧には澪様の所に向かってくれって頼みましてん」
 庭へと視線を流しながら、銀はサクラに事情を話した。蓮太郎と長老たちのやり取りを細かく話している最中、サクラは口を挟むことなく、眉間の皺を解かず黙っていた。
 狐の中に人間の血を入れることはできない。そう言われたときの蓮太郎の顔は、若かった自分を見ているようだった。過去に朧の母親になった巫女を見初めたとき、銀も今の蓮太郎と同じように長老たちに頭を下げて許してもらおうとした。しかし当時既に、蓮太郎の母親と婚約の儀だけは済ませていたことと、人間の血を忌み嫌う習慣に、正式な形を取ることができなかった。
 蓮太郎の母親のことを嫌いだったとか、結婚が嫌だったとかではなく、本当に同じくらい一人の狐と一人の巫女を好きになっただけだった。同じように愛情を持ち接していたし、どちらかを選ぶことなどできなかった。それは今でも同じだ。一夫多妻が当たり前の環境であれば、銀のしたことはたいしておかしくもなかったのだが、相手が人間ということが長老たちには問題だった。
 その苦しかった時代を、銀も勿論忘れているわけではない。お気楽な性格だが相手に対する愛情の深さだけは、長老たちも認めているところだ。
 しかし年寄り連中の出した蓮太郎への課題とも言うべき今回の件は、難題過ぎると思っている。自分の時にはなかった澪の説得のことは、銀ですら予想もしていなかった。
 それは話を聞くうちに、眉間の皺をこれ以上刻めないほど刻み込んだ神も同じようだ。細い腕を組んでしばらく苦々しい顔をしていたサクラが、深々と息を吐き出した。
「あのくそじじいども……何考えてんねん」
 過去に長老たちと澪の間に何があったのか知っているだけに、サクラの言葉の中に滲み出す感情は穏やかではなかった。銀も澪のことについて全て知っている訳ではないが、しかし気難しく、協力的でないことは知っている。
「わしもそう思う。ハナから許してやるつもりなんかないんや……」
 銀も内心腹立たしいと言わんばかりに、大きな手を伸ばしてすぐ横に置いていた煙管を取って咥えた。紫煙がゆらりと昇っていく様を見つめながら、二人はしばらく言葉を交わすことはなかった。
 風はどこまでも緩やかだ。ここより遠くの山の風も、気持ちいいのだろうか。かつてはここにいた金色の狐を記憶の中から思い出し、サクラはきゅっと艶やかな唇を引き結んだ。そしてそのまますいと立ち上がる。大柄な銀からすればやはり立ち上がったところでそれほどサクラが大きいとは思わないが、背後から吹き上がるような気配に情けなくも肌が粟立つ感覚を覚えた。目の前のサクラはただ黙っているだけなのに、その瞳があまりにも壮艶に輝き、うっすらと笑みの形をを取った。その笑顔に銀は思わず息を呑んだ。
「ちょ……ねーさん、何する気?」
 昔なじみの呼び方でサクラを呼びはしたが、圧倒されるように銀は腰が引けてしまっている。情けない顔をしたかつての社の守り手を、サクラの少女のような女性のような不思議な容貌が見下ろした。長い睫毛の下の銀色の瞳が白い大きな狐を捕らえ、それから意地悪げに、しかし愛情を温かく纏った笑顔で言った。
「お前らのことに口を出す気はなかったんやけどな。でも、ちょっとくそじじいどもには一言いいたくなってきたわ。その前に出かけてくるけど、私がここに来てることは誰にも言うなよ」
「は……?」
「ええな? 言うたらお前のこと泥梨ないりに落とすぞ」
 およそ神らしくない言葉を爽やかな笑顔で言ったサクラは、鞠を片手にそのままふんわりと風を纏いながら姿をかき消した。黒髪と装束を軽やかに躍らせた神は、瞬きの間ほどの時間で完全に姿を消す。それを眺めながら銀は何度も分かったといった様子で、こくこくと頷き見送った。
 若かりしころ自分が仕えた神の自由奔放さと大胆な性格を熟知しているために、本当に泥梨に落とされると思う銀は、口が裂けても言わないことを心に硬く誓う。かなり長生きはしてきたけれど、寿命で死ぬのとサクラに葬られるのとでは死んだ後の行き先がまるで違うのではないかと思えるほどだ。それにまだまだ死にたくないしやりたいことだってある。
 誰もいなくなった広間で肩の力を抜いた銀は、緩慢な動きで立ち上がり、煙管を咥えて廊下に出た。赤い梁が見事な廊下は磨かれて降り注ぐ陽射しを柔らかく弾く。そこに立ち、花の中にまるでかくれんぼをするかのようにひらひらと舞う蝶を視界に入れながら、自然と少しだけ安堵した気持ちになっていた。
「蓮太郎、朧。お前らには苦労かけるけど、サクラさんがお前らのこと可愛がってくれてるからお父ちゃんは安心や」
 頑固な長老たちの首を縦に振らせるのはなかなか厳しい。まして澪という狐まで出てくるとなると、蓮太郎たちにますます不利になる。
「でもサクラさんなら、何とかしてくれるかもしれんし、最悪のときはお父ちゃんもお前らを守るからな」
 優しさを燈らせて、白い狐は庭のはるか向こうに見える輪郭の薄れた山を見つめ、一つ紫煙を吐き出した。

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