朧月夜に蓮華と愛

35.山の狐。

 しっとりした雨が何時から降っているのだろう、深緑の葉が瑞々しい色を滲ませけむる中、朧が古の時代から命を宿す大きな木の下でふるりと頭を振った。
「びしょびしょやんけ」
 全身をすっかり濡らしてしまい、肌に張り付く甚平が不快でならないように赤い瞳を眇める。上を見上げれば大木の豊かな枝葉のおかげで、ここまで雨が沢山降ってくることはなさそうだ。ようやく雨宿りでき、黒髪も三角の耳も尻尾も滴るほど濡れているので、ぷるぷると身を振り雫を飛ばした。
「このあたりは雨季なんか? しっかしよう降るなぁ」
 アヤカシの世界はその地域で季節が違う。朧たちの住んでいる場所、生家も含めた地域は基本温暖で一年中雨があまり降らない。しかし朧が今立っている地域は雨が集中して降る時期があり、寒暖差が激しいところだった。
 獣道としか言いようのない細い道を歩き、春の地域からかなり進んできたここは山の奥も奥。滅多に誰も足を踏み入れない場所だ。身軽ないつもの甚平姿に、楓たちが持たせてくれた風呂敷を背中にくくりつけた黒い狐は、白い相方を探してここまでやってきた。見渡す限り緑の山の中で、黒い狐はある意味闇の中から出てきたように異質だった。
 この山の一番高い場所。そこが目的の場所だった。狐の中で一番長寿の狐の元を、蓮太郎が訪れているのだろうと父親から聞いたからだ。
 しかしその情報を仕入れるために、朧はいらぬ労力を払わされた。何でもかんでもふざけた事例にしてしまえる能天気な親父のおかげで、天狗にはたき飛ばされた際に負傷したわき腹を押さえる。
「あのくそ親父め……」
 文句しか出てこない父親を思い出すだけで腹が立って仕方がないが、あれでも今現在の長であり蓮太郎と朧の父親だ。心配する気持ちはあるのは分かる。しかしまぁ、やっていることはそれとは理解できないので誤解されても仕方がない。
 だが父親とて朧と遊んでいるだけではない。自分が今までしてきたことのせいで、長老たちは全く父親の話を聞こうとはしないが、それでも頭を下げて蓮太郎の結婚を、つまりは成実との仲を許してやってくれと頼み込んでいる毎日らしい。
 朧も最初はそこで父親と一緒に長老たちを懐柔しようかと思ったが、蓮太郎が姿を消してしまっているし、先にそちらを探す方に出かけることにした。
 で、ここにいるわけである。
 生い茂る木々で上など見えないが、それでも赤い瞳を持ち上げて見えないそこを見透かすようにして綺麗な形の唇から呟く。
「おっしゃ。行くか」
 そう言って黒い狐は歩き出した。
 この辺りは妖力を何かの力で抑えられる。本来ならば枝から枝、木から木へとわたればこんなに濡れることも時間もかからないかもしれないが、不思議な山の力でしかしそれは叶わなかった。山を駆け回ることが得意な朧でさえも、力を封じられれば、人間と同じように歩いていくしかない。ごつごつとした石も多く草の生える道は決して歩きやすいとは言えない。簡単な旅支度だけをしてきたことを後悔しながら、何度か転びそうになる朧が拾った長い棒切れで辺りをなぎ倒す勢いで払い歩く。
 雨は止む気配はない。方々に命の溢れる気配を感じ、時折姿を掠めさせる精霊たちに挨拶をして進む道に先に、ほんのりとした灯りが燈り始めた。
「お、見えてきた」
 御来光にすら感じる聖なる光は、何もないはずの場所から緩やかに光の道を築いている。急斜面の山肌に悪戦苦闘する朧を、優しく見守っているようでさえあった。
 なんとか時間をかけて上り詰めたところで、振り返った朧は壮大な景色に思わず疲れているのにもかまわずため息を落とした。立っている場所は光を生み出すものなど何もないのにほのかな明るさに包まれている。そこから振り向いてみれば驚くほど美しい景色を臨むことができた。自分の住むところをこんなに高い場所から見たことはない。低い雲を纏った雄大な自然。向かい合うようにして並ぶ、ここよりも低い山までうっすらとした輪郭を滲ませている。所々に見えるのはそれぞれのアヤカシの済む集落だろうか。全てが命に溢れて、そして虹色を溶かし込んだかのような川がゆったりとそこを縫うように流れている。桃色の空の下、いつの間にか雨は止んでいた。
「こらまた……すごいなぁ」
 赤い瞳が無邪気に細められる。身体に疲労感がたゆたう中、山の頂上で朧はしばらくその景色を堪能した。
 朝早くから出かけたというのに、既に日差しは夕暮れの気配を含んでいる。ぽっかりと、緑が開けた場所から下を見下ろしていた朧が、よっと座っていた姿勢から気軽に立ち上がる。それから反対側を振り返り、そこから更に続く細い道を確認した。そこは獣道ほど細くはなく、きちんと誰かの手が入ったことを示すように、脇に小さな花が並んで咲いていた。
 朧は自分の脚を見下ろして、すっかりくたびれてしまった足に巻いていた布を巻きなおす。楓が怪我をしないようにと出かける前に巻いてくれたものだが、それは汚れてしまい、緩んでいた。自分の手でもう一度それを整えて、朧は花を視界に入れながら歩き出した。 それほど長く歩かないうちに、じきに大きな岩を積み重ねた洞窟のようなものが目に入った。入り口と見られる小さく開いた穴の奥は、全く光がささないのか何も見えない。明らかに不自然に積み上げられた岩は、今にも崩れそうなのに揺るぎない何かの力で支えられている。堂々とした雰囲気もあって、こんなことができ、尚且つもう何百年もこの状態を維持している「中の存在」に、小さく感心してしまう。
 朧は周りに誰かの気配がないことを確認して、すうっと息を吸い込むと大きな声を張り上げた。
「まいどーッ!!」
 いやまったくもって初めてここに来たのだが、口をついで出たのはそんな言葉だった。こだまするほど大きな声を放ったにもかかわらず、誰の姿も見えない。首をかしげた朧が、また大きく息を吸い込み更に大声を張り上げた。周りの緑も吸収できないほど大きな声が、またこだまを引き連れて消失する。
「なんやねん、おらんのか?」
 二度も大きな声を張り上げて少しばかり喉が痛んだ。そういえば水分を取ってなかったと思い、風呂敷から竹の水筒を出して喉に流し込んだとき、ふとした灯りが朧の周りを取り囲んだ。
「へ?」
 赤にも紫にも見える不思議な色合いの明かりは、朧の周りを楽しげに浮遊した後、姿を変えていく。一つに集まり熱を帯びて、更に何色ともつかない色へと変化していく。何事かと目を丸くする朧の前で、それは一気に爆ぜ飛んだ。
 どかんと鼓膜を急襲する音と共に、朧の身体が突風に巻き込まれたように弾かれる。水を飲みかけ、なんとも油断しきっていた黒い狐はまんまとその風に押しやられるようにして吹き飛んだ。
 なさけない声を上げて数メートルは飛ばされて、更にごろごろと地面を転がった黒い狐の姿に満足したかのように、どこからともなく笑い声が聞こえてきたのは、それから数秒後のことだった。
 幼いようなそうでないような、年齢を考えることができないなんとも奇妙な声は笑うたびに残響を朧の耳に残していく。その笑い声を聞きながら、傷をまたしても増やしてしまった黒い狐はなんとか地面に手をついて上半身を起こした。
「いッ……なんや…………」
 頭が爆音と衝撃でくらくらする。視界が頼りなげに揺れて何を見るともなしに赤い瞳を彷徨わせた朧の視界に、ゆらりと一つの姿が入り込んだ。
 地面数センチの上に身体を浮かせている小さな姿。性別などまるでないような、なよやかな金色の着物を着たそれは、赤い化粧を施された目許を楽しげに笑ませて朧を見下ろした。
 朧よりも小さい身体は、細めで繊細な印象を受ける。白い容貌はとてもきれいだが男なのか女なのかも分からない。黄金色の髪に黄金色の頭の三角に尻尾。まばゆいばかりに金色尽くしの目の前の狐に、痛む身体をなんとか立たせて朧が口を開いた。
「いきなり何すんねんな……。お前は客をこんな風にもてなすんが趣味なんか」
 立ち上がった朧が見下ろし睨みつけると、金色の狐は片方の眉を興味深げに上げて見上げた。磨きぬかれた宝石のような金色の瞳が、意地悪な色を隠すことなく朧に向けられる。
「なんですの。あれだけ派手に吹き飛ばされても、まだそんなクチきけますんか」
「あ? 誰もえらそうにしてへんやんけ」
 一見すると、まだ年端もいかないような外見をしている狐にそんなことを言われて、先ほどのこともあり朧の眉間に深い皺が刻まれた。だがたいしたことでもないように、金色の狐がクスクス笑う。さらにそれが朧の神経を逆撫でする。
「たかが天狐風情がこんなところまで来るから、少し灸でも据えたろかと思っただけやないですか。それやのになんですのその態度」
 雅な袖を口許へ手を持っていき、金色の狐が笑う。その仕種はなんともいえない色香に溢れ、誰もが虜になりそうなほど幽玄の美しさをもっていた。
 しかし朧のこめかみがひくりと動き、じっとりと赤い眼を据わらせてしまうのをとめられない。
「たかが天狐風情で悪かったなぁ」
「ほんまです。せめて空狐であればお茶の一つでも出して差し上げたのに……」
 やれやれといわんばかりに金色の狐は首を振った。空狐といえば父親以上の長寿ではないか、長老クラスでもなければここに来てはいけないというのだろうか。見た目がなんとも子供のようであり大人のようであるこの不思議な狐に、最近痛い目しか見ていない朧の堪忍袋の緒は限りなくゆるくなってしまっているので、ぶちっと簡単にちぎれる。
「こンのガキ……やっかましいわッ! こんなとこ誰が好き好んで来るっちゅーねんあほッ!」
「こんなとこぉ?」
 朧の言葉に今度は、金色の狐がひくりとこめかみを引きつらせて突き刺す眼差しを向ける。幼さすら感じさせるような大きな丸い目は、突き上げるように瞳を持ち上げるだけで表情を一変させるには充分な力を持っていた。金色の髪がさわりと輝きを増して揺れた。
「こんなとこやないかっ、遠いし雨降るしめんどくさいし挙句にはなんか知らんけど吹き飛ばされるし! 用事がなかったこんなとこ来るわけないやろ!!」
 蓮太郎がここにいるかもしれないということがなければ、間違いなく来ない場所だ。ただ弟を探しに来ただけなのに、吹き飛ばされる覚えもないし、こんな風に言われる覚えだってない。ますます頭に血が上った朧が、さらに文句を言おうと口を開きかけたとき、うっとりとするような笑顔で小さな狐は微笑んだ。その笑顔で山の気配が激変した。
「よろしい。ほな、はようここから去ね」
 ずんッ。と地響きがして朧がハッと息呑んだ途端、黒髪がふわりと風もないのに舞い上がり、朧を中心とした小規模とは言えないような爆発が起きた。地面から容赦なく弾き飛ばされた朧は、自身を庇う手立てなどなく、先ほどよりもかなり遠くに飛ばされていく視界の中で優美に微笑む金色の狐を見るしかなかった。それから山の斜面を転がるように落ちて行く。
「うわああぁぁああッ!?」
 急斜面で勢い良く転がってしまい、山の不思議な力のおかげで何の力も発揮できない朧は、任せるままに落ちて行く。あちこちぶつけながら、痛みで意識を飛ばしてしまいそうになる中、父親の言葉を思い出して後悔するしかなかった。
「ええか。あの人は見た目は優しそうに思うけど、そら何考えてるか分からん。機嫌を損ねることだけはしたらあかんで」
 損ねる前に損なってるしお父ちゃんのあほおおぉぉッ!!!
 朧の心の叫びは父親に届くことはなかったが、なんとか近くの細い蔦に捕まり、転がっていくのを阻止した。しかし動けないほど身体が痛む。目を開ければ、溢れる緑の隙間に桃色の空が見えた。
「いった……まじか……なんなんあいつ……」
 たいした気の流れも感じなかった。あっという間に自分の力を編み上げて爆発させる。朧もそれほど弱くないし、それなりにやればできるはずなのに。なんだか無性に負けた気がする。いや実際これだけやられれば勝っているはずもないのだが、悔しくて仕方がない。
 空狐をはるかに越えて、今現在狐の中で、もっとも長生きなみおという狐のもとを訪れた蓮太郎のことが気になって仕方がない朧は、ずいぶんと落とされてしまったこの場所から、また見えなくなったその洞窟のある場所を見つめるように目を凝らした。

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