朧月夜に蓮華と愛

34.待ちわびる春。


 最寄り駅から自宅へ一人で帰る道すがら、成実は一つの四つ角で立っていた。この道をまっすぐに進むか、それとも右に曲がるか。右に曲がれば小さな個人経営の店やコンビニなどがあり、道幅も広く街灯も整備され明るい。ただし家に着くには時間がかかる。まっすぐに進めば、暗く細い道になり、赤い鳥居のあるあの場所の前を通る。ただし家にもっとも早く着くコース。オレンジ色の街灯の下で何をするわけでもなく立っている成実を、時折現れる通行人が何をしてるんだろうかという視線を投げかける中、もうかなりの時間こうしていた。
 平凡な日常は淡々と過ぎている。毎日決まった時間に起きて家を出て電車に乗る。帰りの時間は仕事の内容やその時々で変わるが、それでもたいしたトラブルもなく家に辿りつき眠る。週末は特に趣味もないので、これまた単調に過ぎていく。一人暮らしなので誰に気を遣うこともない。いたってシンプルな日々。
 そんな中に現れたというか、出会った不思議な存在が、ここ数ヶ月で成実の中で大切に育まれて、なくてはならなくなったのはいつからだろう。明るい光と優しさを閉じ込めた金色の瞳と、温かな春の陽射しを纏ったような立ち姿が、何度も体内を廻るように感じられた。
「れ……」
 その名前が無意識のうちに唇から零れそうになって、慌てて口を閉ざした。あまり考えないようにしているはずなのに、しかし油断すると溢れてくる。涙腺が緩んでしまいそうで、成実は空を見上げてぎゅっと目を閉じた。
 宵闇の中にうす雲を湛えた月がほんのりと光を落とす。それを薄く目を開けて視界に入れると、ますます会いたくて堪らない。蓮太郎に。
 蓮太郎の動向が分からなくなって何日かが過ぎた――もう数えたくないので数えていないが。
 あの時、勇気を振り絞って伝えたかった言葉だけが胸の中に燻り消えることはない。朧や子狐たちが探しているとは言うものの、こちらの世界と造りは違っても広いそこで、たった一人の狐を探すことは困難なのだろう。全く消息のつかめない白い狐は無事なのだろうか。なんの力もない極当たり前の人間である成実からすれば、不可思議な者たちが息づく異世界は、たとえば探究心を煽られるよりも、好意よりも、まず先立つのは恐怖にも似たような、どこか否定的な感情だった。そういえば出会って間もないころは狐――主に朧――にも、神社の神であるサクラにもそんな感情を持っていたのかもしれない。
 それを溶かしてくれたのは、蓮太郎だったなぁ。そんなことを思いながら視線を下に落とす。闇が侵食してくるように街灯の下に滲んでいる。その先を見つめ、一歩足を踏み出した。今日こそは会えるかもしれない。そんな淡い期待と、それを否定する臆病な自分との狭間で揺らめく気持ちを抱き締めて。
 この間の休みのとき、うさ晴らしをするように買い物に出かけ買った、春もののブーツは、優しい蓮華色に染められたもの。あの世界で見た、溢れるほどの蓮華の花たちを思い出し、気付けば購入していた品だった。蓮太郎に会ったらそんな話もしたいなぁ。特別何を話すことはなかった今までの時間を振り返り、それに今回も思いつく話題がそんなことに自分で呆れてしまう。大事な言葉をひた隠しにして、話してきた内容は殆ど日常のことだった。自分の知らない世界、蓮太郎の知らない世界。共通する話題がないのは、ある意味互いを知ることが最大の楽しみになる。だから色々話していて楽しかったし、それに従って気持ちも加速してきた。仄かな温かみは親しみを増して深みを増して艶やかに色づき、いつからなんて考えることもなく揺るぎない核を持った。互いの間では問題もあるしくよくよ考えてしまうし、自分でもよく分かっているが、こんなことが得意ではない性格だしで、周りが呆れるほど進まない関係。もういっそ傍にいられるならばそれでもいいかと思ったりもしたが、そこは欲張りな自分ができなかった。
 蓮太郎がおかしなことになり混乱したときに、自分以外の名前を呼んだ。成実が見たこともない、感情のなさで怖いまでに整った人形のような顔。見たときに受けた自分の衝撃の大きさに、悲しかったのと自分がどれだけ蓮太郎を好きだったのかを思い知った。自分の周りの色彩は消え、そして消えない想いに苦しくもなった。サクラのおかげで蓮太郎がいつもの笑顔を取り戻して笑いかけてくれたとき、世界が暖かな色を甦らせた。大げさではなく、それほど成実にとっては嬉しくて仕方がなかった。
 このまま会えなくあるのだけは嫌だ。たとえ皆が言うように、蓮太郎が私のことを好きでなくても今度会えるなら、ちゃんとあの金色の瞳に自分を映して笑ってくれるなら、伝えなくては。そう奮い立たせて、じっと帰りを待つのが今できること。
 誰もいない細い道に響く自分の靴音を鼓膜に受け止めながら、成実は真剣な表情で赤い鳥居を目的に歩いた。
 じきにそこは成実の視界入った。小さな神社とは言え朱色のそれは当然見上げるほどの高さがあり歴史を感じさせる。木々の枝は物悲しいが、芽吹く季節を待っている蕾にもならない膨らみが幾つか見受けられた。春になったらお花見しましょうね。蓮太郎が嬉しそうに言っていた言葉が思い出される。約束、ちゃんと守ってくれないとだめなんだよと、鳥居を泣きそうになりながら、すっかり慣れ親しんだ玉砂利を踏みしめた。
 鳥居をぬけると、こちらも慣れ親しんだ境内が目に入る。誰もいない閑散とした雰囲気の中で、成実はその隅っこに設けられているお堂を見やった。中にあるのは木で作られた屋敷。不思議な世界とつながっている不思議なお堂。古びたそれに近づいて、格子になっている扉の中を覗き込む。
「早く帰ってきてくれないかなぁ……」
 蓮太郎と朧の住まいを模した屋敷は、明かりも届かないせいで成実には殆ど見えない。真っ暗なそこを、目を凝らして見つめているとまた涙が滲みそうで、そして嫌な考えしか浮かんでこなくなり、肩にかけているバッグをいつの間にか抱き締めるようにしていた。
「成実さん、こんばんは」
 そんな後姿に愛らしい声が届き、振り返ると涼子がにっこりと笑って立っていた、長い髪を緩く片方の耳の下で三つ編みにした少女は、笑ってはいるがどこか心配そうに成実を見ている。
「涼子ちゃん、こんばんは」
 成実もできるだけ笑顔で挨拶をする。表情が上手く作れない。涼子を見ると更に想いが膨れ上がろうとする。この少女と神社と月夜があまりにも蓮太郎を呼び起こす。言葉の最後で声が震えそうになってしまい、それを隠すように、成実は更に笑みを滲ませた。
「今日は朧も来てませんよ。サクラさんも姿を見せてないようですし」
 涼子のふっくらとした唇から出た言葉に、蓮太郎がいないことを知る。やはり今日も会えないのかと全身から力がぬけるような感覚に襲われて、成実はその場にしゃがみ込んだ。さすがにしりもちをつくほどではないが、すっかり頭を下げてしょんぼりと項垂れている姿は、小柄な成実を更に小さく見せた。
 涼子はそんな成実になんと声をかけていいものか躊躇ってしまった。大きな瞳に映る成実は自分よりも年が上で、しかしそんなことを感じさせないくらい気さくで、恥ずかしがりやで鈍感で、なんだか年の近い友人のように感じる。ここの不思議な存在を受け入れてくれて尚且つ特別な感情をもってくれた、それは涼子にとっても嬉しくして幸せなことだった。涼子には願うしかできないことであるが、その思いに嘘はないし、狐たちも成実も笑顔で何時までもこうしていたいと思う。だからこそ生まれたときからいる狐になんとしてでも帰ってきてもらいたいし、成実ともうまくいってもらいたい。ささやかな少女の願いは成実と同じだ。
「待つしかできないですけど、朧が何とかしてくれますよ。蓮太郎だって頑張っているのかもしれませんし」
「……頑張ってる?」
 なにを?と成実は顔を上げて涼子に向って首をかしげた。なぜ蓮太郎が姿を消したのかもよく分かってなかった成実は、涼子の言葉の意味が理解できなかった。
 涼子は成実を立ち上がらせると、ひとまず風の通り抜けないところまで手をひいた。そこで成実に向き合い、改めて口を開いた。
「朧が教えてくれたんですけど、蓮太郎は成実さんのことを話しいったんです」
「へ……私?」
「そうらしいです。蓮太郎と朧のお父さんの住んでいる家に、成実さんとのことを話しに行ったらしくて、その後行方が分からなくなってるみたいですよ」
 朧からの情報を、涼子は成実に伝えた。黒い狐が本家に行き口を閉ざしていた父親に、半ば喧嘩を挑むようにして向かい合い引き出した話を、涼子が聞いたのは一昨日。狐の中で蓮太郎が人間に現を抜かしていることが広まってはいけないと、長老たちが口外することを禁じていたから、父親も何も言わなかったらしいことも。蓮太郎と成実のことをそれこそ細かく知っている朧にまで、それは禁じられた――いや、白い狐の中で唯一黒い狐の朧だからこそ、なおさら言ってはいけないと長老たちが思ったのかもしれないが、それは定かではないのだが。
 しかし蓮太郎も朧も、父親にとっては可愛い息子なのは変わりはない。なので父親は必ず自分の下を訪れるだろう朧を待った。案の定朧がすぐさま父親を尋ねてきたのだが、よく言えば何時までも少年のような心、悪く言えば能天気な馬鹿とまで貶められるお気楽な性格故に、父親が朧と遊びたくなってしまった。どんな時も緊張感なく、なんでもやってのけてしまえる豪快な性格は褒めるべきなのかもしれないが、空気の読めないところは息子からも呆れられてしまっても致し方ない。蓮太郎のことを知りたければ。と、山を駆け巡り鬼ごっこをしたり、天狗の高下駄を盗んできた方が勝ちだとかいうくだらない賭けをしてみたり、それで天狗の怒りを買って親子共々木っ端微塵にやられてみたりと、すんなり教えればいい情報を、もったいぶったおかげで蓮太郎のことを調べるのに時間を要したのだ。と、いうことも、涼子は包み隠さず成実に話して聞かせた。
「蓮太郎たちのお父さんって……」
 あまりにもなさけない理由で朧が苦労したことを思うと、さすがに成実も同情を禁じえない。涼子も見たことがない狐たちの父親に苦笑するしかないようで、小さく肩を揺らした。
「ですから、もう少し待ってあげてください。きっと蓮太郎は朧が見つけてくれます」
 そのほかにも、蓮太郎が立ち寄りそうな場所が分かったと言って笑っていた朧を思い出し、涼子が愛らしく微笑んだ。
「…………分かった」
 めぼしがついているなら、朧と一緒に探しにいきたいくらいだが、その言葉を飲み込んで成実は頷いた。夜風がひやりとして身体がふるりと震えた。しかし心の中に小さくだが温かく燈るものがあった。少しだけ、嬉しくて頬が緩む。
 そんな成実を見て、涼子が上着のポケットから小さな何かを取り出した。
「これ、朧からです」
「朧から?」
 涼子の白くほっそりとした掌にのっているものに視線を落として、成実がキョトンとした。そこには鮮やかな虹色を帯びた珠がいくつかある。
「蓮太郎が身につけていた、というか、髪に飾っていた珠だそうです。お守りにって朧が」
 淡く月光を表面に馴染ませた珠に、確かに見覚えがあった。何とかの儀式、成実にはよく分からないが狐たちにとっては大切なそれを終わらせてから、蓮太郎は常にきっちりと髪を結い上げるようになった。その白銀の髪には房や珠が飾られていた。その中の一つなのだろう。涼子の手からそれを受け取り、手の上で転がしてみる。冷たいはずの珠の感触が温かく感じられた。
「ありがと……」
 無意識に言葉が零れ落ちた。朧に対して、涼子に対してサクラに対して、そして蓮太郎に対しての感謝の気持ちが静かに胸を満たしていった。

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