朧月夜に蓮華と愛

29.不安だけど後悔しないためには。

「朧、遅いわねぇ。いい加減家に入ろうかと思った……」
 赤い鳥居を潜って帰ってきた黒い狐に、寒さのあまり不機嫌になっていた涼子が投げかけていた言葉を宙に放り投げた。背の高い狐の後ろにいた成実の姿に気がついたからだ。一目で泣いていたであろう成実の顔に、涼子が一瞬言葉を失いさっと顔を強張らせた。それを見た朧が慌てたように口を開く。
「俺泣かしてないからな? 成実が勝手に泣いただけやし!!」
 愛らしい瞳をじっとりと据わらせた涼子の無言の迫力に、狐がぎょっとして首をぶんぶん振る。何歳離れているのかも分からないが、普段怒らない女子高生の迫力はなかなかのものだ。
「でも何もないのに泣いたりしないでしょ?」
 腕を組んだまま目の前に立つ小柄な涼子が、突き上げるように朧を睨む。何もないわけではなかったような気がするので、確信を突かれぎくりと朧の広い肩が跳ねかけて更に慌てて首を振った。
「ほんまやって! な、泣かしたとすれば蓮太郎やと思うぞッ」
 まぁたしかに、白い狐とのことなのだからそれも正解かもしれないと、朧の後ろから怒っている涼子を眺めて成実は思う。口が悪く手も早いが、朧は真剣に成実と蓮太郎のことを考えて行動を起こしてくれているのも分かるから、成実は涼子に事情を説明した。
「朧は何も悪くないよ。私が勝手に泣いただけだし。涼子ちゃんにも心配させてごめんね」
「ううん。元はと言えばうちの狐たちが悪いんだもん。成実さん大丈夫?」
 柔らかな眉間を寄せて涼子が成実に問いかける。朧は涼子の怒りの矛先が自分からそれたことに大きく安堵したように息を吐き出した。
「うん。大丈夫だよ。さっき泣いて少しだけすっきりしたし、これでもう……あの……」
 諦める決心がついた。そう心にもないことは言えなかった。口ごもってしまった成実を不思議そうに見つめる涼子の前で、朧がまたため息をついて、成実の頭を本日二度目に派手に叩き飛ばした。
「いたッ!?」
「朧なにするの!?」
「なんもしてへんわ。成実のあほな頭も少しは賢くならんかと思って刺激与えただけやろが」
 仏頂面の黒い狐の言っていることがまるでわからない二人が、「はぁ!?」と声を揃えてムッとしたところに、赤い光がふわりと浮かぶ。煌びやかなその光の中から現れたのはここの神様であるサクラだった。黒髪に銀色の瞳が相変わらず妖艶で無邪気だ。赤い装束の裾を吹き抜ける風に躍らせた神は、三人が向き合って、真剣なような険悪なようなおかしな雰囲気にキョトンとして言葉を零した。
「なんや、辛気臭い顔して」
 白く小さな手には美しい模様を纏った扇があった。白く淡い光を自ら発しているのか、サクラの愛らしく美しい顔をやんわりと照らしている。
「別に辛気臭いことないわ。来た途端失礼なやっちゃな」
 むっとした朧の言葉にサクラの整った眉がくいと上がり、手にした扇をひょいと持ち上げ黒い狐の横っ面を張った。サクラはあくまでも軽く動作をしただけなのに、朧の長身でしっかりとした身体があっけなくよろめき受身を取れなかったおかげで派手に転んでしまった。ただの扇だよね!? と成実も涼子もそれには目を丸くして言葉を失ったが、サクラは何もなかったのように朧を捨て置きくるりと二人に向き直る。それから単刀直入に切り出した。
「成実と蓮太郎はまだくっついてないんか?」
「……は……?」
 言われたことが直球過ぎて成実の脳が受け止められない。ぽかんとした成実の横では涼子が思わず小さく笑い出した。
「あんたら好きうてるんやろ? なんでさっさとくっつかんねん。見てるほうがじれったいわ」
 呆れたように、だが優しくサクラの眉が下がる。成実よりまだ少しだけ小柄で一見少女かと思えるほど幼い印象もあるサクラが、まるで母親のように成実の髪を一つ撫でた。少しだけひやりとした白い手がするりと髪を撫でて、そのまま成実の頬に降りて来る。その小さな手と赤い装束から伸びた滑らかな肌をした腕からは、乳香の香りがした。
「契り交わすならここ貸したるからいつでも言いやー」
「ちぎり……」
 意地悪な色香を含んだ神の微笑に成実が言葉をそのまま返した後、ぼッ! と全身を赤くするほど赤面した。涼子も思わず赤くなり、朧は玉砂利の上に座り込んだままぷっと吹き出したが、サクラの言葉に驚いてるようでもあり、はたかれた頬をさすりながら問いかけた。
「サクラは賛成なんか?」
「なにがな?」
「成実と蓮太郎が一緒になることやんけ」
 撫子のことに関しては助けてくれたけど、さすがに狐と人間が一緒になるなんてことを、ここの神であるサクラが許すはずがないとどこかで朧は考えていた。勿論蓮太郎が成実を選ぶのであれば、朧はそのときは何度でもサクラを説得するつもりでもあったが。説得をするにしても喧嘩をするにしても黒い狐に勝機があるとはとても思えないが、それでも蓮太郎が望むことを叶えてやるのが、自分のすることであると朧は思ってる。だから木っ端微塵にやられる覚悟もできていたので、正直今のサクラの言葉には拍子抜けした。朧の言葉に、サクラは今更問い痛げに赤い唇の端を上げた。
「反対するんやったら撫子の件でわざわざ私が出てくると思うか? 人間でも狐でも、蓮太郎が選んだんやったらそれが最良の相手やろう。前も言うたかもやけど、私はお前も含めてアヤカシが幸せならそれでいいねん」
「ほなら、サクラは成実と蓮太郎が結婚してもかまへんねんな?」
「何度も言わすな。覚えられへんねんやったらなんか紙にでも書いとけあほ狐」
 にやりと笑ったサクラに、朧もにやりと笑って返す。サクラが味方につけば、これは心強くなると朧も涼子も考えて思わず頬が緩むのを止められない。しかし成実だけは手放しで喜ぶことができないでいた。
 実際蓮太郎とそうなるとしたら、自分はこっち、人間の世界でどうなるのだろう。親も兄弟もいる。それほど多くはないが友人もいる。自分を育ててくれた世界を捨てるのだろうか。それができるのだろうか。それから、蓮太郎とは生きる時間が決定的に違う。果てしないような長寿の狐が過ごす時間の中で、人間の時間はどれほど短いだろう。現実的なことを考えると、自分は確実に蓮太郎を残して死んでいく。それを蓮太郎は理解してくれるのだろうか。納得してくれるのだろうか。そして蓮太郎を置いていくということを、自分も本当に理解しているのだろうか。
 先のことに関してこれほどまでに問題が山積みなのに、好きだというだけで進んでいいものか。
 自分では蓮太郎にふさわしくないのだ――そう思わずにはいられない。
 なんで私、蓮太郎のこと好きになったんだろう。出会わなければ良かったとさえ思えてきて、思考が乱れる。こんな否定的な思いしか出てこない自分の考えが嫌いで仕方がない。蓮太郎を好きなのは世界がひっくり返っても変わりはしないのに、その想いを否定することが何よりも辛いはずなのに。狐だとか人間だとか考えて接していなかったはずなのに。一緒に過ごして、何をしたわけでもないけれど楽しくて嬉しかった時間の中には打算も駆け引きもなかったのに。
 泣きそうになっている成実に気付き、サクラが視線を廻らせる。将来のことは狐でも人間でもそれぞれに事情があり重大なことだ。狐たちより更に高次の次元にある神からすれば小さな悩みだが、しかし成実にとっては大きなことだと理解している神は、穏やかに声をかけた。
「まぁ、今はとにかく自分の気持ちに向き合うことが先ちゃうか。何も言わんままあんたがここを去るのも、それは決めたことなら私は何も言わん。そら二人が一緒になるならそれが一番ええことやと思うけどやな。あんたにも家族も親戚も将来も、選ぶ権利は当たり前にあるんやからな。ただ、後悔だけはせんようにしいや」
「……はい」
 サクラの言葉の中には案じてくれている気持ちがふんだんに含まれているのは理解できた。成実は小さく言葉を返して感謝を表すように深く頭を下げる。その成実の頭をもう一度だけ撫でて、サクラは来たときと同じようにふわりと姿をかき消した。灯篭の灯りが静かに燈る中、残ったのは人間二人と黒い狐だけ。
 少しだけ沈黙があった後、朧はよっこらしょっと立ち上がり、成実と涼子の下に近づくとまだいたむ頬をさすり口を開いた。
「結婚云々はとにかく置いといて、想うこと伝えてみればどうや?」
「へ?」
 朧の言葉に涼子も頷いて言葉を重ねる。寒い中心配してくれているのは涼子もサクラも変わらない。
「私もそう思います。何も言わないまま離れてしまったら、成実さんも蓮太郎も絶対後悔すると思います」
「そうかな……」
「うだうだ考えるのも一人やったら答え出えへんやろ? それやったら二人で考えていけばええんちゃうか。蓮太郎もああ見えて頭は悪くないし俺も涼子もおるし、三人寄れば何とかって言うやろ」
 赤い瞳をにんまりと細めて笑う朧に成実が瞳を持ち上げて結ぶと、潤んでいた瞳からぽろりと雫が零れた。胸の中に沈み込んだ錘がなくなったわけはないけれど、黒髪に赤い瞳の狐の笑顔と涼子の笑顔に、ほんの少しだけ癒された気がした。自分の周りには大切なものが沢山あるんだと。家族や友人だけではなく、こうして知り合った不可思議な縁も比べられないほど大切で宝物なのだから、どちらか一つを選ぶのではなくて、どちらも大切に育んでいく方法を探せばいいのではないだろうか。欲張りかもしれないけれど、私には蓮太郎も朧も涼子ちゃんもサクラさんも欠かせないのだから。
 そのために今できることは何かを探してみよう。
 いまだ気を緩めてしまったら零れるだろう涙を飲み込んで、ぎこちないながらも笑みを滲ませた成実が小さく、しっかりと頷く。ようやく、離れようとしていた成実が微々たるものかもしれないが蓮太郎に向かって視線を定めたとき、こちらとは異なる異世界では蓮太郎が姿を消していた。


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