朧月夜に蓮華と愛

28.優しい掌。


「なぁ、最近成実来てるか?」
 夕方。涼子が帰宅するなり神社の境内にふらりと姿を現した黒い狐が、赤い瞳をどことなく案じるように涼子へと向けた。ふわりと身体を宙に浮かせて尻尾を揺らめかせている様子を見ると、それほど不機嫌でもなさそうなのだが、元々切れ長の、こういってはなんだが目つきはあまりよくないので、まっすぐに見られると慣れていない者からすれば少々怖いかもしれない。
「なんか仕事が忙しくて遅くなるって、こないだ駅で会った時言ってたけど……メールしてもあんまり返事ないし、私も心配なんだよね」
 愛らしい瞳を、こちらもいない成実を案じるように赤い鳥居の細い通りに向けて涼子は答える。長い髪が人気のない境内の風に揺れる。
「そうか……」
 朧は涼子の言葉を受けて、ふむ。と何かを考えるように腕を組んで小さく答えた。黒く長い睫毛が赤い瞳に陰を落として、茜を滲ませる。年も明けて春を迎えようとしているこの時期は日も長くなりつつあり、人外の妖美な姿も、今ここを誰かが通ったら間違いなく目撃されてしまうだろうに、朧はそんなことなどまるで関心がないように腕を解きふわりと身体を浮かせて社の屋根に降り立った。
 低い建物が多いこの辺りで、大きくない社であるとは言え一般の住宅に比べれば高さは少しだが勝っている。細い通りと密集する屋根を眺めながら、黒い狐が小さくため息を落とした。
「あのあほ……またへんなこと考えてぇへんのちゃうんか?」
 成実が聞いたら怒りそうなことを言いながらも、明らかに心配の色を宿らせた赤い瞳がそこにはある。
 成実が神社にぱたりと姿を見せなくなってから、もうかなり経った。「仕事が忙しくなるから」と言ってたのを、朧も涼子も、勿論蓮太郎も知ってはいるのだが、それっきり何の音沙汰もないのはいくらなんでもおかしいと思い始めてはや数週間。蓮太郎に至っては成実不足で寝込みそうなほどのくたばりようである。実際あまりにも元気がなさ過ぎて、職務放棄でこちらに姿を見せない日すらある。
 成実のこともだが、そんな蓮太郎を朧も涼子も心配し始め、この神社の絶対的存在のサクラでさえもここ何日か白い狐を見ないことに違和感を感じている有り様だった。主に心配をかけることなど本来あってはならないことなのだが、そんなことを心にとどめておけるほど、今の蓮太郎はまともにものを考えることができないらしい。
「ん?」
 ふと、意識を研ぎ澄ませていた朧の黒い頭の三角がぴこんと反応を示した。藍色が広がるばかりの空の下で、黒髪と尻尾を風に靡かせて屋根の上に立つ狐の赤い瞳がじとっと眇められる。滑らかな褐色の肌をした両手を下げたままきゅっと握り締めた狐は、ひくりとこめかみに青筋を立てて口の端を不敵に上げた。
「あンのあほたれ……何さっさと帰ろうとしとんねん」
 長身の身体をこれでもかと背伸びして「それ」を見ようとしながら――いや実際には見えはしないのだが――朧が思わず声を張る。社の下でそんな狐を仰ぎ見ていた涼子が訳が分からず首を傾げるが、朧はそのまま屋根を蹴り目的の場所に向かって神社を離れる。
「朧?」
「涼子そこで待っとけ! あほ連れてくるから!」
 待っとけって、寒いんだけどあほってなんなの。と、涼子は思うのものの、言葉を返す暇もなく朧の姿は見えなくなった。


「さむーい!」
 春の暖かさは日中には感じるものの、日が暮れてしまうとやはり寒い。元々寒がりの成実は夏の暑さもいやだけど、どっちかと言えば夏が好きかなぁ。なんてのんきに考えながら家を目指して歩いていた。小さなマンションのエントランスが見え、ほっと息を吐き出して数段ある階段を上がった時、ふとなにやら悪寒じみたものを感じて立ち止まる。
「なに……? 風邪?」
 ふるっと身を震わせたそんな成実に、どこからともなく、くくくっと笑う声が聞こえた。
「あほは風邪ひかんのにおかしな話やなぁ。お前少しはかしこなったんか?」
「…………へ?」
 誰もいないはずのそこに聞こえた、とても失礼な聞き覚えのある言葉に、ぎょっとしてしまって思わず固まってしまう。この声、まさか! と、バッグを抱き締めてキョロキョロする成実の前に、黒い、縦に大きなものが忽然と姿を現した。それも超至近距離で。
「ッひゃあああぁぁああッ!?」
 あわや唇さえ触れそうなほどの距離で赤い瞳が燦然と輝き、見ている分には怖いほど整った顔立ちのアヤシイ存在が、陰惨にも見えるような微笑を湛えて現れてはいくら見慣れたといっても度肝を抜かれる。情けないことこの上ない叫び声を上げて飛びずさった成実が、階段を踏み外してバランスを完全に崩した。
「きゃあッ!」
「おわッ! あぶなッ!」
 大きくぐらりと揺れた成実に朧が目を丸くして一歩踏み出す。長い腕が幸いして成実の腕をはしっと掴みあわてて自分の方に引き寄せた。
「お前なんなん? よう転ぶなぁ」
 すっぽりと自分の腕の中に入り込んだ小柄な成実を見下ろして、朧が呆れたため息をつきながら小ばかにした口調でからかった。見上げてみればまた至近距離の狐に、成実が一瞬ぽかんとした後、我に返ってじたばたと暴れだした。呆けてしまった一瞬の中で、「あらやだ綺麗な顔してるわねやっぱ」といつかのように思ってしまったことは秘密である。
「ちょ、ちょっと離してよ! それに転んでないからっ」
「どっちでもかまへんやんけ」
「か、かまへんことないわよ! 転びそうになったのッ。だいたいあんたがいきなり来なければ転びそうになることもないじゃないのッ」
 あんまり綺麗な顔が近くにあるのと、腕の中に囲われてることがいくら朧をそういう風に見ていなくても気恥ずかしい。赤くなる頬を隠すように俯きながら、成実が悪態をつく。
    なにをもじもじしとんねん? とのんきに高い位置の視線を落としながら成実を眺めていた朧が、やがて腕を解くと成実はがっくりと項垂れるように脱力した。
    それからマンションの裏手にある駐輪場に回り、そこの隅っこへ朧の腕を引き、押し込むように一角に位置づける。人に見られたらまずいのは勿論朧の方なので狭いところに連れてこられたが、辺りを見回して誰もいないことを確認すると、黒い狐はひとまず文句を言わずに成実へと口を開いた。
「久しぶりやなぁ。元気やったか?」
 世間話でもしに来たようなのんきな口調に、何事かと身構えるようにして朧を見つめていた成実がきょとんとする。
「え……うん、まぁ。久しぶり。えっと、元気だったけど……」
「ほう……?」
 元気だったという成実の言葉に、朧の黒い耳がぴくりと動き、赤い瞳が薄暗い照明の中で鮮やかに光る。それがなんとも居心地の悪い圧力を成実に与えてくるではないか。ぎくりとした成実がとっさに頭を庇う仕種の紙一重のタイミングで、褐色の大きな手が遠慮の欠片もなく成実の頭に衝撃を与えた。バシッ! といい音がして痛みが走る。
「いった!!」
「お前なぁ……ほんまええ加減にせぇよ?」
「は……? 何が!?」
 頭を押さえながらキッと成実が朧を睨む。若干涙目になっている成実を見ている朧がニヤニヤと楽しそうに笑っているのがこれまた腹の立つところだが、叩かれた頭が痛くてまともに言葉も出ない。角に追いやられているはずの朧なのに腕を組み、成実の前に立ちはだかるようにどーんと立つ。
「で、今度はなんや? 何があったんや?」
「へ?」
「へ? やあらへんがな。なんかあったから俺らんとこぇへんねやろ?」
 表情は飄々としたものだが、赤い瞳の中には真剣な色も見える。その目許を見て、成実が違う意味で涙腺を崩壊させてしまいそうなほど心を揺らされた。
 二人の狐の目許は父親似だという。色の違いと目じりが少し上がっているだけで、よく見るとそっくりだ。そんな目を見て思い出さないはずがない。白銀の睫毛と金色の瞳を。一度でもその優しい眼差しを思い出したら、そこからはもう濁流のように溢れてくる。神社に向かわなくなった時から、必死に追い出そうとしていた白い姿と声が対照的な黒い狐を見て一気に溢れてきて、我慢しなくちゃと思えば思うほど、下瞼を乗り越えて涙がぼろぼろ頬を転げ落ちた。
 しゃくり上げて泣き出した成実を見て、朧が赤い瞳を大きく見張ったが、やがて心底呆れた表情の中に優しさを滲ませて笑う。先ほどはたき飛ばした成実の頭を、今度は大きな掌でわしゃわしゃと撫で回した。
「そんなんなるくらい何考えててん。おまえほんまあほやなぁ」
「そんな、あほあほって……言わなくても、いいじゃないの……性悪狐……ばか……」
 泣きじゃくりながらなんとか言葉を返した成実に、赤い瞳が更におかしそうに細められる。
「性悪てなんや、成実のくせに生意気やな。俺の優しさに気付かんてお前見る目ないよな。あ、こんな言い方てなんか俺がお前に気ぃあるみたいに誤解させるか? 安心しぃ。俺はお前には全く興味ないからな」
「うる……さい。ばか……あほ……」 
 好き放題言ってはいるが、撫でてくれる手があまりにも優しくて温かくて、成実が泣きながら肩を揺らして笑う。
「泣くか笑うかどっちかにせぇよ。まぁ、泣くなら泣くでかまへんから、泣き止んだら俺と一緒に来てもらうで」
 黒い尻尾を機嫌良さそうにゆらゆらさせながら、朧はもうしばらく成実に付き合ってやることを決めてそう言った。

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