朧月夜に蓮華と愛

26.月夜の兄弟げんか。


「なんで俺まで怒られなあかんねん……」
 宵闇の深くなってきた時間。古びた社の屋根の上で、黒い狐がらしくないほど深いため息をついた。肺の中の空気を搾り出す朧の横で、しゅんとした様子の蓮太郎がこちらも深く深くため息をつく。その顔はいつも以上に情けなく眉間に皺を刻んでいる。
「ほんま、すみませんでした……」
 か弱いほどの声でそう言った蓮太郎を、赤い瞳でちらりと横目に見た朧が、呆れながらもどこか憎めないなと言った様子で笑う。
「あのおっちゃん怒ったらめっちゃ怖いやんけ……。いつもあほなことばっかしてるイメージやったのに」
 がっくりと肩を落として再び朧が盛大なため息を落とした。屋根から見えるのは住宅の屋根とその上に広がる薄く雲を湛えた空だった。細くなり始めた月が、その見え隠れして澄んだ月光を落としている。風がゆるりと黒と白銀の髪を撫でて通り過ぎた。
 狐たちはたった今、自分たちの父親に会ってきたばかりだった。あの不思議な世界の更に奥とも言うべきか、成実が言ったことのない山の中に、狐の本家がある。そこには蓮太郎と朧の父親がいて、今現在の長の立場を取っている。
 蓮太郎と朧は、普段分家を言われているあの場所に住居を構えてサクラと社を守る立場にあるために、父親とはそれほど頻回に会っていたわけではない。この間の天狐としての儀式の時には会ったが、立て続けに会ったのが珍しいくらいだった。
「撫子のことにお前が社を壊したことに、成実の家の窓も壊して……まぁそらお父ちゃんも怒らなあかんとは思うけどやなぁ」
 ごろりと屋根に寝転びながら朧はぼやき続けた。横向きに体勢を整えると、手で頭を支えて赤い瞳を眇め、さきほどから治まらないため息を零した。蓮太郎はそのまま膝を抱えて顔を俯けたまましょんぼりとした様子でそれに頷く。眉間の皺を解けずに、心配そうに朧に視線を向けた。
「撫子……どうなるんでしょうか……」
「あ?」
「だって僕たちだけやなくて撫子もめっちゃ怒られてたし、お父ちゃん……もう撫子を僕らの傍に置いとくことはせんって言うてたし」
「あんなんほっとけや。元はといえばあいつのせいやんけ」
「そうかもしれませんけど、でも僕が撫子の気持ちちゃんと分かってたらこんなことにならんかったと思うし……」
 ぶつぶつと、自己嫌悪と後悔のなかに落ちて行く蓮太郎を、朧がしばらくじとっと眺めていたが、やがてよっこらしょっと身体を起こすとやれやれと言いたげに長い腕を何の気なしに持ち上げた。かと思うと、そのまま振りかぶって蓮太郎の白銀の髪へと向かって叩きつけた。しんとした社の空気を揺るがすようにすぱーんッ! と衝撃音が響き渡った。
 目の前に星が飛ぶほどの痛みに、蓮太郎の金色の眼が大きく見開かれ、痛みのあまりに苦痛を浮かべる。後頭部を抱え込みながら、蓮太郎がうめき声を上げて身を丸めるように倒れた。
「いった……何するんですか……」
 呻き声の合間に何とか言葉を押し出した蓮太郎を見て、朧の赤い瞳が実にしてやったりと言った様子でにんまりと笑みを湛える。意地悪そうに口許に弧を描きながら、黒い狐はくくくっと笑った。
「そういえば、お前に返してなかったからなぁ」
「は……何……?」
「お前記憶ないかもやけど、俺めっさ大変やってんぞ? こっちに連れてくるときお前暴れるし」
 肩を解すようにとんとんと叩きながら朧はのんびりとした口調で言う。記憶のない蓮太郎としては全く分からず、金色の瞳に困惑を滲ませたが、朧は更に続けた。
「お前とは喧嘩らしい喧嘩もしたことなかったけど、あれは正直きつかったわ。自分の意思やないと思えばこそ、俺はお前に手ぇ出したくなかったしな。やられる側に徹したけど、でも痛いもんは痛いっちゅーねん」
 人間より回復の早い身体を持つ蓮太郎も朧も、頑丈といえば頑丈なのだが、痛覚も普通にあるし怪我をすれば出血だって当たり前にする。こんなこと言ってはなんだが、見た目と性格からいってとてもじゃないが強く見えない蓮太郎は、ひょっとしたら朧より力は強いかもしれない――蓮太郎自身がそんな状況になったことがないだけにそこは未知数なのだが。だが充分力のある蓮太郎から受けるものは、相当朧にも堪えたということだ。
 朧としては蓮太郎を何とかサクラのところに連れて行くのが目的だったので、蓮太郎に怪我をさせることなど髪の毛の先ほども思っていなかったから、ひたすら蓮太郎が手を出してきても堪えることしかしなかった。それがあの生傷だらけの結果に結びついたのだが、それを思い出して、思い切りはたき飛ばしたようだと蓮太郎が思い至る。
 しかしいくら話を朧から聞いていたとしても、それは蓮太郎にとってはショックで、そして本当なのかと何度も自分の記憶を見つけ出そうとしたが、やはり操られている状態だったせいかそれは見つからなかった。
 じんじんとしびれるほど打たれた後頭部を押さえながら、金色瞳を歪めた蓮太郎は朧を見つめてしょんぼりと言葉を零した。
「それは、悪かったと思いますけど……でもこんな強く叩かんでもええやん……ほんまめっちゃ痛いし……」
「はぁ? お前今何言うた?」
 小さくごちった言葉に、黒い頭の三角がぴくりと反応する。朧の腕が持ち上がり、にまっと楽しそうに整った顔が笑みを浮かべると、蓮太郎が「ひぃ!」と息を呑み頭を抱えて防御の体勢を取った。大きな身体をぷるぷると震えさせて、ごめんなさいごめんなさいと何度も謝っている情けない白い狐を、朧は笑いを堪えきれないように肩を震わせて見る。
「やられたらやり返しとかんとなぁ」
「だからほんまにすんませんって!」
「なんやその言い方、誠意がないわ」
「そ、そんなん……!? ほなどうしたらいいんですっ」
「そうやなぁ……」
 にやにやと心底意地悪そうに笑う朧を、泣き出しそうな目で蓮太郎が見ていると、赤い瞳がそれを見返して、真剣な色を滲ませて一つ息を吐き出した。胡坐を組み朧は言葉を切り出した。
「とりあえずや。お前のすることは撫子の心配ちゃうやろっ。あいつはもうお父ちゃんに預けたんやから、お前が心配しようがしまいが俺らにはなんもでけへんねん。まぁ、お父ちゃんもさすがに殺したりはせえへんと思うしな」
「はぁ……」
 確かに撫子のしたことで被害をこうむったのは自分だし、朧たちだ。それを心配することもないだろうと言われてしまえばそれまでかもしれないが、優しい蓮太郎は長く共に生活してきて本当の妹のように思っていた撫子のことだから、さすがに全く心配しないわけではない。まして嫌いになったりしていないのだから。朧の言うことも分かるしでも自分の気持ちもあるしで、若干ぐるぐるし始めた蓮太郎に、朧は更に言葉を重ねた。
「それに、お前がもし撫子の気持ち知ってたからってなんやねんな。お前あいつと結婚するつもりでもあったんかいな」
 まっすぐに見つめられて、蓮太郎の瞳にまた違う意味の困惑が浮かぶ。自分の伴侶となるべき相手に、撫子を考えていたのかといわれれば――考えたこともなかった。
 今までは一族をまとめる立場になるといわれても、どこか漠然としていて現実味のないもののようにも感じていた。だからといって役目を放棄するつもりもなかったし、蓮太郎で良いと周りが言うなら、その声に応えることが当たり前だとも思っている。
 しかし最近ようやくそれがひしひしと現実感を持って感じるようになった。
 先日――煌びやかな衣装を着て皆の前に立ち、杯を父親からもらい跡継ぎとしての立場を正式に賜ったとき怖くて逃げ出したくなったけど、朧がいてくれて大丈夫だと笑ってくれていたから、弱気な中にも向き合う努力を続けようと改めて心に決めた。きっとまだまだ頼りにもならないだろう自分を支えてくれる存在が沢山いるから、少しづつ、父親に負けないような長になれば良いと、何度も言い聞かせた。
 そして、人生一大イベントを何とかこなした蓮太郎に、本格的に上がるのは、当然のように人生の伴侶の問題だった。
 狐の家族は、あの人間の言う異世界に何箇所かに分かれて存在する。それぞれが争わないように時には政略的に縁を持ったりするのだが、蓮太郎の元にも何人かの候補となる相手がいたらしい。ということは小耳に挟んでいた。蓮太郎の意思で決められるものでもないので、そこははっきりとしたことを聞かされないまま、噂くらいしか知らなかったのだが。少し前から蓮太郎の結婚に関してそんな動きがあったが、その相手となる中に撫子を自分が考えていなかったことに、間抜けながら、本当に間抜けながら、たった今気付いた。
 思い至ると、蓮太郎の顔が愕然とした。それをじっと見つめていた赤い瞳が呆れ返っているのも気付かないほどだ。
「お前が結婚するつもりもないのに、撫子に何ができんねん。それに成実のこと好きな時点でもうあかんやんけ」
「ごもっともな意見ですけど……」
「なんや、まだ言いたいことあるんか? だいたいお父ちゃんみたいに妾作るほど器用でもないんやろうしやな、成実にしてもなんもできへん奴が他の女のことなんか気にしてる場合ちゃうと思うで?」
 のんきな口調はどこまでも変わりなく、朧がずけずけと蓮太郎に言葉をぶつける。月夜が心配そうに月光を雲間に翳らせ、白い蓮太郎の顔が更に暗く見えた。
「僕が……」
 しばらくの沈黙をはさんだ後、蓮太郎がぽつりと呟いた。朧は楓の作ってくれたおにぎりをパクリとほおばり、膝を抱えて言葉を零した始めた弟を見やった。
「あ?」
「僕が好きやって、もし成実さんに言うたら……迷惑になりませんか?」
「…………なんで迷惑になんねん」
「だって僕こんなんやし……成実さん僕のことほんまに……あの……」
 弱気な性格がどんどん増幅していき、蓮太郎が穴でも掘って埋まってしまうのかと思うほどへこんでいく。もぐもぐとおにぎりを咀嚼しながらそれを眺めていた朧が、コイツどこまでへこむんやろうかと放置してしまいたくなるのを堪えて、いつになく優しい声音で返事をした。
「成実がお前のこと好きなんは誰が見ても分かることやろが。本人同士だけやで、うじうじしてるんは。それにお前が狐やからとか成実が人間やからとか、そんなん言うたら俺のおかあちゃんどうなんねん。俺思い切り人間と狐の混血やんけ」
「そうですけど……」
「おかあちゃん幸せそうやったで。お父ちゃんと会うとき。俺今まで生きてきた中であんな幸せな顔まだ見たことないわ」
「幸せ……?」
 朧の顔に懐かしそうな色が燈る。それは今まで見たことのないような子供のように無垢な表情で、思わず蓮太郎が目を見張るほどだった。
「好きな人が傍におるって、ええもんやなぁって子供ながらに思ったなぁ。守られてる家族の一員でもええねんけど、自分が作る家族ってまた違うんやろうなぁ。蓮太郎?」
 蓮太郎が将来家族の中心となり作るだろう家族には、誰が横に立ってるんだろう。それが成実であることを願っているとでも言いたげに、赤い瞳は優しく微笑む。人間とか狐とか、そんなことよりも自分が誰を好きなのかを見出して考えろ。そう言っているような気もした。
 朧に言われたことをかみ締めるように、金色の瞳は揺らぎながらも赤い瞳を見返す。周りへの優しさのせいでどうしても自分のことには気弱になってしまう白い狐は、まだ少し悩んでいるような色を隠せない。ひとつのことをじっくり考えることは悪いことではないので、朧はそれ以上言葉を重ねることはしなかった。――――が。
「あんまりうだうだするんやったら、俺がもらうで?」
「…………は?」
 にやりと意地悪そうに歪んだ赤い瞳を見て、蓮太郎がぽかんと間抜けな顔をした。朧は指についた米粒を柔らかな唇で食みながら返す。
「俺の趣味からはかけ離れてるけど、お前がいらんのやったら俺がもらってもかまへんで。成実」
 何を言ってるのか分からないと言ったように、言葉をなくしていた蓮太郎が時間をかけてそれを理解すると、これでもかとばかりに目を丸くして慌てて腕を解き屋根の上で姿勢を正した。
「そんなんあきませんッ! だ、だいたいもらうとか成実さんに失礼ですよ!!」
「そうかぁ? 成実なんか人間でもなかなか結婚相手見つからんと思うけどな。お前の趣味ほんっまわからんわ……」
 盛大にため息をついた朧に向かって、蓮太郎のこめかみにぴきりと青筋が浮かぶ。膝の上で握り締めていた手がぷるぷると震え、それから白銀の髪を揺らしてふらりと立ち上がった。
 すっかり眼が据わった白い狐を、黒い狐が座ったまま見上げる。
「な、なんや……」
「いくら朧でも言うていいことと悪いことがあると思いますけど……」
「へ……?」
「成実さんを朧になんか差し上げませんし、僕の趣味がおかしいこともありませんからッ!」
 蓮太郎の瞳が妖しく煌き、じとっと睨みつけたかと思うと、繊細そうな白い手から揺らめきたった炎を朧に向かって叩きつけた。至近距離からのそれをまともに食らった朧が、叫び声をあげながら屋根からごろごろと転げ落ちる。
 夜空は雲がすっかり洗い流され、優しく光を滲ませる月と星の瞬きが、静寂を破る狐の兄弟喧嘩を見守っていた。

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