朧月夜に蓮華と愛

24.目覚めた後に。

 一人部屋の中で呆けていた成実は、上着だけは脱いだものの、かばんも座り込んだラグの上に放り出して、クローゼットに服をしまうことなく、ただぼんやりとベッドに凭れるようにして時間を過ごしていた。薄暗い間接照明だけを灯した部屋の中は輪郭が鈍く揺れ、成実の心理も手伝ってか、どんよりとして暗闇に同化してしまいそうなほどだった。
 どれくらい時間が過ぎたのだろうか。夜も深い時間で、住宅街の中にあるマンションの一室は、近所からの物音一つしない静寂にも包み込まれて、まるで世界がここだけになったような気にすらなる。
 泣いたせいか頭痛が軽度だが思考を鈍らせ、何もする気が起きず眠ることすら億劫な成実は、冷え切った部屋の温度にふるりと身を震わせた。
「さむ……」
 無意識に零れた言葉も何の感情もない。自分の喉から零れたはずなのに、それは誰の声なのだろうというくらい掠れていた。
 何も考えていないはずなのに。蓮太郎と朧がにらみ合う光景がありありと、成実の意思に反して甦る。
 赤い瞳をきゅっと歪めて睨んだ先の蓮太郎の、穏やかな色がない金色の瞳は、今どうしているのだろうか。サクラが蓮太郎に何かを施したのだろうか。蓮太郎は大丈夫だろうか、朧とは仲直りをしたのかな。
「……って、私が考えることじゃないじゃない」
 情けなくもその場を離れた自分がそんな心配をしてなんになる。顔を合わせることすら申し訳ない。
 本当なら、撫子に何かよからぬことをされてしまった蓮太郎が元に戻るのを、ちゃんと見ておかなければいけなかったはずなのに。それから元に戻った蓮太郎をちゃんと受け止めて、きちんと話をしなければいけないはずなのに。
 自分が辛すぎて耐え切れなかった。
 臆病な心が邪魔をした、少し前の自分を恨めしそうに思い返しながら、成実は泣きすぎて重くなった瞼を擦りながら盛大にため息をついた。身体の底から、人生の中でこれほどまでに深いため息をついたことがないというほどに深い深いそれを吐き出したとき、一瞬部屋が、というよりマンション全体が軋んだような気がした。
「地震……?」
 極わずかに、しかし確実にいつも感じないその軋みに、成実が不安そうにきょろきょろと視線を巡らせた。しかしそれ以上の軋みはなく、辺りも静まり返っていることには変わりない。気のせいかと思いすぐ近くの窓から空を垣間見ると、小さく星が瞬いていた。
 それを見て、不意に成実の瞳が潤む。何がこんなに悲しいのか、混乱してしまっているのでもう分からなくなりそうだ。
 数ヶ月前はなかった淡い気持ちが確かなものになり、時間を分け合っているだけで楽しくて幸せで仕方がなかった。蓮太郎が自分を好きだなんて確信も自信もないけれど、遠くはないかも知れないと、そう思えることが嬉しかった。大きなことは望まないようにしていたけれど、それでも好きだと思う。あの白い優しい狐を。
「結局、好きなんだよね……」
 滲む視界で窓から見える、小さな夜空を見上げて呟いた成実は、「明日また神社に行こう」。そう奮い立たせるように自分に言い聞かせて、よろよろと立ち上がる。
 疲れ果てた身体は、思考がまとまらないせいか急速に眠気を感じさせてくる。朦朧としかかった意識の中で、成実は着替えもしないままベッドに転がるようにして倒れこんだ。



 蓮太郎が自我を取り戻して数分後。
 長い睫毛を湛えた瞼が揺れ、ふわりと持ち上がると、その下から金色の穏やかな瞳が現れた。
「お。目ぇ醒めたか」
 すぐ近くで聞こえてきた声に、目覚めたばかりの蓮太郎はぼんやりとしたままの瞳を、声のした方向に廻らせる。自分を覗き込む格好で半ば抱き起こしている朧に、しばしキョトンとした後、目を丸くして跳ね起きた。
「朧……!? え、えっと……な、なななんですか!?」
 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返しながら、蓮太郎は辺りにせわしなく視線を投げる。そこはいつもの神社であり、古びた社と涼子の自宅の一角が見え、灯篭に玉砂利、赤い鳥居。朧に、心配そうな顔をしている涼子。見慣れた風景に見慣れない表情のいつもの面々だ。
「え……あの……僕なんで、何してたんですか、ね……?」
 黒い狐と少女を見ていた蓮太郎の顔が、次第に驚きから言いようのない不安に変化していく。この数日間の記憶などないといった様子の金色の瞳を、赤い瞳が見返す。
「うん。まぁ、大変やったわ」
 軽い調子で言った朧を、蓮太郎はまじまじと見つめる。しかし滑らかな褐色の肌にいくつも生傷を作り、甚平がぼろぼろになっている様子は明らかに「軽く大変」ではない。今更ながらにそれに気付いた蓮太郎がぎょっとして朧を上から下まで眺めた。
「朧、どうしたんですかそれ……誰に、やられたんですか」
「お前や」
 白銀の眉根を寄せて苦しそうに尋ねた蓮太郎に、朧はこれもまた軽くさらりと返事をする。さすがにそれは涼子も驚き朧を、黒狐の腕をぐいと引っ張る。
「ちょっと朧、いきなりそんなこと言っても蓮太郎分からないってば……」
「あぁん? そやかて隠してもしゃあないやんけ。いずれは分かるし、てか今から話すし」
「そうかもだけど、順序ってもんがあるじゃないのっ」
「そんなん聞かれたから答えただけやろが。俺のせいちゃうわ。聞いてきた蓮太郎に文句言えや」
「いやいやいや、そうじゃなくてね……」
 聞かれたから答えたって、と、呆れ返った涼子が更に朧に言葉を継ごうとしたとき、蓮太郎が普段穏やかな笑みを滲ませる顔を曇らせて声を投げ込んだ。
「僕がしたて、どういうことですか?」
「いや、そのまんまやけど」
「それじゃ分かりにくいです。ちゃんと教えてくださいっ」
 語尾が思わず強くなってしまうのを止められない白い狐が、そこまで言って、また気付く。
 夜空に浮かんでいる月の位置からして、もうかなり深い時間になっているはずだ。それなのに朧はこんな格好だし涼子もまだここにいるし、これって相当ただ事ではないような気がすると。
 となると気になるのはただ一人だ。蓮太郎の中で息吹く甘くて温かな存在も、このおかしな件に関係しているのだろうか。そう思うといてもたってもいられないほど鼓動が速くなる。
「成実のことか? 心配してるん」
「え……?」
 一人もの思いに耽りそうになっていたところに、朧がのんきな口調で現実に引き戻す。蓮太郎の瞳が赤い瞳を見やると、いつになく真面目な色を滲ませたそれに出会った。
「成実さん……どうかしたんですか……?」
 自分でもびっくりしてしまうほど、声が震えていた。今にも泣き出しそうな蓮太郎に、朧が小さくため息をついた後、ことのいきさつを話し始めた。その声音は蓮太郎を責めるものではなく、あくまで淡々としたものだった。涼子は一切口を挟まず、朧と蓮太郎の顔を交互に見つめながら眉根を寄せている。
 狐たちの儀式の後、撫子がいつ蓮太郎に対して自分を好きになるものをけしかけたのかは分からなかったが、それによって成実に蓮太郎がとった行動のこと。撫子の傍から引き離そうとした朧に、遠慮もなく白い炎を投げつけ抵抗しこんな姿にしてしまったこと。サクラがわざわざ出てきて、心の戒めを解いてくれたこと。その前に、成実が散々泣いて一人でここから離れていったことも、朧はすべて話をした。隠していてもばれることだし、隠すつもりもなかったから。
 黙って聞いていた蓮太郎は、ますますその瞳を歪めて何度も息を呑んだ。言葉はまず出てこなかった。呼吸が苦しくなるほど息をつめ、こうなってしまった原因が、あまりにも自分の不注意だったことと朧や涼子、サクラにまで迷惑をかけたこと、そして成実のことが頭を埋め尽くした。睫毛を伏せて顔を俯けると、さらりと白銀の髪が視界を覆う。
「と、まぁ、こんな感じや。お前には悪いけど、撫子のことはお父ちゃんに報告させてもらうで。今回はやりすぎや」
 括っていない黒髪を邪魔そうに、朧はわしゃわしゃとかき上げてそう言った。蓮太郎は聞こえているのか聞こえていないのか分からないが、風に揺れた髪が頷いたよう見えた。
「ええか。今からお前がすることは、成実のとこに行くことや。あいつの顔見て話して、ほんで仲直りして来い」
 自分の髪をかき上げていた手を、柔らかく蓮太郎の頭に伸ばして、朧は改めて蓮太郎が元に戻ったことに安心したように微笑んだ。切れ長の瞳をやんわりと細めた朧と、こちらも安心して愛らしく笑っている涼子の前で、蓮太郎の身体がふるりと震えた。
 まるで泣いているのか、嗚咽のような呻くような声が小さく蓮太郎の綺麗な形の唇から零れ落ちる。速拍する呼吸の合間から零れるそれに、朧も涼子も怪訝な顔つきで見つめた。
 俯いてしまっている蓮太郎の顔が上をむくことはなかったが、その代わりというように白い炎と光が蓮太郎の身体の周りに燈り始める。涼子が驚き目を丸くし、朧が「やばっ」と小さく呟いた時。
 ドンッ!! と、一瞬神社が揺れた。地震のようなそれははっきりと身体に感じるほどの衝撃で、それから古びた社がぎしぎしと音を立てる。それを目の当たりにした朧と涼子が目を真ん丸くして飛び上がった。長い年月を重ねてきた社は幾度も修復されながら存在している。それを押し潰そうとしているのか、はたまたひきちぎろうとしているのか分からないが、軋みは次第に大きくなり、目にも分かるほど社が震え始める。そこまで来て、やっと朧は我に帰りはたと正気づいた。涼子は放心しながら社を見上げているだけだ。
「蓮太郎落ち着けっ。お前ここ壊したらそれこそ周りからしばかれるてッ!」
 座り込んだまま俯いている蓮太郎の肩をつかんで、力任せに朧は揺さぶりをかけるが、蓮太郎はそれを振り切るように更に白い炎を燈らせる。
「ちょ、お前ら私の家壊す気かッ!?」
 そこへ異変を感じたサクラまでもが戻ってきて、血相を変えて言葉をぶつけた。赤い神の慌てようも、蓮太郎には全く目に入っていないのか軋みが治まることはなく――ひゅっと蓮太郎が息を吸い込んだとき。
 社の屋根の一部が、内側から爆ぜるように吹き飛んだ。


 このときの蓮太郎の感情の余波を、離れていた成実は「軋み」として感じていた。

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