朧月夜に蓮華と愛

23.サクラの底力。


 重苦しい空気が辺りを侵食し、誰も何も口を開かなくなった。赤い瞳をこれでもかと白い狐に突き刺している朧の艶やかな黒髪が、風もないのにふわりと踊る。それと同時に青い炎が褐色の肌にまとうように生まれた。
「朧ー。少し落ち着け」
 そこにサクラがのんびりとした声をかける。赤い装束をひらりと靡かせて朧のそばに移動すると、自分の視線より更に高い位置にある朧の頭を宥めるように撫でた。
「……分かってる」
 白く小さな手の感触に、朧は我に返り小さく頷いた。それから自分を抑えるために深々とため息を落とすと、成実に視線を流した。感情を抑え込むと、生まれ始めていた青い炎もなりを潜める。
 成実はその視線を受け止めることができずに、泣くしかできなかった。
 あなたは誰ですか。
   それだけの言葉がどうしてこれほどまでに悲しいのだろう。出会ってからの全てを忘れてしまっている蓮太郎の瞳は、何も映していない。成実本人も、今までの時間も、何もかも蓮太郎の中からなくなってしまっていることを、ありありと成実に見せつける。長い睫毛の下の瞳の色はいつもと同じ。端整な顔立ちも同じ。ただ成実を認めていないだけなのが、信じられないほど悲しかった。
「成実。ごめんな」
 声を殺して泣いている成実に、朧が静かに謝る。だがそれ以上いうことが見つからないように、黒い狐はきゅっと唇を結んでしまった。朧の腕に、先ほどとは違って不安そうにしがみついている涼子も、小柄な身体を更に小さくして立ち尽くしている成実を見る。サクラも何も言わないが、銀色の瞳を人間に止めた。
「私……帰る」
 しばらく黙り込んでいた成実が、ぽつりと言葉を零した。それに皆一様にキョトンとなる。
「帰るて……」
「うん。寒くなっちゃったし、疲れたし……朧と蓮太郎が喧嘩してるのも見たくないし、私ここにいても何もできないし、それに、時間も時間だし……それに、あの……」
 ――もう見ていたくないから。
 その言葉だけは言ってはいけないような気がして、息を詰めて成実は飲み込んだ。
 皆が黙り込んでいる中、力の入らない身体に大きく空気を取り込むと、そのまま誰の顔も見れない成実は身を翻してその場から離れた。
 後ろから涼子が自分を呼んでいたが、成実は聞こえないふりをして逃げるように赤い鳥居を後にした。



「早くなんとかせなあかんなぁ」
 成実の姿が見えなくなってしばらくしてから、サクラがまたのんきな声で呟く。朧の頭をもう一度、いたわるように撫でた赤い神は、黒髪と装束を軽やかに揺らして蓮太郎に歩み寄る。空ろな金色の瞳を覗き込むようにひょこっとしゃがみこむと、妖艶にその瞳を笑みの形に変えた。
「目ぇ覚めたら成実のことに行くんやで、蓮太郎?」
 朧にしたとおり、白銀の髪をやさしく撫でた白い手を、そのまま蓮太郎の額をかざす。何をされるのかも興味がなさそうなぼんやりとした蓮太郎は、特に抵抗もなくサクラの綺麗な顔を見返している。
 サクラが長い睫毛を伏せて、小さく可愛らしい唇から解呪の言葉を紡ぎ、額にかざしていた手をするりと、触れるか触れないかの位置を保ちながら身体へとなぞらせていくと、縄で縛られた蓮太郎の身体がわずかに跳ねた。感情のなかった顔が次第に苦悶するように歪み、呼吸が不規則なほど早くなる。何かに抗うように、蓮太郎は何度も頭を振り、綺麗に編みこまれた髪が揺れ、飾り房が互いに身を擦り合わせてかちりと音を立てた。
「朧……蓮太郎、大丈夫なの?」
 明らかに苦しそうな白い狐を見ながら、涼子が無意識に朧の腕をきゅっと抱き締めた。朧は感情の読めない顔でそんな蓮太郎を見つめながら、涼子を安心させるようにあいている手で少女の髪を撫でた。
「言うてみれば呪いみたいなもんやから、それを解呪するときは蓮太郎も苦しいはずやけど、まぁサクラのすることやし大丈夫や」
 普段憎まれ口しか叩かないこの社の神に対して、朧は絶大な信用を置いている。うめき声を零して身悶えるような蓮太郎を心配しているのには変わりはないが、自分の仕える神が弟にすることを黙って見守る。
 蓮太郎の額から汗が流れ落ちるほど滲み、苦悶するあまり表情も全く別人の様相を呈してくる。白銀の髪を振り乱して荒い呼吸を繰り返す白い狐は、自らを守るように白い炎をあたりに揺らめかせて掠れた呻き声を何度となく、噛み締めた唇の隙間から落とした。
「ほら、いい加減諦めや」
 苦しむ蓮太郎を愛しむかの眼差しで見つめながら、サクラは艶やかに笑み零し、誰にともなく語りかける。それからまた言葉を紡ぎ、それに誘われる赤い光が立ち上るように弧を描いて蓮太郎を包み込んだ。それが熱を帯びて白く発光し、網膜が耐え切れるか切れないかの閃光に、涼子が小さく悲鳴を上げて朧の身体に隠れるように身をすくませる。朧もそんな涼子を抱きこむようにして顔を背けた。
 眩い光の中で、蓮太郎は身体を丸めるようにして言葉にならないことを叫んで悶えていたが、一瞬のようで一瞬ではない時間の中で、光はぱあっと弾けて消えてしまった。その光に引きずられるように、蓮太郎の身体から黒い粒子の集まりのようなものが溢れ、もろとも消えていくのを、朧が眩しそうに視界の端に捉えた。
 やがて、境内の中に静かな空気が満ち始める。
「お、おわった……?」
 風が吹き抜ける感覚に、現実感が戻ってくる。涼子はその愛らしい瞳を周囲に巡らせながら何度も瞬きをした。古びた社と敷地内にある自分の家。灯篭に玉砂利の敷かれた足元。それから倒れこんでいる白い狐に、その傍にしゃがんでいる赤い装束を着たこの神社の神と、自分のすぐ横に立ち、同じように赤い瞳を瞬いている黒い狐。
 何もなかったように、それらは自然に涼子の目に映った。
「……みたいやなぁ……」
 少女の言葉に、朧も呆けた声音で返事をした。サクラもしゃがんだまま振り返り、幼さすら感じさせる笑顔で言う。
「これで一件落着や。痴話げんかもおさまるやろ」
 気楽な雰囲気でよっこらしょと立ち上がり、細い腕を伸ばして神はのんきに背伸びをした。
「ほな疲れたから私帰るわ。後はよろしくな。蓮太郎すぐ目ぇ覚めると思うし説明はあんたらに任せたでー」
 少々乱れた髪を手ぐしで整えて、サクラは朧たちの返事も待たずに姿をかき消した。残された狐と少女は、互いの顔を見てしばらく言葉を交わすことをしなかったかが、少しすると朧が白い狐に視線を投げかけ、ゆっくりとした歩調で歩み寄った。
 縄に囚われていた蓮太郎の身体のどこにも、自由を奪うものはなかった。これもサクラが解いてしまったのだろうか。白銀の睫毛を落とした顔は、苦悶していた欠片もなくあどけなさすら感じさせる穏やかなもので、きっと瞼を持ち上げれば、いつもの優しい金色の瞳があるのだと、確信できた。
「戻ったみたいだね」
 自分と背格好の変わらない蓮太郎を抱き上げるようにして、身体に凭れかけさせた朧に涼子は問いかけた。
「サクラがああ言うてるし、この間抜けな寝顔見てたら元に戻ったんやろうなぁ」
 心なしか安堵しきって泣きそうにも見える朧が、ふにゃりと頬を緩めて息を吐き出した。しかしすぐに眉間に皺を刻んで、黒い狐が呟いた。
「目ぇ覚めて……全部知ったらへこむんやろうなぁ」
「うん?」
 上手く聞き取れなかった涼子は、蓮太郎の額に散らばる髪を手で整えながら聞き返す。
「いや。でもまぁ、これで元通りならええこっちゃ。後は撫子に説教したら全部解決やろ」
 朧は赤い瞳を実に意地悪そうに細めてにやりと笑った。どこか陰惨な色すら垣間見えるその笑顔に、涼子が思わず心配そうに眉根を寄せた。
「あんまりひどいことしないでよ? 朧」
「何の罪もない成実あんだけ泣かしたんやから、撫子にもそら多少きついことはさせてもらうで。蓮太郎の気持ちも成実の気持ちも踏みにじったことは反省してもらわんとな」
「……その気持ちは分かるけど、何する気なの?」
 ニヤニヤと楽しそうに笑っている朧に、ますます涼子の眉間の皺は深くなる。しかし黒い狐はあっけらかんと笑うだけだ。
「なんもせえへんわ。お父ちゃんに言いつけるだけや。俺が何しても撫子には効かんと思うから、お父ちゃんから怒ってもらうのがええねん。それに蓮太郎もさすがに今回は撫子に怒るやろうし、それでお仕置きとしては充分や」
 社の片隅でひっそりと存在するお堂の、先にある世界で何も知らないで蓮太郎を探しているだろう撫子に向かって、朧はいたずらっ子のようににやりとまた微笑した。

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