朧月夜に蓮華と愛

20.届かなくなった気持ち。


 数日間、蓮太郎は神社に姿を見せなかった。成実は毎日仕事が終わると足を運び、そして落胆するのを繰り返している。
 朧は守り手としては勿論、成実のことも心配しているようで、こちらも毎日、成実が姿を現すのを待っている。しかしあくまでも留守番をしているという雰囲気で、のんきな様子ではあったのだが。
「ほんとに、蓮太郎どうしたんでしょうねぇ……」
 涼子が宵闇の色に馴染み始めた、古めかしい社を眺めて呟くように言う。成実は社の階段に腰を下ろして、愛らしい少女の顔を見ているようで、見ていない、なんともぼんやりした顔つきでただ頷いた。
 あの時、外された視線の意味を、この数日間考えずにはいられなかった。優しく注いでくれていた金色の瞳が、まるでそこに何もないかのようにするりと逸らされ、言葉もなくその場から消えた蓮太郎。自分が何か悪いことでもしたのだろうか。蓮太郎の気を悪くしたのだろうか。そればかり考えてしまって、どうしても気分が塞ぎこむ。仕事にまで影響してしまいそうなほどのこの蓮太郎不足に、自分でも驚くほどだ。
「今日も、会えないのかなぁ……」
 寒さに身を震わせながら待っていることも、白い狐がいないことも、何もかも成実を沈ませる。深々とため息を落として、持ち上げていた視線をがっくりと玉砂利の敷かれた地面へと落とした。
 二人で会話が続かなくなったとき、黒い狐がふわりと姿を現した。青い光がぽうっと生まれ、そのまま赤い瞳を持つ朧がいつものように現れたのだが、その顔を見た成実と涼子がぎょっとした。
「あんた……どうしたの……それ」
「朧、誰かと喧嘩でもしたの?」
 それぞれがぽかんとした様子で黒い狐を見つめた。視線を集めた朧は、見えている範囲だけでも何箇所も褐色の肌に生傷を作り、赤い瞳の目許がうっすらと腫れている。その目が、人間二人の視線を充分に集めていることを理解して、気まずそうに顰められた。
「男前が台無しやろ、ほんまに……」
 いつもなら成実にからかいの一つでも投げつける朧がそんなことを言い、情けなさそうに笑った。しかし傷だらけの狐を目の前にして、成実も涼子も笑う余裕などなく、心配そうに眉根を寄せた。
「なんでそんなことになったの?」
 涼子が問いかけると、朧はちらりと成実の方に視線を投げる。
「蓮太郎とちょっとな……」
 隠しておけないのははなから分かっているので、朧は至極あっさりと答えた。それに成実の頬がひくりと反応を示す。四六時中心を占めている名前への反応は恐ろしく敏感だった。
「蓮太郎と?」
 成実が詰め寄る勢いで立ち上がる。朧はやや慌てた様子で成実から数歩離れて姿勢を正した。
「蓮太郎は怪我してへんでっ。俺が油断してしもたからこんな有り様なだけやっ」
 ひらひらと手を振りながら慌てた朧の言葉に、成実がほっとしたように肩から力を抜いた。朧は高い位置にある腰に手を当てながら、言いにくそうに成実と涼子に赤い瞳を巡らせた。
「でもなぁ。喧嘩で怪我したって言うてる方がましやわ……」
「どういうこと?」
 言っている意味が分からずきょとんとする成実の前で、涼子が口を開いた。ぼんやりと棚引くような灯篭の灯りが三人を包み込む。
 朧はなんとも言いにくそうな顔で成実を見つめ、それから何かを思い出して舌打ちしたり、わしゃわしゃと頭をかいたり、ぶつぶつと何かを言ってみたりしていたが、やがて諦めたのか重くなった口を開いた。
「……祝言の話が持ち上がってるわ、あいつに」
「へ……?」
「え?」
 先ほど以上にぽかんとした成実と涼子が、それ以上言葉を発することができなくなって、境内の静けさが何倍にも増した気がした。朧は瞬きすら忘れた二人を見ながら、イラつくように赤い瞳に灯篭の灯りを弾かせた。
「こないだ蓮太郎なんかおかしかったやろ? あの後本家に帰ってお父ちゃんに結婚するて報告に行きよってん。ほんならあれよあれよの間にもうお祭り騒ぎや」
 異世界にある蓮太郎と朧の本家など成実たちに理解できるはずもないが、家族の誰かが結婚するとなれば、それはたいがいの場合おめでたいことに違いないだろう。すっかり舞い上がっている狐の父親のことや、子狐の楓たちのことを朧は話してくれたが、成実には殆ど聞こえていなかった。
 心の中にずっしりと、重くどろりとした嫌な感情が急速に溢れ始める。そして鼓動が痛いくらい速く打ち、鼓膜のすぐ近くで聞こえているような気さえした。感情が一気に昂って、表情を上手く作ることができない。握りこんだ手の中で、爪が自分の皮膚に食い込んでいるのも気にならなかった。
 青ざめた成実を見て、涼子はハッと我に返ると朧の甚平の胸元を掴みかかりそうな勢いで持ち、血相を変えて言葉を押し出した。
「その相手は誰なの!?」
 小柄な涼子であっても、胸ぐらをつかまれるのは朧とてビビる。ぎょっとして身を仰け反らせながら、黒い狐は声を上ずらせた。
「ちょ、落ち着けて! あれや、撫子やっ」
「なでしこ……?」
 この間、蓮太郎から零れた名前に、成実の心臓が一段と速くなったような気がした。その名前と共に思い出すのは、外されたあの視線。きゅうっと胸が痛んで、思わず顔を俯けてしまった成実を見て、涼子が突き刺すような視線を朧に向けた。
「なんでそんなことになるのッ。蓮太郎が好きなのは成実さんでしょ!? どういうことなのよ朧ッ!!」
 普段穏やかで怒ったところなど見たことがない涼子の剣幕に、朧はますます驚いて赤い瞳を丸くして後ずさる。が、しっかりとつかまれているせいで思ったより動けない。
「それが分からんから俺かて困ってんやないかッ。ちょっとほんまに手ぇ離せや涼子!」
 細い手ではあるがぎゅっと首を絞める状態で握られていては堪らない。わたわたと、狐と少女が揉み合うようにやいやい言い合っているため、通りがかる人がいたならば、それこそ喧嘩でもしていると誤解されてしまうだろう。幸い人通りのきわめて少ない場所にあるので誰にも聞かれることはないのだが。
 その騒がしさなどまるで聞こえていない成実は、言いようのない不安の中で、必死に泣くことだけを我慢していた。
   もう何が何やら分からなくて考えることもできなくなってしまい、鼻の奥はつんとしてくるし視界は滲むしで、顔を上げることが辛い。泣いたらお化粧取れて大変なことになるからだめだよ。などと少しばかり違う方向に考えて古びた階段を穴が開くほど見つめ、なんとかやり過ごそうとしていた。しかしそんな事は無駄な努力に過ぎなかった。滲み始めた視界は一層潤い、あ、と思ったときには、はたりと涙は階段の木目にしみ込んでいこうとしていた。
 一度溢れた涙はとまらず、口元を抑えて我慢しても小さく声も零れてしまう。呼吸の合間に嗚咽を漏らしながら肩を震わせる成実の背後に、突如赤い光がふんわりと浮かび上がり、同時に可愛らしい声が三人の鼓膜を打った。
「ほんまにうちの留守番はやかましいなぁ。口縫うたろか黒狐」
 声に似合わない言葉の悪さが違和感を感じさせる。だが見た目は艶やかで美しい赤い装束のサクラが、眉間に皺を刻み不機嫌な様子で姿を現した。そうしているだけで、銀色の瞳がいつも以上に凄みを増している。
 しかし三人を確認する銀色の瞳が泣いている成実を認めると、軽く見張られ眉間の皺が柔らかく刻みなおされる。心配そうに成実のすぐ横に立ち、白い手で成実の頭をふわりと撫でた。
「なんや? うちのあほにいじめられたんか?」
「待てやサクラ! 俺なんもしてへんぞッ」
「誰もお前のことやて言うてないやないか。まぁそうやけどな。あほやて自覚あるだけ褒めたるわ」
 名指しされているわけでもない朧が慌てて言葉を差し込んできて、サクラがにんまりと銀色の瞳を細めて狐を見やる。黒髪が夜風に靡き、赤い唇が弧を描くだけで幼い印象ががらりと妖艶に変わる。
「でもほんまに何があったんや。なんもしてない人間泣かすんは感心せんで私は」
「だから俺ちゃうねんて。蓮太郎が……」
「蓮太郎? お前やなくて蓮太郎がこの子泣かしたんか?」
 普段おとなしく穏やかな蓮太郎が誰かを傷つけたり、まして泣かせてしまうだなんてことはサクラにも思わぬことだったようで、整った顔立ちをきょとんとさせて朧に確認する。
 朧と涼子がその理由を話すと、サクラは言葉を挟まずに黙って聞き入った。その間も成実の横に立ち、柔らかく何度も髪を撫でる手は止めなかった。
 やがてすべての話を聞いたサクラは、少しの間何かを考えるようにしていたが、そのうち呆れたようにため息を落とした。
「なんか術を使われたみたいやなぁ」
「は? なんやねん術って」
 ふわふわと身体を浮かせながら、朧が怪訝な眼差しをサクラに向けた。それが気に食わなかったのか、サクラは軽く朧に赤い光をどかんとぶつけて一掃した後、成実と涼子に向き直る。
「人間の世界にはないと思うけど、まぁ意中の相手を振り向かせる、みたいなもんやと思うわ。撫子が蓮太郎にやったんやろ。蓮太郎引きずり出してきたら、浄化したってもええでー」
 漆黒の前髪の下にある銀色の瞳を愛らしく細めて、サクラは邪気のない子供のように笑った。そんな事は造作もないことだとも言い、安心させるように成実の頭をぽんぽんと叩く。
「それって、蓮太郎本人の意思じゃないってこと? その、結婚のことも……」
「そうや。蓮太郎は今自分でなんかを考えることなんかでけへんと思うわ。いつも以上に腑抜けってことやな」
「じゃあ、サクラさんが治してくれるんですか? 蓮太郎がまた成実さんのことを見てくれるように」
 涼子が成実の言葉を引き継ぐようにして問いかけると、サクラが軽やかに笑い声を立てた。
「狐と人間であっても、恋仲を邪魔したらあかんやろ。そんな無粋なことしよるんは感心でけへんから、私がそっちの邪魔したるわ」
 その言葉に、サクラに一掃された朧が痛みも忘れて呆けた顔で見つめた。赤い瞳を受けた銀色の瞳が、不思議そうに狐を見返す。
「なんや、朧?」
「いや、サクラ反対せえへんねんなぁ……」
「なにがな?」
「いや、蓮太郎と成実のこと。なんや、鬼の霍乱か?」
 涼子もそれは思っていたらしく――鬼の霍乱とは思っていないが、反対しないことに関しては朧と同じという意味で――、朧の問いかけに同感だと小さく頷いた。成実はただ黙って三人のやり取りを見ているだけしかできない。
 朧の言葉を受けたサクラは、じろりと睨みつけ、黒い狐をまた赤い光で吹き飛ばす。それからため息と一つ落とすと成実に言った。
「私は蓮太郎とあのあほが笑ってられるならそれでええと思てるんや。細かいことは気にしてない。ほんまに心が通ってるんやったらええんちゃうか。だから任しとき」
 気軽な言い方ではあったが、それは何よりも成実に強く聞こえ、涼子にも響くように安心感をもたらしてくれた。

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