朧月夜に蓮華と愛

5.ちょっとだけ異世界。

 のどかな昼下がり。
 とでも言いたくなる晴れた休日。成実はのんびりと近所のスーパーで買い物をした後、散歩がてら歩いていた。赤い鳥居を目指して。
 年頃の女の子が休日に何もすることがないなんて、少しどころかかなり寂しいのかもしれないが、予定がないものはないし、最近少し頑張って働いていたのだから少しくらいぐうたらしてもいいじゃないかと、開き直って昼前までのんびりとベッドの中で過ごした。
 のんきに起き出して洗濯をして軽く朝昼兼用の食事を摂ったあと、寒いが散歩をしているのである。
「そう言えば……昼間はあんま来たことないよね」
 人気のあまり、いや殆どない神社への道は明るい、冬になろうとしている弱い日差しの中で静寂過ぎて物音がない。あの不思議な狐たちと出会うまではあえて通ろうとしていなかったせいであまり印象がないこの通りを、すっかり慣れた様子で成実は歩いていた。
 やがて見えてきたのは木々の並びと赤い鳥居。これまたすっかり見慣れたそれを見上げて、成実はスーパーで買い物をしてきたことを若干後悔しながらよっとそれを持ち直して鳥居を通った。
「こんにちはー」
 一人きりの境内で成実が誰にともなく声をかける。いつもこうして挨拶をしたら黒と白のどちらかの狐がふわんと姿を現してくれるからだ。しかし、今日はいつまでたっても見えなかった。大きな耳と尻尾を持ったあの二人が。
「留守? てかそんなことあるの?」
 成実は思わず首を傾げながらそんなことを呟いた。いやいや朧も蓮太郎もここを守るのが役目なのだから留守にするなんてことないだろうと一人ツッコミ、もう少し待ってみようかと社に上がる古びた階段のところに腰を下ろした。
 木枯らし、とまではいかないものの時折吹き抜ける風は寒い。冬本番がすぐそこまで来ている天候は陽射しがあっても充分に身を震わせるものだった。
「さむ……ほんとにいないのかな?」
 成実はよっこらしょっと、コレも年頃の女の子がどうかと思うようなことを言い、腰を上げてキョロキョロとあたりを見渡す。閑散とした境内は見るからに寒々しく、無意識に上着の襟元をきゅっと抑えながら、ふと目に入った子供の背丈ほどのお堂のようなものが気になった。
 古い社同様、それも同じく古びていて、しかししっかりと手入れはされているようだ。しょっちゅうここへはくるようになったものの、神様なんて信じてもいなかったし、神社に来るのなんて初詣か神頼みのとき位しかなかった成実は、コレなんだろう?と小さな格子の向こうを覗き込むようにして身を屈めた。
「わ、可愛い」
 成実が思わず口にしてしまったものは、中にあるミニチュアのようなお屋敷のことだった。古い絵巻物の中から飛び出したような庭園つきの屋敷は木でできており、やはり古いものであることが分かる。しかし素人の成実でも分かるほど繊細に彫りこまれたそれは見ているだけでも楽しいものだった。
「こんなところになんであるんだろう?」
 お堂のようなものの中には、お地蔵さんじゃないの? と、これまた成実が思うものの、この中にはこの屋敷の彫刻以外何もない。祀らなければいけないほど何か大切なものなのだろうかと首を傾げながら、なんとなく格子に指を引っ掛けて更に覗き込んだ。
 そのとき、鍵がかかっていなかったのか。閉じられていた格子がかちゃりと動き開いてしまった。
「あ、やば……」
 少し軋んだ音を立てて木の格子扉が隙間を空けて開く。何気に悪いことをしたのではないかと感じた成実が慌ててその扉を閉めようとしたとき、一気に二枚の扉が開いた。
「えっ!? ひゃあっ」
 成実が目を見開き驚くなか、扉が開いたお堂の中から玉虫色に輝く光が溢れ出し、その眩しさに成実が目をかばうように顔を背けた。
「な、なんなのこれっ」
 目が眩むような輝きの溢れるそこをなんとか閉めなくてはいけないと思うが、手探りで扉を閉めようとしているせいかなかなか上手く閉じることができない。一人わたわたしている成実がそれでも必死にそれと格闘していると、光が更に質量を増したように成実を取り囲み、あたりが見えなくなってしまった。そして、暖かくて心地よい感覚に襲われた成実の意識が急激に蕩け始めた。それと同時に光に包まれた身体が引き込まれるように、しゅるんっ、と古びた屋敷に吸い込まれた。
 風の拭く中、買い物袋だけがぽつんとそこに残された。



 何かが成実の頬を柔らかく撫でていく。心地よい春の風のような感覚に成実が意識を持ち上げられ、閉じていた瞼を震わせた。
 どうやら寝転んでいるのか、身体の下に感じるのは瑞々しい香りを含んだ草。そして目に映るのは、と、視界に入る込んでいるそれを認識した成実がキョトンとしたように眼を瞬かせ、直後限界まで目を見開いた。
 どこまでも高く突き抜けるような空。なのだろうか、いやしかし今まで見てきた空と全く違っていてそれは鮮やかな桃色だった。空にも色々な色はあるが、見渡す限り淡い桃色の空は見たことがない。しかもその「空」に、まるで水の中に絵の具を落としたかのような揺らめき持って広がる紫と黄金色の雲ともなんともつかない流線がたゆたっているではないか。マーブル模様といえば良いのかな、コレ。と、見えるものになんと表現すればいいのか分からない成実がはたと我に返り慌てて跳ね起きた。
「あ、起きましたか?」
 そこに聞こえてきた声に成実が呆けてしまっている視線をついと下ろした。が、またもやきょとんとして眼を瞬かせることになる。
「こんなところで寝てたら風邪をひいてしまいますよ?」
「あ……あんた……誰?」
 にっこりと可愛らしく笑っているその相手に向かって、成実が震えながら問いかけると、それは小さな頭の三角とふさふさとした尻尾をぴこんと動かした。
「僕ですか? 僕は楓と言います。ここで奉公している狐です」
 幼さの残る愛らしい金色の瞳がふわんと細められて、その狐は成実に楓と名乗った。
「うん……キツネ、だね……うん」
 もうコレは驚かなくてもいいのかも知れないが、やはり普通の人間の成実からすれば、この姿はもうなんと言うか。朧と蓮太郎で見慣れたものの他にキツネを見ることがなかったし、他にもいたのかと思うとどうにも驚かずにはいられない。
 しかもこの楓と名乗った子狐は、小さかった。いや子狐というなら小さいものなのだろうが。
 蓮太郎と同じ銀髪に金色の瞳、そして朧のような甚平姿――こちらの色は白いのだが――顔立ちだけ見ていると10歳くらいの男の子だ。顔立ちだけ、というのは、サイズが明らかにおかしいからだった。
「……それ、実寸?」
「はい?」
 成実の質問に楓は首をかしげて気の抜けた声を出す。そして少し間をおいてから「そうですけど、おかしいですか?」と問い返してきた。
「うん……ちっこいよね……かなり」
 人間の10歳の少年ならば、最近は成長具合も良いだろうしこんなに小さいことはない。というか、2~3歳の大きさしかない楓は姿かたちは少年だが、どう考えても小さすぎた。
 まじまじとそんなサイズのカオスな狐を眺めていた成実だが、再びはたと我に返ると周りを確かめるように見渡した。
 妖しさすら感じる空の下には、穏やかな緑の庭園が広がっていた。池と木々のバランスが綺麗で、単にここだけならば整えられた庭園の素晴らしさに感心していただろう。
 しかしいかにも「この世」ではない景色に成実は当然ながらそんな気持ちになれるはずもなく、すぐ横でちょこんと座っている楓に向き直り、不安を滲ませながら質問をする。
「ここ、どこか分かる?」
「はい?」
「私人間なんだけど、ここって、人間いる?」
 自分でもおかしな自己紹介だと思うが、白い耳と尻尾を持つ楓は当たり前だけど人間じゃないし、この世界も明らかに人間の住まう世界ではないだろう。
 成実の言葉に楓は明るく笑い、それからすいっと立ち上がった。立ち上がっても小さいものは小さいのねと成実が思ってしまったのは秘密である。
「ここは蓮太郎様のお屋敷です。勿論人間はこの世界にはいませんよ」
「蓮太郎……さま。おやしき……」
「はい。この世界は僕たちの世界に通じています。蓮太郎様は外……あなた方の世界でサクラ様をお守りするためにここにお住まいですが、本当ならもっと大きなお屋敷なんですよ」
 成実の後ろにあるお屋敷を指差して、楓が自慢げに笑った。その指先をなぞるように先ほども視界に納めたそれを成実が再び振り返る。赤と金を基調にした古い和風の建物は平屋作りで横に長い。何の作用かほのかに光を帯びるその建物が桃色の空とあいまって幻想的で、不安も忘れたかのように成実がほうっと吐息を零した。
 いやいやっ、呆けてる場合じゃない!
 突如成実がすくっと立ち上がり、小さく可愛らしい狐を見下ろした。
「私なんでこんなところに来たの!? それから、朧か蓮太郎はいないの?」
 とにかくこんなところで悠長にしている場合ではないと思いたち、大きな金色の瞳で見上げてくる楓に詰め寄る勢いで尋ねた。そんな成実に気圧されるように楓が数歩後ずさり、しかしまっすぐに成実を見上げまま答えを返す。
「蓮太郎様も朧様もいますよ。母屋に……というか、あなたは誰ですか?」
 そこで名乗っていなかった成実が今更ながらにそのことに気付く。
「あ、ごめん。私は成実。蓮太郎たちとは顔見知り? かな」
「そうなんですか? それは失礼しました」
 ぺこりと楓は頭を下げて、また成実を見上げてにっこりと笑った。金色の瞳が桃色の空を映し、きらりと輝く。そんな様子はとても綺麗なのだが、成実はそれどころでないように屋敷に向かって歩き出す。
「あ、待ってくださいよ。成実さん」
 慌てた楓がちょこちょことした足取りでその後ろを追いかけながら尻尾をふわふわと揺らす。
「何で私がこんなことになるの? てかさっきのお堂みたいなのがここってこと?」
 なにやら先ほど見ていた屋敷の彫刻に、目の前の建物が似ている気がする。細やかな細工の施されたあの彫り物を思い出して、ふと立ち止まって赤と金色の建物を見上げてみた。
「おどう?」
 一人ぶつぶつと言いながら屋敷を眺めている成実の横で、楓が息を切らせながら呟いた。それから小さな手を持ち上げて、くいくいと成実の上着の裾を引っ張った。
「それって、サクラ様の神社にあるものですか?」
「うん? そうだけど……」
「あ、ならそこは僕たちの世界と人間の世界をつなぐ扉みたいなものですね。さてはまた蓮太郎様が鍵をかけ忘れたのでしょうか?」
 あっけらかんと言った楓に成実がぽかんとした顔で見下ろした。扉って何とツッコむことも忘れたそんな成実の頬を、春のような風がふわりと撫でていった。

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