朧月夜に蓮華と愛

4.正義の狐。

 あれから一月ほどが過ぎた。季節も秋から冬へと変化しようという時期になり、朝晩もぐっと寒さを感じるようになってきた。
 成実は仕事の帰りに神社に立ち寄ることが増えた。と言っても涼子に誘われて訪れることが増えた、ということなのだが。可愛らしく懐いてくれる涼子に成実がすっかりほだされてしまい、そうこうして駅で出会ったり約束をしていて神社に訪れることになっていった。
 当然ながら神社にはあの不思議な狐たちがいて、成実にとってはその姿を見るだけで最初は驚いていたのが、一ヶ月もたつとそれも当たり前のようになっていく。
 慣れって怖い。と自分で思ってしまうのだが、しかしやんちゃな朧とは口げんかをしては笑い合い、おとなしく穏やかな蓮太郎とは色々な話をして笑い合い、涼子とは年頃の女の子だということもあり、それなりに恋愛の話をしてみたりと過ごしている。
 日の沈みが早く、暮れ始めるとあっという間に夜の闇が訪れる季節。なんでもない話をしながら過ごす時間は瞬く間に深くなって、家に帰る時間は結構遅くなる。
 いくら家がすぐそこだからといっても、暗い道に面している神社から一人で帰るのは怖いので、そのときは必ず朧か蓮太郎が付き添ってくれるようになっていた。
 しかし実際にあんなアヤカシの子が人目に触れるのは、他に誰かがいた場合不都合しかないので姿を消しての行動なのだが、それでも一人きりではないことが成実には素直に嬉しかった。



「結構遅くなったなぁ」
 仕事からの帰り道。いつかのように終電間際になってしまった成実が改札を出る。
 駅の近辺は賑わっているものの、少し離れ始めるとそこは住宅街に入り込み、そして静かになってくる。ひとり足早に歩きながら成実は携帯を片手に友人からのメールに目を通していた。
 最初は同じ方向に何人か歩いていたが、それぞれの道に分かれてそれも見えなくなっていく。メールの返信をしながら無意識に歩いていた成実がふと気付くと、そこは神社に向かう小道に入り込んだところだった。
「あれ……間違えた」
 一人で神社に向かわないときは、できるだけ明るい道を歩くようにしている成実だが、最近はことあるごとにそこへ向かうようになっていたためか、癖のように入り込んでしまったようだ。
「まぁ、急げばいいか」
 独り言を零しながら、成実は引き返すことをしないまま、街灯さえ少ないそこを進み始めた。
 靴音がいつもより大きく聞こえるその道を成実がしばらく歩いていった頃、何かおかしなことに気付いた。
 なんともいえないが、他の気配があるような気がした。こんな時間にここを歩いているものがいるような。しかもそれは成実の背後からの気配のような気がしてならない。
 誰がいるんだろう……こんな時間に。
 成実がふと立ち止まり、そのまま背後を確認するように振り返るが、誰もいない。まさかあの狐たちなんだろうか? そう思うものの、最近ではなんとなく分かって来た狐たちの気配でもない。
 薄気味悪さを感じながら、それでも帰りを急ごうと再び成実が歩き出した。先ほどよりもまだ幾分早く。
 しかしそれは成実の後を着いてくるように速度を速めた。同じ間隔を保ちながら、しかし付き纏うような不快な足音を連れ立って。
 もうこれは人間以外のなにものでもないだろうという明らかな足音に、成実の背筋に悪寒めいたものが駆け上がる。そして思い出す最近の噂。涼子がこの間言っていたことを。
「通り魔みたいな輩がいるようですよ」
 ニュースにもならない小さな噂があった。実際にどこの誰かが被害を受けたとかは聞いていないが、こんな状況でそんなことを思い出してしまえば恐怖は倍増する。細くて暗い道を歩いているだけでも、正直怖がりの成実には堪らないのだから。
 冷や汗が滲み、足が震えてくる。早く早くと心ばかりが焦り、足がもつれてしまいそうになりながら、それでも成実は小走りに走り出していた。
 せめてあの神社に駆け込めばなんとかなるのかもしれない。
 無意識に明るく元気な狐たちを思いながら走っている成実の視界に、神社の影が見えてくる。冬の訪れを感じさせる夜風に髪を流れるままに、ますますほぼ走り出す勢いで成実が歩を進めて背後を振り返ろうとしたとき、踵の高い靴が災いして、またバランスを崩しかけた。
 そしてそのときに、後ろの気配は一気に成実に近づいてきた。黒尽くめの何者かが荒々しく走りこんできて、手にしていた、街灯を受けて光を持った銀色のモノを振りかざす。
 それは成実には恐ろしくゆっくりとした動作に見えた。崩れかけた体勢を立て直すこともできなかった成実がそれでもなんとか身体を捻るようにして地面に崩れ落ちるところに、銀色のそれが風を切る勢いで斜めにはらわれた。
 成実の声が悲鳴になって静かな道に放たれる。静まり返ったそこに響き渡った声は異質極まりなく、しかし誰にも拾われることなく熔けていくように消えてしまう。
 相手を仰ぎ見るようにして尻もちをついた成実がなんとか逃げようとして、恐怖で力の入らない身体をなんとか身じろぎさせた。
 目の前には、異様に不快さを纏った輝きを持つ眼差しがあった。成実の脳が受け止めきれず、何が起きたのかすら理解に苦しむほど、それは当たり前だが初めてのことだった。
 自分がへたり込んでいるせいか、恐怖せいか分からないが目の前に立っている見知らぬ男がやたらと大きく見えた。
 私、殺されるの……?
 自分の扱え切れない状況なのに、妙に冷静というか振り切ってしまった思考が可笑しな方向に行っているのか、片隅といえないほどに小さなところでそんなことを考えて、自然と涙が頬を伝っていた。時間の感覚なんてなく、様々なことが一気に呼び起こされたように成実の頭を過ぎる。
 声が出せない唇からは不安定な呼吸が繰り返され、がたがたと震えている身体は次第に強張り全く動けなくなってしまった。
 目の前の男はその残忍さを隠しもしない瞳を獣のように輝かせて成実をじっと見下ろしていた。そしてその瞳が極上の楽しさを滲ませたとき、成実の周りに白く揺らめく炎がいくつも生まれた。荘厳なまでも煌くそれらが瞬間的に音もなく大きくなり、そして成実からまるで弓矢で放ったかの世に男に向かって飛んでいく。人間一人など難なく飲み込むだろう大きさになった白い炎が、男を瞬きの間ほどの時間で包み込み、それと同時に何が起きたか分からず呆けてしまった成実の身体が、ふわりと浮かんだ。
「ひゃあッ……」
 年頃の娘にしては少々間抜けな声を出した成実が浮いた自身の身体を支えてくれているそれにつかまろうと顔を上げたとき。それが何なのか初めて脳が理解した。
「蓮太郎……!?」
 抱き上げてくれていたのは、神社の白い狐だった。髪と尻尾を靡かせ金色の瞳が険しい色を帯び、そしていつも穏やかな笑顔を見せているはずなのに、思わず息を呑むほどに今の蓮太郎の顔は厳しいものだった。
 白い炎に包まれた人間の男は当然ながらパニックになったようで、奇声を発しながら転げ回るようにそれから逃れようとしていた。決して本当に焼き尽くそうとしていたわけではない蓮太郎の炎なのだが、アヤカシの術を体験してはまともな反応もできないだろう。
 そんな男を横目に、蓮太郎は成実を軽々と抱き上げて、そのまま神社まで空を漂うかのような動きで移動した。赤い鳥居をくぐって境内に入った蓮太郎は無言のまま成実を社の前に降ろした。古びた社の階段のところに立たされた成実が、そのままへなへなと腰を抜かしてへたり込んだ。そして改めて怖かった思いが駆け巡りまた身体が震えだした。自分を抱き締めるように小さくなって震えている成実に、蓮太郎がそばに立ったまま見下ろして口を開いた。ぞっとするくらい冷たく、まるで突き放すような声で。
「なんでこんな時間にここを歩いてたんですか」
「……え?」
「こんな時間にこんな暗いとこ歩いてたら危ないの分かるんやないですか? なんでそんな迂闊なことしはったんですかっ!? それに可笑しな輩がいてるてこの間涼子が言うとったん、忘れたんですか?」
 まっすぐに射抜くような視線と言葉を投げてくる蓮太郎に、成実が今までと違った意味で息を呑んだ。明らかに怒っている蓮太郎を見たのは初めてで、普段穏やかで柔和な雰囲気の蓮太郎が怒ると雰囲気があまりにも違っていて、同じ人物には思えないほど陰惨で冷ややかに見えた。
「ごめんなさい……」
「この近所やったから僕でも分かったけど、離れてたら気配に気付くこともでけへんのですよ? 何かあっても助けてあげられへんのです。成実さんが気をつけてくれんと……お願いですから心配させんといてください」
 自分の感情を押し殺すような声音にイラつきがまざる。蓮太郎自身がどれだけ成実を心配していたのか分かりすぎてしまって、何も言えなくなってしまった。
 重苦しい沈黙がだらりと垂れ込め、何も言えなくなってしまった成実の前に、青い人影が浮かんで、のんきな声が聞こえてきた。
「蓮太郎? お前急にどこ行ったんかと思ったやないかー」
 赤い瞳に黒い大きな耳と尻尾のもう一人の狐が姿を現し、そして蓮太郎の顔を見てぎょっとして思わずといったように後ずさった。
「な、なんやお前……怒ってんか?」
 珍しいくらいに険しい顔をしている蓮太郎を見た朧の顔が強張って、心なしか声もおどおどしたものになっている。そして座り込んでいる成実に視線を落とすと、慌てて隣にしゃがみ込んだ。
「お前、なんかしたんか?」
「……は?」
「蓮太郎があんな顔するほどお前何やらかしてん。めっさ怖い顔してるやないか、あいつ」
 ひそひそと声を抑えて朧は成実に耳打ちするように話しかけた。朧のこの言い方からして、蓮太郎がこんな顔をすることが珍しく、そしてよっぽどのことなんだと成実が改めて思い知る。
「蓮太郎……本当にごめんなさい」
 成実の瞳にまた涙が込みあがってくる。これほど心配してくれる蓮太郎に申し訳なくて、溢れ始めた涙を堪えることができないままに、成実は顔を覆って泣き出してしまっていた。
「あ……いえ。あの……ほんまに心配したし、それに、あの……なんかあったらて思うたらいても立ってもおられへんくて、別に泣かすつもりがあって言うた訳やなくて……あの、成実さん?」
 涙を流している成実を見た途端に、蓮太郎の顔から厳しい色が掻き消え、その代わりにおろおろとした、しかしいつもの優しげな色が瞬く間に見えた。
 泣いている成実と慌てふためく蓮太郎の間で一人訳の分からない朧が、交互に二人を見て、そしてとりあえずなんとなくでもこの場の雰囲気が和らいだことを理解した。それから大きな手で成実の頭を何度も撫でる。
 温かな朧の手の感覚と、そして怒られたことと心配してくれている二匹の狐の、こちらも温かな感情に、成実の涙はますます止まらなかった。

「朧月夜に蓮華と愛」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く