朧月夜に蓮華と愛

2.夢ではなかったようです。

 次の日。
 出勤するとき、成実はまた神社の前を通った。すがすがしい朝日の中に浮かぶ赤い鳥居は昨日見た薄気味悪さなんてなく、綺麗で、まるで昨日のことなんて夢なんじゃないかと思えるほどだ。
 人気のあまりないこの通りを、普段から成実は利用しない。なのでこの神社を朝から見るなんてこと自体が珍しさを感じさせてくれ、思わず立ち止まって大きな赤いそれを見上げた。
「あそこに、立ってたんだよね……」
 夕べ見たそれは、暗闇も手伝ってそれほど高さ自体は感じなかった。しかし今明るいところで見てみると、やはり人間がやすやすと上がれる高さではない。
 成実は改めてぼんやりと、それを瞳に映して昨日のことを思い出していた。
「おはようございます」
「……へ?」
 そんな成実に明るい声がかかり、持ち上げていた視線を下へと下ろす。
 目の前には、紺色のセーラー服を着た少女が立っていた。少しだけ茶色の混じる髪を緩く二つに分けて括っている少女は、明るい笑顔で成実を見て立っている。
「おはよう、ございます」
 純粋に可愛いなと思わせるその大きな瞳を見て、成実も一応頭を下げて挨拶をした。すると少女が小さく首をかしげて尋ねてきた。
「何か御用でしたか?」
「御用?」
「あ、私ここの娘なんです。今掃除してて……あなたが鳥居を見上げていたので、何か用事でもあるのかなって」
 愛くるしい笑顔が朝日の中で更に輝いているように見えて、数年前に制服を脱いだ成実は思わず「若さって良いなぁ」と関係ないことを考えてしまっていた。
「あ、別になんでもないんです。ごめんなさい」
「そうなんですか? こちらこそすみません」
 頭を下げた成実以上に深く頭を下げて謝る少女に、成実が素直に好感を抱く。こんな可愛い子が神社にいたんだと単純に驚いてもいる。どうにも人の気配がないここに現れた少女の可愛さは女の成実でも感心するくらいのものだった。
 そしてふと、成実の中に疑問が浮かぶ。
 ここの子ってことは、あれのことも知ってるの?
 そう、「あれ」。不可思議極まりない黒と白の存在のことを、この子が知っているのか。それが知りたくなってしまった成実が、少女の大きな瞳を見つめて口を開いた。昨日の事を何とか説明する。
 正直うまく説明なんてできなかった。自分が今でも信じられないことをどうして他人にうまく説明できるだろうか。短い言葉で何とかあの二人――いや二匹と言う表現が正しいのか――のことを話した。
 しかし成実の心配をよそに、少女は満面の笑みを湛えて答える。それは堪らなく愛らしすぎる笑顔だった。
「あ、朧と蓮太郎ですね」
「へ?」
 あまりにも当たり前に答えられて、成実の方が間の抜けた声で返事をしてきょとんとしてしまっていた。
 少女は成実に背を向けるようにして神社に向き直り、そして身体に似合わない大きな声でその二つの名前を呼んだ。
「おーぼろーっ。れんたろーっ」
 静かな神社の中に響いたその声が木々のさざめきに消える頃、鳥居の向こう側にふんわりとした黒と白の影が浮かぶ、そしてそれはたちまちはっきりとした輪郭を持って鮮明な姿で成実の視界に入り込んできた。
 黒い髪の毛と耳と尻尾。赤い瞳は昨日見たままに妖しさを湛えてどこかいたずらっぽく煌いていた。濃紺色の甚平姿で立っているそれの横には、朝日に輝く銀色の髪と白い耳に尻尾。金色の瞳を優しげに細めた蓮太郎は、これも昨日と同じように朧よりももっときっちりとした日本古来の装束で身を固めている。
 音もなく若干の燐光を持って現れた二人を、成実が瞬きも忘れたように凝視していると、少女が再び振り返り、可愛らしく微笑んだ。
「あなたが見たのは朧と蓮太郎ですよね?」
 この場に人外のモノ二人と、また腰を抜かしそうに驚いている人間に向かって似合わないほどににこやかに笑っている少女に、赤い瞳がめんどくさそうに眇められた。
「朝っぱらからなんや?」
 前髪をわしゃわしゃとかき上げながら赤い瞳を少女に止めていた朧の瞳がついと動き、呆けた顔で立っている成実へと止められる。その横にいる蓮太郎もほぼ同時に成実に眼差しをとめて、しかし穏やかに整った顔に微笑を浮かべた。
「あ、おはようございます」
 何てことない様子で挨拶をした蓮太郎とは違って、朧は「あ?」と片方の眉を上げて成実を見据えた。そして大またで歩いて成実の目の前に立ちはだかるようにして腕を組んだ。小柄な成実を見下ろすようにしたその赤い瞳に、成実が取り込まれそうなほどに魅せられる。
「なんやお前、また来たんかい」
「またって……」
「ほんで何の用事やねんな」
 昨日同様つっけんどんな言い方の朧に、次第に成実の思考も働き始めてくる。自分の視線よりずっと高い場所にあるその赤い瞳を見上げてむうっと頬を膨れさせた。
「別にあなたなんかに用事はないわよ。昨日のこと確かめただけだもん」
「昨日のこと?」
「私の夢じゃなかったのかなって思ってこの子に聞いたの」
 成実が負けじと腕を組んで朧を睨むようにして言葉を放つと、一瞬考えた朧の瞳がますます眇められ、そして成実の頭をぐっと大きな手で掴むようにして押さえつけた。
「いたっ、いたいってばぁっ」
 突然のことに成実は何をどうして良いか分からなくなってしまい、またじたばたともがく。しかし朧は手加減しているとは言え、明らかに成実を押さえ込もうとして力を加えた。
「おまえぇ……誰にも言うなて俺が言うたん忘れたんか?」
 忌々しげに朧は成実を見下ろしてそんなことを言う。何のことかと一瞬虚を突かれたように成実の動きが止まり、そして昨日のやり取りを思い出して「あ」と上目遣いに不機嫌満開の狐の顔を見やった。
「ちょっと朧っ。何てことしてるんですか!?」
 そこに蓮太郎が慌てた様子で走り寄ってきて、成実の頭を押さえつけている褐色の手を掴みあげた。
「あぁ? 蓮太郎なんやねんな。こいつは約束破ったんやで?」
「そうとは言い切れませんよ。話した相手は涼子なんやから、許してあげてください」
「涼子でも誰でもそんなん関係あるかいっ。話したことには変わりないやろが」
「だからってこれはやりすぎですよっ。そもそもこの子は人間なんですから朧の力で簡単に壊れてしまいますよ!?」
 真剣な顔で窘める蓮太郎に、朧がしばらく金色の瞳を睨みつけていたが、そのうちにため息をついて蓮太郎と成実から離れた。
「お前がそこまで言うやったら別にかまへんけど」
 しぶしぶといった様子で、つんと顔を背けて離れていった朧から守るように蓮太郎は成実の前に立った。それからゆっくりと成実を振り返り、膝を折るようにして視線を合わせた。
「大丈夫ですか? 朧がひどいことをしてすみません」
 頭を押さえながら、成実は瞳を開いて声の主を見た。金色の瞳が月夜以上に輝いて見える朝日の中で、心配そうに成実に注がれている。その眼差しがあまりにも穏やかで清らかで、成実は痛みすら忘れて見とれてしまっていた。
「もー朧なにやってるの?」
 一方、その流れをぽかんとして見ていた少女が朧に横に立って眉間に皺を寄せた。
「何て何が? 俺悪ないからな」
 むっとしたまま朧が少女から視線をそらして、また成実に動かす。赤い瞳をしっかりと向けられた成実が「うっ」と声を詰まらせた。
「お前名前なんていうんや?」
「……成実」
「成実か。ええか、ほんまに次誰かに話したら承知せんからな。蓮太郎に迷惑かけんな」
 やや厳しさを思わせる声に、成実の身体が強張った。何でここまで言われなくてはいけないのかと思う反面、こんなになって怒るってことはそれなりにこの狐たちにも事情があるのだろうとも思う。そして約束を破ったのは間違いなく自分なのだから、怒られても仕方ない。とも、若干ではあるが思えてくる。
「……分かった。ごめんなさい」
 小さく成実が頭を下げると、朧がふと微笑んだ。しかも少しだけ優しく。
「分かったらええねん。俺も手荒なことして悪かったな」
 いつもの口調ではあるが、やはり声音は優しく成実は何事かといった様子でまたぽかんとしてしまっていた。それを見ていた蓮太郎が小さく笑って成実の瞳を覗き込んだ。
「朧は口が悪いだけで、根は優しいんです。今回のことは許してやってくれませんか?」
「はぁ……」
 あの態度を見ればどこが優しいのかと突っ込みたくなるけど、でも蓮太郎の顔が穏やかで綺麗で、成実はそれ以上何も言えなかった。
「成実さん、本当にごめんなさい」
 涼子と呼ばれた少女は深々と頭を下げて成実に謝る。ここの守り手の朧のしたことに責任を感じていることが手に取るように分かってしまって、若い子に謝らせるなんて心苦しくて成実は慌てて笑顔で首を横に振った。
「なんや騒がしいなぁ」
 そんな四人の周りに、まるでエコーがかかったかのような綺麗な声が降り注いだ。今度はなんだと驚く成実の前で、涼子が「あ」と行った様子で上を見上げて、朧は明らかに嫌そうに眉間に皺を刻む。蓮太郎はにっこりと笑って静かに頭を下げた。
 爽やかな風を伴いながら、ふわり、と赤く丸い光が成実の視界を遮って、そしてそれは人の形に変わっていった。
「な、に……?」
 昨日以上に何のことか分からない成実が無意識に言葉を零す。それは赤い日本の装束に身を包んだ少女のような女性のような容姿を持つ綺麗な存在を明らかにした。
 真っ黒で長い黒髪はたくさんの飾り房や珠で艶やかにいろどられて流れるままに腰の辺りまで下ろされている。抜けるように白い顔の長い睫毛の下には磨きぬかれた銀色の瞳。淡紅色の唇がぽってりとして妖艶なのに、無邪気な子供のようにも見える不思議な感覚を持たせる顔立ちの女の子、または女性が、銀色の瞳を若干うるさそうに眇めて、人間の成実に注いできた。
「あんた、こんなところで何してるん?」
 鈴を転がしたような可愛い声で、しかしなぜか朧たち同様関西弁の存在が声をかける。驚きすぎて成実が一瞬言葉を返せないでいると、不思議な存在が不思議そうに首を傾げた。
「あんた喋られへんの?」
「あ、話せ……ます……」
「なんや。ちゃんと話せるんかいな。で、なんでここにおるん? ……ほんで」
 そこで言葉を切った銀色の瞳が、勢いを持って朧に向き直り、どかどかと少々はしたないほどの足取りで近づいた。そしてそのまま自分より背の高い朧の頭をほっそりとした手を持ち上げて、すぱーん!と叩いた。
「いったぁっ! なにすんねんッ」
 小気味良いほどの音が境内の中に響き直後朧が頭を押さえてしゃがみこんだ。よほど痛むのか何度かうめきながら、しかししっかりと赤い瞳で銀色の瞳を睨みつけた。
 叩いた方はといえば、こちらも痛むのかひらひらと小さい手を振りながら、睨みつけてくる朧を眺め下ろしてふんと鼻で笑う。
「人間に姿を見られたあほな狐にお仕置きしただけやないか。お前がそもそもの原因なんちゃうの」
「だからって叩くことないやろッ」
「叩くだけで済んだだけありがたいと思ってほしいわ。普通やったらお前なんか瞬殺やで?」
「神様が瞬殺とか言うなッ」
「やかましい狐やなぁ。お前くらい叩きのめしても誰もなんも言わんわ」
「お前くらいって……ほんま口悪い女やなぁ」
「お前にだけは口が悪いとか言われたくないけど。自覚ないんか? あほにも程度ってもんが必要なんやで? いっぺん死んでみたらどうや」
 ぞっとするくらいに薄く微笑を浮かべたその表情は、朝日に似合わないなんてものではなく、またこの世のものではないくらいに美しい。黒髪が風にふわりと踊り、赤い装束がこの存在を改めて飾り立て、そして圧倒的に神聖な空気を纏わせている。
「だれ、この人……」 
 あまりにも妖しくて綺麗な存在に、成実の思考がそれ以上のことを考えられなくなってしまって、朧とそれの口げんかを見ながらポツリと呟いた。
「サクラさんは、神様です」
 そこに蓮太郎と涼子が殆ど同時に答えた。
「カミサマ?」
「ここの神様です。稲荷神」
「そうそう、僕たちがお仕えしている宇迦之御魂神うかのみたま様です」
「うかの……」
 聞き慣れない言葉に覚えることができない成実はまたぽかんとしてしまった。
 だからこれってだから……なんなの?
 夕べに逆戻りしたかのように、成実はまた同じことを思うこととなった。
 

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