【短編集】天井裏のウロボロス
OSSAN IN THE SUMMER(上)
北欧の夏は短い。
六月から八月上旬辺りが最も明るく、サマータイムを過ぎると一気に暗くなるのが早くなってしまう。だが日照時間は最長で十八時間にも上るため、人々が寝静まった時間でも明るい街はまさにゴーストタウンさながらの風景だろう。
気温は地域によるが、意外と三十度近くまで上昇することもある。湿気はほとんど感じられず、太陽が雲に隠れてしまえば肌寒いくらいになるのだが、生憎と今日は快晴。午前中と言えど、やや温か過ぎる日差しに晒されては人体の発汗機能が大忙しである。
「よーし、全員集まってるかぁー?」
ノルウェー王国の首都――オスロ。
王宮・行政・立法・司法などの機関が集まる世界でも物価の高い都市の、市庁舎の前にあるフェリー乗り場でのことだった。
「なんかいろいろ足りない気もするけど、名前呼んでくからちゃんと返事しろよー!」
停泊中のフェリーに次々と人が流れ込んでいくのを横目に、引率の教師とも言い難い軽薄な口調で点呼を取る人物がいた。前を開いたド派手なアロハシャツにサングラス、右肩に大きな浮き輪を担いだいかにも怪しい日本人男性である。
「ヴィーヴル」
「あいよー」
気の抜けた返事をしたのは、鮮やかな緑髪を腰まで伸ばした長身の女だった。ワンピースタイプのキャミソールに丈の短いジージャン。豊満なバストという名の凶器を所持する目が覚めるような美人である。が、脱力した猫背の姿勢と白い帽子の影から覗く半開きになった赤眼、両手で持った日本製の携帯ゲーム機が彼女の美しさを台無しにしていた。
「こらこらヴィーヴルさんや、せっかくの短い夏を堪能するためにバカンスに来てるんだから、もっと元気出して行かないとおっさん寂しい」
「ボスぅ、おうち帰って冷房利いた部屋でゲームしてていい?」
「ゲームなら今もやってるよね!? そんな引き籠ってばっかりだと不健康だぞ?」
「だるいー。超だるいー。かったるーい」
「おっさんみたいな健康体を維持するにはだな、こうやって時にはアウトドアに興じることも必要で――」
「あーもう、だるいー。かったるいー。マジハリケーン・カッタリーナ」
「うわぁ、なんてやる気のなさそうなハリケーン」
ボスと呼ばれたアロハ男――秋幡辰久は諦めたようにがっくりと項垂れた。
彼はこう見えて世界魔術師連盟が誇る大魔術師の一人である。主な職務は懲罰師。連盟の内部外部問わず罪を犯した魔術師を直接的に裁く執行官のことだ。
そして今は世界中に無差別召喚されてしまった幻獣を処理する対策本部の責任者でもある。その幻獣を解き放ってしまったのは他ならぬ辰久なのだから当然だが、専門外の実験を押しつけられた挙句の果てであるためどうも納得がいかない。
「まあちゃんと来てるからいいや。次、ウェルシュ!」
しーん。
勢いよく点呼を続けた辰久だったが、応答はどこからも返って来なかった。ゲーム機の画面に視線を落としたままヴィーヴルが呆れたように進言する。
「ボスぅ、ウェルシュは今、日本じゃなかったけ?」
「……」
「……」
「……」
「そうだった、息子に寝取られたんだった……」
「ボスが送り込んだんでしょうが」
その息子が聞いたら全力で否定しそうな台詞である。
「若干寂しいけどしゃーないわな。次、フェンリル」
「はっ、ここに」
だいぶ覇気を失った点呼にキリッと応えたのは、闇のように黒い短髪を潮風に靡かせる蒼眼の少女だった。見た目の年齢は十代後半だろうか、胸元を大きめに開いたラメのあしらわれたTシャツに短めのテーラードジャケットを合わせ、膝下十センチ辺りでカットしたダメージジーンズを穿いている。雰囲気が堅く近寄りにくく思えるが、そのクールな印象がヴィーヴルとは違う魅力を醸し出していた。
美しさとセクシーさが仲良く同居する彼女は、辰久の前で王様に忠誠を誓う家臣のように片膝をつく。
「ご命令は?」
「いや、呼んだだけ。点呼だし。あと膝つかなくていいから。おっさん堅苦しいのキライ」
「……失礼しました」
フェンリルと呼ばれた少女はすっと姿勢よく立ち上がると、静かに一歩だけ下がった。その直立する姿は凛としており、絶賛猫背でゲーム画面を凝視しているヴィーヴルにも見習わせたいくらいだった。
「次、リヴァイアサン」
「はいは~い。ここにちゃ~んといるよ~」
どこか間延びした口調で返事をしたのは、二十代前半に見える美女だった。ふわっとしたロングの青髪に白い肌、整った小ぶりな輪郭に収まる垂れ目は橙色に煌めく瞳を内包している。背はヴィーヴルよりやや低いが、それでも女性としては高い方だろう。襟元と袖口にフリルがついたエンパイアチュニックの胸部に聳える双丘は、こちらも野郎共ホイホイ機能を遺憾なく発揮できるほど立派だった。
「もう、ウチのことは『リヴィ』って呼んでって言ってるでしょ~?」
青髪の女性――リヴァイアサンはやや前屈みになると、悪戯っ子のように笑って辰久に上目遣いの視線をぶつけた。たゆんと揺れた二つの凶器に危うく鼻から出血しそうになるも、辰久はどうにか堪える。
「いやぁ、点呼だからちゃんとした名称で呼ぶのが礼儀ってもんかとおっさん思うわけよ」
「ウチもタッつんのこと『ダーリン』って呼ぶからさぁ~」
「うん、頼むから俺の家族の前ではそう呼ばないでね。殺されるから」
家族の前じゃなきゃいいのかよ、とゲーム中のヴィーヴルが小声で突っ込んだ。もちろん辰久には聞こえない。
「どうでもいいけど、せっかく休暇貰ったんなら家族サービスすりゃいいじゃんか。なんで家族じゃなくて私らと旅行してるわけ?」
阿修羅の形相をした妻がゴルフクラブ二刀流で迫り来る想像をして顔を青くしていた辰久に、目を平たくしたヴィーヴルは気だるげに問う。
「だってだって、息子は日本だし、娘はまだ学校だし、施設で療養中の妻が『ノルウェーのヤギミルクのチーズ食べたい』って言うもんだから……」
「立場低いねぇ、ボス」
「うるせいやい」
気を取り直して辰久は点呼を続ける。
「えーと次はと……アルラウネ」
「はーい、わたしならここです!」
明るく元気な返事をしたのは、身長百四十センチメートルほどの小柄な少女だった。ノースリーブシャツの上から深緑色のマントを羽織り、下は純白のミニスカートとハイソックス、頭には大きなアネモネの花の髪飾りをつけている。
エメラルド色の大きな瞳をキラッキラと輝かせる彼女は、背の低さを補うようにその場でピョンピョン飛び跳ねて自己主張していた。ジャンプする度に若草色の柔らかそうな髪が綿毛のごとくふわふわ靡く。
「えとえと、本日は新参者のわたしなんかも慰安旅行に誘っていただき、誠にありがとうございます! 戦闘ではなんのお役にも立てないわたしですが、せめてこの旅行では皆さんのサポートを、全身全霊をかけて努めたいと思います!」
慇懃な挨拶を並べてぺこりと頭を下げる少女――アルラウネ。そんな彼女の頭を、辰久は感涙しながらくしゃくしゃ撫でた。
「アルラはホント元気でいい子だなぁ。アルラだけだ、そう言ってくれるのは。他の奴らなんて『ありがとう』の『あ』の字も口にしないのに」
「そ、そんなことないですよ。皆さんちゃんと辰久さんに感謝してますよ。ね?」
底抜けに明るい笑顔と声でアルラウネは他の女性陣に言葉を振る。彼女たちも表面には出さないが、こうやって話を振れば素直に感謝の気持ちを伝え――
「え? 感謝? なんで?」
「……」
「う~ん、どうせ旅行するならハワイとかグアムがよかったなぁ~」
「皆さん! そこは嘘でも頷いてください!」
彼女たちのぞんざいな態度に、アルラウネはハムスターのようにほほを膨らましてピョンピョン跳ねた。
そして恐る恐る振り返ると――
「『おっさん』のおの字は『お粗末』のお~」
体育座りで海の彼方を眺めながら変な歌を口ずさむアロハシャツの中年がそこにいた。
「ああ! 辰久さんいじけないでください!」
ゆっさゆさと必死に辰久の体を揺さ振り始めるアルラウネだった。
ヴィーヴル。
フェンリル。
リヴァイアサン。
アルラウネ。
彼女たちは人間ではない。
こことは違う別世界からやってきた、様々な神話や伝説に記されている一般的には空想上の生き物――『幻獣』と呼ばれる存在だ。
その定義は広い。UMAに妖怪、エルフやドワーフ、天使や悪魔、時には神と呼ばれる存在までもが含まれる。とても『獣』とは言えないものもいるが、そんな彼ら自身が向こうの世界を『幻獣界』と称しているため一まとめにされていたりする。
ヴィーヴルは、フランスに伝わる宝石の瞳を持つドラゴン、または半人半蛇の美女。
フェンリルは、北欧神話に登場する、最高神をも飲み込んだ巨狼。
リヴァイアサンは、旧約聖書のレヴィアタンを原型とした、荒れ狂う海の象徴である巨大な蛇龍。
アルラウネは、錬金術の原材料である謎植物――マンドレイクの亜種。
約一名だけ明らかに格が違うものの、彼女たちは地球上では等しく魔力の供給源がなければ生きていけない。人の姿をしているのも、『この世界に適応した姿』という殻を被ることで魔力の消費を抑えるためである。
魔力を供給する方法は大きくわけて二つ。
人間と契約し従うか、人間を喰らうか、である。
並の魔術師ではアルラウネはともかく、他の三体と契約することは魔力量的に難しいだろう。
だが、大魔術師である秋幡辰久は彼女たち以外にも何体もの幻獣と契約している。それでいて未だに余裕があるのだから、真の怪物は彼なのかもしれない。
軽薄な性格のせいで威厳がまったくないのが、たまに傷であるが……。
それから数分後、フェリーの乗船可能時間ギリギリになったところでようやく辰久は復活した。
「いいよいいよ、おっさんだけ楽しんじゃうよ。というわけで、とりあえず集まらなかった奴らは放っといて点呼終了。フェリーに乗り込むぞー!」
空元気ではなく本当に開き直った元気さで辰久はフェリーへと歩を進めた。
と、その時――
「待て待て待て! なに女だけ点呼取ってんだよ」
焦ったような男性の声が辰久の背中に浴びせられた。実はずっと名前を呼ばれるのを黙って待っていた者が一人いたのだ。
赤みがかった茶髪をわざと跳ねさせるようにした青年だった。色違いのタンクトップを重ね着し、七分丈のパンツにサンダルを履いている。
「いや俺、野郎を誘った覚えはないんだよね。なんでここにいんの、フレースヴェルグ」
「えー、そりゃねえよ」
辰久の素っ気ない言葉に、フレースヴェルグと呼ばれた青年は情けなく悲嘆な表情をして肩を落とす。そう言われるのは完全に想定外だったという顔だ。
彼もまた人間ではない。
幻獣フレースヴェルグ。
北欧神話にて登場する〝死体を呑み込む者〟という意の大鷲、または鷲の姿をした巨人である。その翼の羽ばたきは世界にあらゆる風を巻き起こすとされ、それが長じて風の象徴とされている幻獣だ。
「フレスは私が呼んだんだよ」
すると、ヴィーヴルが携帯ゲーム機を操作しつつ適当な調子で告げた。
「ちょ、ヴィーヴルさんや、なに余計なことをしてくれちゃってんの? せっかくおっさんがハーレム気分で休みを満喫しようと思ってたのに!」
「だからだよ。ボスが馬鹿なことしないために来てもらったの」
「え? オレ、このおっさんの監視役兼ストッパーで呼ばれたの? だったら他の奴でもよかったんじゃ……」
「あんたが一番暇そうだから」
「お前にだけは暇人呼ばわりされたくない」
さらに落胆するフレースヴェルグ。とその肩に、リヴァイアサンが優しく手をかけた。
彼女は間延びした声で言う。
「まあまあ~、男手がタッつんだけじゃアレだし~、力仕事とかあればよろしくね~」
「よく言うぜ、てめえらオレより怪力じゃ痛だだだだだだだやめろリヴィそこの関節はそっちの方向には曲がりません!?」
「あわわわ! り、リヴィさん、フレスさん腕が捥げちゃいますよ!」
「手羽先っておいしいよね~」
「食べる気!? フェンリルさんなんとかしてください!?」
「主の命令でなければ私は従わない」
「もう!」
「フレースヴェルグの手羽先と~、アルラウネの葉っぱをお鍋でぐつぐつ煮込んで~……じゅるり」
「わたしも食べられちゃいます!?」
「……それは美味そうだ」
「フェンリルさん!?」
捕食者の二人に被食者の二人は顔を真っ青にしてガタガタと振るえるのだった。
「ほらほら、じゃれ合ってないでフェリー乗るぞー。もうしょうがないからフレスがいるのはいいよ」
辰久が手を叩いて呼ぶと、じゃれ合いなんてものじゃない本気の目をしていたリヴァイアサンとフェンリルは我に返ったように踵を返した。
アルラウネはほっと息をついた。それから遠い目をして横で腕の間接の調子を確認しているフレースヴェルグに話しかける。
「フレスさん、がんばって、生き残りましょうね」
「言っとくが、オレからしてもアルラは食材だぞ?」
「わたしが底辺でした!?」
食うつもりはないけどな、と付け足したフレースヴェルグの言葉は、衝撃の事実に絶句するアルラウネには届かなかった。
∞
オスロ市庁舎前のフェリー乗り場から行ける小島群にはいくつものビーチが存在する。もちろん南国ではないので向こうほど綺麗な場所はないが、夏になると海水浴を楽しむ人々でごった返すため活気は上々だ。
中にはヌーディストビーチもあるらしく――
「ねえおっさんここ行きたいんだけど聞いてる? みんなで素晴らしい解放感を堪能しようよきっと新しい自分に目覚めるよ!」
「誰が行くか落ちろ!」
それを知ったエロ親父がヴィーヴルに顔面をグーで殴られていた。
「いい眺めね~、潮風も気持ちいいし~」
フェリーの手摺りにゆったりと凭れかかったリヴァイアサンが、風に乱れる青髪をそっと手で整えた。そんな優雅な仕草の向こう側では今にもおっさんが海に突き落とされそうになっているが、気にする様子はまったくない。
「わたし知ってます。この辺り、オスロ・フィヨルドって言うんですよね」
アルラウネが誇らしげに控え目な胸を張った。フィヨルドとは、氷河の浸食によって形成されたU字谷が沈水してできた複雑な湾のことだ。海岸線は湾の奥を除いて断崖絶壁となるものが多く、水深も深い。同じノルフェーのソグネ・フィヨルドなどは長さ二百キロメートル、水深は千メートルほどもある。しかし幅に関してはたったの数キロメートル程度しかない。
対するオスロ・フィヨルドは、長さがたったの十七キロメートルしかなく――
「地質学的には~、ここはフィヨルドじゃないらしいよ~」
「え? そうなんですか?」
「氷河で形成されたわけじゃないからかな~? ウチもあんまり詳しくないけど~、ここはそういう地名なんだって~」
「ほえぇ」
「ちなみに~、このオスロ・フィヨルドは彼の有名な画家――エドヴァルド・ムンクの『叫び』や『埠頭の少女』の背景に描かれてたりするね~。あ~、第二次世界大戦中にドイツ軍が千人の兵士を乗せた艦隊で攻め込んで来たときは大変だったな~。『オスロ・フィヨルドの戦い』って言うんだよ~」
「すごいです。リヴィさん物知りです。まるで見てきたみたいです」
感心したように緑色の瞳をキラキラと輝かせるアルラウネ。素直な尊敬の眼差しを浴びせられたリヴァイアサンは、頬筋が緩むことを抑えられず――ガバッ! とアルラウネの小さい体を抱き締めた。
「ふぇ!?」
「アララちゃんってばかぁ~いい♪」
「アルラです!? いきなりなにするんですか!?」
「食べちゃっていい~?」
「だから目が本気ですリヴィさん!? わ、わわわわたし食べても美味しくないです!?」
「そうよね~、アララちゃんはもう少し育ってからの方が……ブラウンチーズ食べる~? キャラメルみたいで甘いよ~?」
「食べません! なに太らせようとしてるんですか!」
「あはは~、じょ~だんじょ~だん♪ アララちゃん食べても属性違うし~、スキルレベルも上がらないしね~」
「なんの話ですか!?」
どうにかリヴァイアサンの抱擁から抜け出したアルラウネは、這々の体で船内へと避難するのだった。
その船内の休憩所では北欧神話組、もといフェンリルとフレースヴェルグが荷物番をしながら寛いでいた。
「なあ、フェンリル、お前さっきからなに食ってんの?」
フレースヴェルグは読んでいた観光雑誌から視線を上げ、目の前に正座してなにやら輪切りにされた緑色の物体を黙々と咀嚼しているフェンリルに訊いた。
フェンリルは口の中の物を飲み込むと、一旦食べるのをやめてフレースヴェルグを見る。
「『芋虫』」
「マジで! なにそれどこで売ってたんだ?」
「集合前に市場で見かけたから買ってみたのだ。なかなか美味しい」
「頼む! 一個! 一個でいいからくれ! いやください!」
拝み倒す勢いで頭を下げるフレースヴェルグに、フェンリルは若干引きつつも『芋虫』を一欠片摘んで差し出した。
「一個だけなら」
「サンキュ!」
引っ手繰るように『芋虫』を受け取ったフレースヴェルグは、粗雑にもポイッと口の中に放り込みそして――カッ! と大きく目を見開いた。
「――ってこれ野菜にアボカド巻いてるだけじゃねえか! 騙したな!」
「……なにを期待していた?」
フレースヴェルグがぶつくさ文句を垂れながら再び雑誌を読み始めたので、フェンリルも特にそれ以上気にすることなく『芋虫』の残りを全て平らげた。
そんなこんなで、飛んだり泳いだりできる幻獣にとっては億劫な船旅も二十分ほどで終了し、一行はとある小さな島の港へと降り立った。
港には高級そうなヨットやクルーザーがところ狭しと並んでいる。けれど島自体に民家はほとんどないため、それらは島民の所有物などではなくどこかの金持ちが保管している船だろう。
建物こそ少ないが、自然はその分豊かだ。草木は青々と生い茂り、アスファルトで固められた都会と違い砂利道が続いている。
「わぁ、思ってたより人がいますね」
その砂利道を行き交う人々にアルラウネが感嘆の声を上げた。普段は山奥の田舎よりも長閑そうな島は、海水浴シーズンのため大勢の人間が集まり活気づいている。この人ごみの流れに乗って行けばとりあえず迷うことはなさそうだ。
「う~、人がいっぱい。帰りたい」
早速重度の引き籠り病を発症しているヴィーヴルの主張はもちろん却下。はしゃぎ過ぎのアロハおっさん・秋幡辰久を先頭にビーチまで徒歩で向かう。
とはいえ、ほとんど目と鼻の先だった。もっと島の外周を回れば穴場的なビーチもあると思われるが、地図を見る限り島の反対側には船を使うか山を越えるかしないといけそうにない。貸切状態は諦めて一番大きなメインビーチにて根を張ることにした。
「じゃ、私ら着替えてくるから。ボスとフレスはしっかり場所を整えといてね」
適当な陣地を確保すると、ヴィーヴルたち女性陣は設置された簡易更衣室を使うためにそれぞれが着替えの入った袋を手に取った。
「私が安心してゲームできるように」
「ここまで来てもゲームすんのかよ……」
ビーチパラソルを立てつつフレースヴェルグはげんなりする。
「フレス~、バーベキューの準備もお願いね~。……鳥肉」
「やめろよ最後の一言!?」
「ハッハッハ、フレースヴェルグ君、後は頼んだよ。おっさんは彼女たちと着替えてくるからね」
「なにさらりとついて来ようとしてんだエロボス死ね!?」
「おぶふぅ!?」
「ひゃあっ!? 辰久さんが海面を八バウンドしました!?」
「主、今救助に向かいます!」
バッ! とフェンリルが人目を憚らず勢いよく服を脱ぎ捨てた。女性らしい柔らかさも合わせた引き締まった裸体が露に――なることはなく、既に青いラインの入った競泳水着を身につけていた。機能重視の水着はスレンダーな体型にピッタリとフィットし、彼女のクールビューティさをより際立たせている。
そのままライフセーバー顔負けの泳ぎでフェンリルがアロハシャツの中年を海から引き上げると、なぜか周囲の人々が盛大に喝采を送っていた。
∞
そうして始まった楽しい時間は、あれよあれよと言う間に過ぎて行った。
辰久の提案したビーチバレーには子供を見守る保護者のように動きたくなかったヴィーヴルも強制参加させられ、その鬱憤を晴らすように何度も提案者の顔面にボールを叩きつけた。一度大きく場外に飛んでいったボールがアルラウネの製作していた芸術的な砂のお城にクリティカルした時は、泣きそうになった彼女に参加者一同揃って土下座したものだ。
それからビーチの管理者側でも様々なイベントが開催されていた。
ビーチフラッグス大会ではフェンリルが圧倒的な駿足で優勝をもぎ取り、続けて行われた水中プロレスの決勝でも二メートル級の巨漢を一発KO。幻獣が一般人に混じるのは些か反則的だったが、辰久は全く悪びれる様子もなくノリノリで応援していた。
午前中は一頻り暴れ回った一行も、フレースヴェルグが一人で用意した(途中からアルラウネも手伝ったらしいが)バーベキューに舌鼓を打つと、午後は各々がのんびりと自由に過ごすことした。
「んんぅ~、ハワイやグアムじゃないのは残念だけど~、やっぱり海水浴って気持ちいいよね~♪」
楽しそうに笑うリヴァイアサンがチェック柄のレジャーマットの上にうつ伏せに寝転がった。青と白のグラデーションのバンドゥービキニが外され、左右にぺろんと広がる。白く柔らかそうな乳房が平らに押し潰されて横からはみ出る様は、通り過ぎる人間の男の目を釘づけにして放さない。
「そう? 私は自分の部屋のベッドでごろごろしてた方がずっといいけど」
炎柄のホルターネックビキニを身につけたヴィーヴルが億劫そうに言う。彼女も同じようにダイナミックボディを所有するため、二人並べばまさに女神が降臨したような光景だった。
まあ、色気全開のリヴァイアサンに比べ、ヴィーヴルの方はパラソルの下で胡坐を掻いて相変わらず携帯ゲームに興じているのだが。
「ていうか、海龍のあんたが海水浴楽しむってどうなのよ?」
「それを言うなら~、火龍のあなたもでしょ~」
「私は別に楽しんでねーし」
「ツンデレ~?」
「違うわ!?」
反射的にツッコミを入れるヴィーヴルだったが、リヴァイアサンはどこ吹く風といった調子で笑う。果てしないやり難さを感じたヴィーヴルは、リヴァイアサンから目を逸らして視線を遠くにやった。
波打ち際で人々に囲まれているフェンリルが目に入った。イベントでかなり目立っていた優勝者は、どうやらあれからまた溺れかけていた子供を二、三人助けたらしい。すっかり英雄だ。またと言っても、一人目はおっさんだが。
そのおっさんは……食後のスイカ割りでスイカの横に頭以外を埋められ、ヴィーヴルがわざと間違えて棒を振るったため隣のパラソルの下でノックダウンしている。フリフリのツーピース水着に緑色のパレオを腰に巻いたアルラウネが甲斐甲斐しく看病しているが、放っておけばいいのにと他の全員が思っていたりする。
フレースヴェルグはせっせとバーベキューの後片づけ中だ。コンロを分解して生ごみの処理をしている。なんかヴィーヴルが呼んだせいで彼一人に全ての雑用を押しつけてしまっているが……まあいいか。
「どうせなら他のみんなも来ればよかったのにね~。ウェルシュとか~、ケツァとか~」
「ウェルシュもケツァもボスの子供と再契約したっしょ。ウェルシュは息子、ケツァは娘とさ」
「じゃあヘスの三姉妹は~?」
「そいつらは奥さんの護衛」
「タマちゃんは~?」
「昔馴染みと飲み会するとか言って、数日前にフラッとどっかに出てったよ」
「ドラニュー将軍は~?」
「バカンスに行くくらいなら筋トレしてるよ、あいつは。あとそのあだ名言ったらめっちゃ怒られるから」
「ヒルデとか~? 副官さんとかは~?」
「あの二人は仕事馬鹿だから誘っても絶対来ないでしょうよ。寧ろ引き止められて仕事させられるっての。てか、その二人は今なんとかって魔術師を追ってたと思うけど」
仕事するくらいならこの旅行も悪くないかもしれない、とマイナス方向の比べ合いで状況を納得しそうになったヴィーヴルである。
「ところで~、どうして引き篭もりのあなたがそんなに詳しいの~?」
「うっさい引き篭もりの情報網舐めんな!」
ネットの普及したこの時代、寧ろ引き籠っていた方がいろいろと情報が入るのだ。ヴィーヴルはそう信じて疑わない。
と――
「Hey! そこの彼女たち、暇なら俺たちと遊ぼうぜ」
「向こうにいい感じにサーフィンできる場所があるンスよ」
二人の若い男が軽い調子で声をかけてきた。二人とも肌は黒々と日焼けし、スポーツマンなのかボディは無駄なく引き締まっていてずいぶんと男らしい。
「ここで寝っ転がってるよりずっと楽しいぜ」
サングラスをしたロン毛の男が白い歯をキランと光らせる。
「あ、サーフィンのやり方わからなかったら教えるッスよ」
不良じみたツンツン頭の男は脇に挟んだサーフボードをコンコンと小突いた。
わかりやすいナンパである。
ヴィーヴルとリヴァイアサンの周囲が女神空間過ぎて他の野郎共は遠くから眺めていただけなのに、なんとも豪胆な二人だ。
「間に合ってるよ、帰んな」
ゲーム画面に視線を戻してヴィーヴルは素っ気なく切り捨てる。
「そんな連れないこと言わずにさぁ、楽しいッスよサーフィン」
「興味ない」
ツンツン頭の笑顔が引き攣った。
「そっちのお姉さんも寝てないで体動かそうぜ」
「う~ん、今はいいかなぁ~。あなたたちと運動してもつまらなそうだし~」
ふわぁ、と欠伸するリヴァイアサンにロン毛もこめかみをピクつかせる。ただの人間である彼らがブチキレても全く怖くないのだが、無用なトラブルは避けたい。けれど、柔らかく断ったところでこういうタイプは引き下がらないだろう。
「他をあたれって言ってんだろ。あんたらじゃ私らとは釣り合わねぇーよ」
視線すら合わせず突き放すように言うヴィーヴルだったが、男たちは困ったように、しかしどこか愉快そうに声を出して笑った。
「ハハッ、これはなかなかお高いこった!」
「けど、どうしても来てもらわないと困るンスよね俺たち」
「あ? どういうことだ?」
先程までのチャラチャラした態度とは一変し、粘つくような狂気を滲ませた男たちにヴィーヴルは眉を顰める。するとロン毛が親指を立てて後方を示した。
「あそこの丘にでっけぇ豪邸が見えるだろ?」
言われてヴィーヴルとリヴァイアサンは顔を上げた。確かに、メインビーチを一望できる丘の上に城のように巨大な家が建っている。ゴシック様式でパステルイエローの壁をした豪邸だ。どう考えても島の景観を大いに損なっている。初めて見た時はそれはもう誰もが微妙そうな顔をしたものだ。
「あの趣味の悪い家がどうしたって?」
「趣味のわる……あそこは俺らのボスの別荘でよ。そのボスがあんたらのこと気に入ったみたいなんだ。一緒にメシ食いたいから連れて来いって言われてな」
ヴィーヴルの趣味悪発言にロン毛は一瞬絶句するも、どうにか立ち直って事情を語った。
「サーフィンじゃなかったの~?」
相変わらずのんびりと、リヴァイアサン。
「んなのテキトーな嘘ッスよ。ま、俺はホントにサーフィンしてもよかったンスけど。好きだし」
ツンツン頭が残念そうに首を振ってザクっとサーフボードを砂浜に突き立てた。これで両手が空きましたよ、とアピールしているらしい。
「傷物にしたら俺らが殺されっから穏便に連れて行きたかったが、あんたらがどうしても嫌だと言うなら少々強引な手も使うことだってあるかもなぁ?」
「ガンディーニ・ファミリーって聞いたことないッスか?」
「いやない。リヴィは?」
「ウチも初耳かな~」
瞬間――ブチリ。
男たちの額に青々とした筋が大きく浮かび上がった。
「……あんまり自分らで言いたくはねえんだが、マフィアってやつだ。イタリアのな」
「だから、逆らわない方が身のためッスよ?」
ポキリポキリと、二人の男がそれぞれ組んだ両手から暴力的な乾いた音が響いた。
予想だにしないマフィアの男たちの襲来に、絡まれた幻獣たちの契約者はと言えば……
「た、たたたたた辰久さん起きてくださいヴィーヴルさんとリヴィさんが大変です!」
「う~ん、もう食べられにゃいむしゃむしゃごくんげっぷ」
「食べてますよそれ!? あとそんなベタな寝言いらないです!」
暢気にも夢の世界で幸せに暮らしていた。
だが、マフィアの男たちが暴力行為を実行することはなかった。
「おいおい兄ちゃん、なんのつもりだ? あんたにゃ用はねえんだが?」
寸でのところで、見るに見兼ねたフレースヴェルグが立ちはだかったからだ。
「この二人なんだけどよ、連れなんだ」
「知ってるよ。だがそれがどうした?」
いきなり割り込んできたフレースヴェルグにもロン毛男は怯まない。男連れだろうが家族連れだろうが関係ない、そう言っている。
「諦めてあんたらのボスとやらに殺されろってことだ。ここで死ぬよりは長生きできるぞ」
「んだと?」
「兄ちゃん、あんまり調子に乗らねえ方がいいッスよ? 魚の餌になりたかねえだろ?」
呆れ半分、怒り半分で男二人はフレースヴェルグを睨む。ロン毛の方はサングラスを少しずらしてからの睥睨であるため、普通の人間の海水浴客ならば情けなく悲鳴を上げて逃げ出すほどの威圧感があった。
しかしそんなものは、幻獣フレースヴェルグには微塵の恐怖も与えない。
「そっちこそ鳥の餌にするぞ? ただの人間が、喧嘩売る相手間違えんじゃねえよ」
「あぁ? なんだとテメエ。よし決めた。もう決めた。あとから泣いて叫んでも半殺しじゃ済まさねえから覚悟しろ兄ちゃんよぅ」
ロン毛男が凶悪に唇を歪めてフレースヴェルグに掴みかかろうとした――その時だった。
「い、いい加減にしてください!」
さらなる闖入者があった。
若草色の髪をした少女――アルラウネだ。どうやっても辰久が目覚めないから自分が動くしかないと思ったのだろう。彼女はフレースヴェルグを庇うように両腕を目一杯広げ、毅然とした表情でキッと男たちを睨め上げる。
「アルラ、下がってろ。お前は力では人間より弱いんだから、怪我するぞ。ここはオレが」
「ダメです! フレスさんだとやり過ぎて本当にこの人たちを鳥の餌にしてしまいます!」
「……信用しろよ。加減くらいできるって」
眼前のちっこい少女にきっぱり言われて落胆するフレースヴェルグ。そんな彼の様子にヴィーヴルがケラケラ笑うと、獰猛な光を宿した紅い瞳をマフィアの男たちに向ける。
「いいじゃんか、アルラ。どうせこいつらのせいで他の海水浴客も迷惑してるんだ。フレスに殴らせればみんなスカッとするって。なんなら私がやってもいいけど。いい加減こいつらくっそウザいし」
「ヴィーヴルさんこそダメです! もっと穏便に済ませるべきなのです。暴力はよくないのです」
「暴力がダメなら~、肉体言語ならOKだよね~」
「それ暴力ですよね!?」
自分だけが良心、この面子を見ていて強くそう認識するアルラウネだった。
「んで?」
がしっと、太くてごつい手がアルラウネの頭を鷲掴みにした。ビクリ、と肩を跳ねさせるアルラウネを、ロン毛男は無理やり捻って自分の方に顔を向けさせる。
「なんなんだこのガキは?」
「ひゃあ!? 恐い顔がすぐそこに!?」
ロン毛男の手を振り払って転ぶように脱出するアルラウネだったが、そこに待ち構えていたツンツン頭に羽交い絞めにされてしまった。
「いやぁーっ!? は、放してくださいっ!?」
じたばた暴れるも、人化した幻獣アルラウネは見た目以上の出力を生まない。つまり、ただの少女が腕力で大の大人に敵うわけがないのだ。
「なあ、こいつ使えるんじゃないッスか?」
「そうだな」
ロン毛男は納得し、ニヤリと口の端を吊り上げる。
「おい、このガキを無事に返してほしけりゃ俺らの言う通りにしてもらおうか」
「人質になっちゃいました!? ヘルプミーです! 放してください!」
男に掴まり、涙目で叫ぶ若草色の少女。傍から見れば大変緊迫した空気なのだが、当事者の片方、人質を取られた側の者たちは特に焦燥感も見せず落ち着いていた。
まるで、人質を取った男たちを憐れむように。
「あー、いや、えっと……お前らさ、早くそいつ放した方がいいぞ?」
フレースヴェルグが困った顔で頬を掻きながら恐る恐る忠告するが、それは男たちの怒りのボルテージをさらに引き上げる結果にしかならなかった。
「テメエ、状況わかってんのか?」
「放してください!」
「この可愛い顔に傷がついちまうッスよ?」
「放してください……ひぐっ……」
「いや、状況というか正体というか、なんにせよわかってないのはお前らだから」
「「あぁ?」」
マフィアの男たちが怪訝そうに眉を寄せた。
その、直後。
「えぐ……放してくださいって……」
すぅ。
アルラウネが大きく息を吸い込んだ。
「やべっ!?」
その様子を見たフレースヴェルグが咄嗟に両腕を後ろに引き、羽ばたくように振り払う。
瞬間、彼らの周りを取り囲むように不自然な風が巻き起こった。
マフィアの男たちや他の海水浴客が突然の暴風に驚くのも束の間――
「放してくださいって……」
アルラウネが、限界まで吸った空気を、解放する。
「㌫㌶㌍㌫㍊㍍㌻㌫㍊㌶㌍㍍㍊㍍㌘㌶㌍㍊㌶㌍㌫㌻㍍㌘㍍㍍㍗㌘㍍㌫㌍㌧㍍㌘㍍㍍㌻㍍㍗!!」
悲鳴とも言えない、凄まじい声。
その叫びが終わらないうちに、マフィアの男たちはプツリと糸が切れたように呆気なく倒れた。二人とも白目を剥き、口から泡を吐き、ピクリとも動かない。
マンドレイクやその亜種のアルラウネが放つ〈致死の絶叫〉だ。
本来は引き抜かれる際に放たれる絶叫は、それを直接聞いた生物を即死させる効果がある。声には魔力が込められているため、普通に手で耳を塞いだり、耳栓をしたとしても意味はない。
そのため、引き抜く時は飼い慣らした犬にやらせるという方法が伝わっている。犬は当然死ぬが、〈致死の絶叫〉は何度も連続で放てるものではないので安全に回収できるのだ。
風の象徴たる幻獣――フレースヴェルグが咄嗟に風の壁を発生させていなければ、倒れた人間は彼らだけでは済まなかっただろう。
解放されたアルラウネは、トタタタタっと小走りで泣きながらフレースヴェルグたちの下へと戻ってきた。
「ふぇえええん! 暴力反対ですぅ!」
「お前が一番えげつねえよ!?」
フレースヴェルグたち高位の幻獣にはただの超音波だが、人間にとってはたとえ魔術師だろうとひとたまりもないはずだ。本気で死ねるから。
「ところでさぁ」
だるそうに立ち上がったヴィーヴルが、倒れた男たちをスイカ割りの棒で汚物にでも触れるようにつんつんする。目を覚ます気配はない。
「これ、死んでないでしょうね?」
「あ、それなら大丈夫です」
涙を拭って振り返ったアルラウネは、頑張りました、とでも言うように小さく拳を握ってみせた。
「一応、気絶する程度に魔力を調節しましたので」
∞
気絶したマフィアの男二人をオスロ警察に引き渡した頃には、時刻はすっかり夕方となっていた。ここが日本ならば空が茜色に染まりつつあるだろうが、しかしノルウェーのこの時期はまだまだ昼間並に明るい。
「え? 俺が寝てる間になにがあったの? てかなんでもうこんな時間? ねえ?」
夢の世界の住人だった辰久が戻ってきたのも同じ頃だった。彼はアルラウネの〈致死の絶叫〉を直撃する位置にいたはずなのだが、なにもなかったかのようにケロリとしている。あるいは、絶叫の影響でこの時間まで爆睡していたのかもしれないが。
「アララちゃんがね~、マフィアの人に捕まって泣かされてたの~」
「アルラです! あと泣いてなんかいません! リヴィさん嘘つきです!」
「いや泣いてただろ」
恥ずかしいのはわかるが、フレースヴェルグ含むあの場にいたほぼ全員が目撃している。言い逃れはできないけれど、その事実を公にしてもなんの得もない。アルラウネが否定するなら『そういうこと』にしておけばいい。
「そのマフィアってどこよ? おっさんちょこーっと忠告してこようと思うんだけど」
辰久の目には明らかに攻撃的な意思が宿っていた。たぶん、忠告どころではない。
「あの丘の上にある邸だけど……別にいいだろ。私らは気にしてないよ」
「俺の可愛い契約幻獣を泣かされて、黙って帰るわけにはいかんよ。なあに、ちょっとあの豪邸を跡形もなく消し飛ばしてくるだけだから」
「そ、そこまでしなくていいです辰久さん! わたし泣いてませんから! 泣いてませんから!」
「あ、大事だから二回言った……」
もしも辰久が本当にそんなことをするようならば、懲罰師の一員である契約幻獣全員で阻止する羽目になるだろう。
なんとかアルラウネの説得が通じると、辰久は大きく息を吐いてどさりとその場に腰を落とした。
それからなにかを探すように辺りをキョロキョロする。
「フェンリルはどこ行ったわけ?」
「あれ? そういえば、ずっと姿が見えませんね」
マフィアの男たちとごたごたしていた辺りから見失っている。フェンリルの性格からして仲間がガラの悪い連中に絡まれていれば飛んできそうなものだが、騒ぎが収まってからも現れないとなると……………………嫌な予感が全員の脳裏を過った。
「まさか、フェンリルさん……溺れて……」
「いや、それはないよ。あいつ泳ぎは人を助けられるレベルで上手いから」
アルラウネの予感をヴィーヴルが否定する。
「美味そうな匂いに釣られてふらふら~っとどっかに行ったとか?」
「フレスならあるかもだけど~、あの子は真面目だから勝手にいなくなることはないと思うよ~」
フレースヴェルグの頭の悪い考えをリヴァイアサンが打ち消す。
「契約が切れてないから消滅したってことはないな。えーと、フェンリルの魔力リンクはと……」
契約者と契約幻獣の間には魔力の供給ライン――魔力リンクが構築される。たとえ相手が地球の裏側にいようとも、リンクを辿れば少なくとも方角は知ることができる。辰久ほどの術者ともなれば、そこから距離・感情・魔力残量などまで読み取ることが可能だ(流石に意思疎通まではできないが)。
辰久は意識を内側に集中させ、数ある魔力供給ラインからフェンリルのものだけを抽出する。そこから方角と距離の情報を引き出す。
方角は――真後ろ。
距離は――
「主、ただいま戻りました」
「おわっ!?」
目の前だった。
振り返ったそこには、競泳水着を纏った黒髪蒼眼の少女が片膝をついていた。言うまでもなく、今の今まで行方不明だったフェンリルである。
「ちょ、いきなり現れるとかおっさんビックリするんだけど。どこ行ってたんよ? みんな心配してたぞ」
「はっ、勝手な行動を取ってしまい申し訳ありません。ですが、早急に確認したいことがありまして、周辺の小島とその近海を調査しておりました」
堅苦しいのは苦手な辰久だったが、彼女の様子がただ事ではないことを悟り、茶化すのをやめて真面目な顔をした。周りの幻獣たちも、言いたいことはあるだろうが空気を読んで口を閉じている。
「……なにか、あったのか?」
「はい。一昨日ほど前から、近隣のビーチで子供が頻繁に溺れかけているそうです。すぐに救助されていたため大事にはなっていませんが、不自然かと」
このビーチでも軽く溺れかけていた子供が数人いた。その度に辰久はまたかと思ったが、海は穏やかで、危険生物が出たとは聞いていない。足を攣った、水を飲んだ、沖に出過ぎたなど、原因は全て溺れかけた本人にあった。
だが、その子供たちを実際に救助したフェンリルはなにかを感じ取ったのだ。
溺れる原因となった、外的な要因を。
「俺に報告するってことは、魔術師か幻獣が関係してる感じ?」
訊くと、フェンリルはコクリと首肯した。
「海中から時折、ごく僅かですが魔力と思われる波動を感知しました」
「発生範囲は?」
「不明です。少なくともオスロ市近海は全域だと思われます」
「あ、ちょっと待ってくださいフェンリルさん」
フェンリルの報告を聞いたアルラウネが気を利かせて荷物から観光雑誌を取り出した。オスロ市とその近郊を俯瞰した航空写真のページを見つけ、皆に見えるように広げて地面に置く。
「えっと、フェンリルさんはどこを調査したのですか?」
「ここと、ここと、この辺りと――」
フェンリルが指で示した島をアルラウネがペンで×印をつけていく。その数は十にも及んだ。
「こ、これ全部回ったのですか? そんなに船って出てましたっけ?」
「船じゃない。自分の足だ」
「へ?」
意味がわからずアルラウネは目を点にした。周りの皆は理解しているようなので、ウェルシュ・ドラゴンが日本に派遣された後で契約幻獣となった新参者の彼女だけがわかっていないらしい。
フェンリルの、幻獣としての『特性』を。
「つまり~」とリヴァイアサンが顎に手をやり、「その魔力にあてられて~、抵抗力の低い子供が体に異常を来したってこと~?」
「恐らく」
頷き、フェンリルは蒼い瞳で辰久を見る。
「主、どうしますか?」
「どうするもこうするも」
辰久はわしゃわしゃと頭を掻き毟ると、長く深い溜息を吐いた。
「こりゃあちょっくら、調べてみる必要がありそうだぁね」
えー、と嫌な顔をしたのは、早く帰りたい願望を持つヴィーヴルだけだった。
六月から八月上旬辺りが最も明るく、サマータイムを過ぎると一気に暗くなるのが早くなってしまう。だが日照時間は最長で十八時間にも上るため、人々が寝静まった時間でも明るい街はまさにゴーストタウンさながらの風景だろう。
気温は地域によるが、意外と三十度近くまで上昇することもある。湿気はほとんど感じられず、太陽が雲に隠れてしまえば肌寒いくらいになるのだが、生憎と今日は快晴。午前中と言えど、やや温か過ぎる日差しに晒されては人体の発汗機能が大忙しである。
「よーし、全員集まってるかぁー?」
ノルウェー王国の首都――オスロ。
王宮・行政・立法・司法などの機関が集まる世界でも物価の高い都市の、市庁舎の前にあるフェリー乗り場でのことだった。
「なんかいろいろ足りない気もするけど、名前呼んでくからちゃんと返事しろよー!」
停泊中のフェリーに次々と人が流れ込んでいくのを横目に、引率の教師とも言い難い軽薄な口調で点呼を取る人物がいた。前を開いたド派手なアロハシャツにサングラス、右肩に大きな浮き輪を担いだいかにも怪しい日本人男性である。
「ヴィーヴル」
「あいよー」
気の抜けた返事をしたのは、鮮やかな緑髪を腰まで伸ばした長身の女だった。ワンピースタイプのキャミソールに丈の短いジージャン。豊満なバストという名の凶器を所持する目が覚めるような美人である。が、脱力した猫背の姿勢と白い帽子の影から覗く半開きになった赤眼、両手で持った日本製の携帯ゲーム機が彼女の美しさを台無しにしていた。
「こらこらヴィーヴルさんや、せっかくの短い夏を堪能するためにバカンスに来てるんだから、もっと元気出して行かないとおっさん寂しい」
「ボスぅ、おうち帰って冷房利いた部屋でゲームしてていい?」
「ゲームなら今もやってるよね!? そんな引き籠ってばっかりだと不健康だぞ?」
「だるいー。超だるいー。かったるーい」
「おっさんみたいな健康体を維持するにはだな、こうやって時にはアウトドアに興じることも必要で――」
「あーもう、だるいー。かったるいー。マジハリケーン・カッタリーナ」
「うわぁ、なんてやる気のなさそうなハリケーン」
ボスと呼ばれたアロハ男――秋幡辰久は諦めたようにがっくりと項垂れた。
彼はこう見えて世界魔術師連盟が誇る大魔術師の一人である。主な職務は懲罰師。連盟の内部外部問わず罪を犯した魔術師を直接的に裁く執行官のことだ。
そして今は世界中に無差別召喚されてしまった幻獣を処理する対策本部の責任者でもある。その幻獣を解き放ってしまったのは他ならぬ辰久なのだから当然だが、専門外の実験を押しつけられた挙句の果てであるためどうも納得がいかない。
「まあちゃんと来てるからいいや。次、ウェルシュ!」
しーん。
勢いよく点呼を続けた辰久だったが、応答はどこからも返って来なかった。ゲーム機の画面に視線を落としたままヴィーヴルが呆れたように進言する。
「ボスぅ、ウェルシュは今、日本じゃなかったけ?」
「……」
「……」
「……」
「そうだった、息子に寝取られたんだった……」
「ボスが送り込んだんでしょうが」
その息子が聞いたら全力で否定しそうな台詞である。
「若干寂しいけどしゃーないわな。次、フェンリル」
「はっ、ここに」
だいぶ覇気を失った点呼にキリッと応えたのは、闇のように黒い短髪を潮風に靡かせる蒼眼の少女だった。見た目の年齢は十代後半だろうか、胸元を大きめに開いたラメのあしらわれたTシャツに短めのテーラードジャケットを合わせ、膝下十センチ辺りでカットしたダメージジーンズを穿いている。雰囲気が堅く近寄りにくく思えるが、そのクールな印象がヴィーヴルとは違う魅力を醸し出していた。
美しさとセクシーさが仲良く同居する彼女は、辰久の前で王様に忠誠を誓う家臣のように片膝をつく。
「ご命令は?」
「いや、呼んだだけ。点呼だし。あと膝つかなくていいから。おっさん堅苦しいのキライ」
「……失礼しました」
フェンリルと呼ばれた少女はすっと姿勢よく立ち上がると、静かに一歩だけ下がった。その直立する姿は凛としており、絶賛猫背でゲーム画面を凝視しているヴィーヴルにも見習わせたいくらいだった。
「次、リヴァイアサン」
「はいは~い。ここにちゃ~んといるよ~」
どこか間延びした口調で返事をしたのは、二十代前半に見える美女だった。ふわっとしたロングの青髪に白い肌、整った小ぶりな輪郭に収まる垂れ目は橙色に煌めく瞳を内包している。背はヴィーヴルよりやや低いが、それでも女性としては高い方だろう。襟元と袖口にフリルがついたエンパイアチュニックの胸部に聳える双丘は、こちらも野郎共ホイホイ機能を遺憾なく発揮できるほど立派だった。
「もう、ウチのことは『リヴィ』って呼んでって言ってるでしょ~?」
青髪の女性――リヴァイアサンはやや前屈みになると、悪戯っ子のように笑って辰久に上目遣いの視線をぶつけた。たゆんと揺れた二つの凶器に危うく鼻から出血しそうになるも、辰久はどうにか堪える。
「いやぁ、点呼だからちゃんとした名称で呼ぶのが礼儀ってもんかとおっさん思うわけよ」
「ウチもタッつんのこと『ダーリン』って呼ぶからさぁ~」
「うん、頼むから俺の家族の前ではそう呼ばないでね。殺されるから」
家族の前じゃなきゃいいのかよ、とゲーム中のヴィーヴルが小声で突っ込んだ。もちろん辰久には聞こえない。
「どうでもいいけど、せっかく休暇貰ったんなら家族サービスすりゃいいじゃんか。なんで家族じゃなくて私らと旅行してるわけ?」
阿修羅の形相をした妻がゴルフクラブ二刀流で迫り来る想像をして顔を青くしていた辰久に、目を平たくしたヴィーヴルは気だるげに問う。
「だってだって、息子は日本だし、娘はまだ学校だし、施設で療養中の妻が『ノルウェーのヤギミルクのチーズ食べたい』って言うもんだから……」
「立場低いねぇ、ボス」
「うるせいやい」
気を取り直して辰久は点呼を続ける。
「えーと次はと……アルラウネ」
「はーい、わたしならここです!」
明るく元気な返事をしたのは、身長百四十センチメートルほどの小柄な少女だった。ノースリーブシャツの上から深緑色のマントを羽織り、下は純白のミニスカートとハイソックス、頭には大きなアネモネの花の髪飾りをつけている。
エメラルド色の大きな瞳をキラッキラと輝かせる彼女は、背の低さを補うようにその場でピョンピョン飛び跳ねて自己主張していた。ジャンプする度に若草色の柔らかそうな髪が綿毛のごとくふわふわ靡く。
「えとえと、本日は新参者のわたしなんかも慰安旅行に誘っていただき、誠にありがとうございます! 戦闘ではなんのお役にも立てないわたしですが、せめてこの旅行では皆さんのサポートを、全身全霊をかけて努めたいと思います!」
慇懃な挨拶を並べてぺこりと頭を下げる少女――アルラウネ。そんな彼女の頭を、辰久は感涙しながらくしゃくしゃ撫でた。
「アルラはホント元気でいい子だなぁ。アルラだけだ、そう言ってくれるのは。他の奴らなんて『ありがとう』の『あ』の字も口にしないのに」
「そ、そんなことないですよ。皆さんちゃんと辰久さんに感謝してますよ。ね?」
底抜けに明るい笑顔と声でアルラウネは他の女性陣に言葉を振る。彼女たちも表面には出さないが、こうやって話を振れば素直に感謝の気持ちを伝え――
「え? 感謝? なんで?」
「……」
「う~ん、どうせ旅行するならハワイとかグアムがよかったなぁ~」
「皆さん! そこは嘘でも頷いてください!」
彼女たちのぞんざいな態度に、アルラウネはハムスターのようにほほを膨らましてピョンピョン跳ねた。
そして恐る恐る振り返ると――
「『おっさん』のおの字は『お粗末』のお~」
体育座りで海の彼方を眺めながら変な歌を口ずさむアロハシャツの中年がそこにいた。
「ああ! 辰久さんいじけないでください!」
ゆっさゆさと必死に辰久の体を揺さ振り始めるアルラウネだった。
ヴィーヴル。
フェンリル。
リヴァイアサン。
アルラウネ。
彼女たちは人間ではない。
こことは違う別世界からやってきた、様々な神話や伝説に記されている一般的には空想上の生き物――『幻獣』と呼ばれる存在だ。
その定義は広い。UMAに妖怪、エルフやドワーフ、天使や悪魔、時には神と呼ばれる存在までもが含まれる。とても『獣』とは言えないものもいるが、そんな彼ら自身が向こうの世界を『幻獣界』と称しているため一まとめにされていたりする。
ヴィーヴルは、フランスに伝わる宝石の瞳を持つドラゴン、または半人半蛇の美女。
フェンリルは、北欧神話に登場する、最高神をも飲み込んだ巨狼。
リヴァイアサンは、旧約聖書のレヴィアタンを原型とした、荒れ狂う海の象徴である巨大な蛇龍。
アルラウネは、錬金術の原材料である謎植物――マンドレイクの亜種。
約一名だけ明らかに格が違うものの、彼女たちは地球上では等しく魔力の供給源がなければ生きていけない。人の姿をしているのも、『この世界に適応した姿』という殻を被ることで魔力の消費を抑えるためである。
魔力を供給する方法は大きくわけて二つ。
人間と契約し従うか、人間を喰らうか、である。
並の魔術師ではアルラウネはともかく、他の三体と契約することは魔力量的に難しいだろう。
だが、大魔術師である秋幡辰久は彼女たち以外にも何体もの幻獣と契約している。それでいて未だに余裕があるのだから、真の怪物は彼なのかもしれない。
軽薄な性格のせいで威厳がまったくないのが、たまに傷であるが……。
それから数分後、フェリーの乗船可能時間ギリギリになったところでようやく辰久は復活した。
「いいよいいよ、おっさんだけ楽しんじゃうよ。というわけで、とりあえず集まらなかった奴らは放っといて点呼終了。フェリーに乗り込むぞー!」
空元気ではなく本当に開き直った元気さで辰久はフェリーへと歩を進めた。
と、その時――
「待て待て待て! なに女だけ点呼取ってんだよ」
焦ったような男性の声が辰久の背中に浴びせられた。実はずっと名前を呼ばれるのを黙って待っていた者が一人いたのだ。
赤みがかった茶髪をわざと跳ねさせるようにした青年だった。色違いのタンクトップを重ね着し、七分丈のパンツにサンダルを履いている。
「いや俺、野郎を誘った覚えはないんだよね。なんでここにいんの、フレースヴェルグ」
「えー、そりゃねえよ」
辰久の素っ気ない言葉に、フレースヴェルグと呼ばれた青年は情けなく悲嘆な表情をして肩を落とす。そう言われるのは完全に想定外だったという顔だ。
彼もまた人間ではない。
幻獣フレースヴェルグ。
北欧神話にて登場する〝死体を呑み込む者〟という意の大鷲、または鷲の姿をした巨人である。その翼の羽ばたきは世界にあらゆる風を巻き起こすとされ、それが長じて風の象徴とされている幻獣だ。
「フレスは私が呼んだんだよ」
すると、ヴィーヴルが携帯ゲーム機を操作しつつ適当な調子で告げた。
「ちょ、ヴィーヴルさんや、なに余計なことをしてくれちゃってんの? せっかくおっさんがハーレム気分で休みを満喫しようと思ってたのに!」
「だからだよ。ボスが馬鹿なことしないために来てもらったの」
「え? オレ、このおっさんの監視役兼ストッパーで呼ばれたの? だったら他の奴でもよかったんじゃ……」
「あんたが一番暇そうだから」
「お前にだけは暇人呼ばわりされたくない」
さらに落胆するフレースヴェルグ。とその肩に、リヴァイアサンが優しく手をかけた。
彼女は間延びした声で言う。
「まあまあ~、男手がタッつんだけじゃアレだし~、力仕事とかあればよろしくね~」
「よく言うぜ、てめえらオレより怪力じゃ痛だだだだだだだやめろリヴィそこの関節はそっちの方向には曲がりません!?」
「あわわわ! り、リヴィさん、フレスさん腕が捥げちゃいますよ!」
「手羽先っておいしいよね~」
「食べる気!? フェンリルさんなんとかしてください!?」
「主の命令でなければ私は従わない」
「もう!」
「フレースヴェルグの手羽先と~、アルラウネの葉っぱをお鍋でぐつぐつ煮込んで~……じゅるり」
「わたしも食べられちゃいます!?」
「……それは美味そうだ」
「フェンリルさん!?」
捕食者の二人に被食者の二人は顔を真っ青にしてガタガタと振るえるのだった。
「ほらほら、じゃれ合ってないでフェリー乗るぞー。もうしょうがないからフレスがいるのはいいよ」
辰久が手を叩いて呼ぶと、じゃれ合いなんてものじゃない本気の目をしていたリヴァイアサンとフェンリルは我に返ったように踵を返した。
アルラウネはほっと息をついた。それから遠い目をして横で腕の間接の調子を確認しているフレースヴェルグに話しかける。
「フレスさん、がんばって、生き残りましょうね」
「言っとくが、オレからしてもアルラは食材だぞ?」
「わたしが底辺でした!?」
食うつもりはないけどな、と付け足したフレースヴェルグの言葉は、衝撃の事実に絶句するアルラウネには届かなかった。
∞
オスロ市庁舎前のフェリー乗り場から行ける小島群にはいくつものビーチが存在する。もちろん南国ではないので向こうほど綺麗な場所はないが、夏になると海水浴を楽しむ人々でごった返すため活気は上々だ。
中にはヌーディストビーチもあるらしく――
「ねえおっさんここ行きたいんだけど聞いてる? みんなで素晴らしい解放感を堪能しようよきっと新しい自分に目覚めるよ!」
「誰が行くか落ちろ!」
それを知ったエロ親父がヴィーヴルに顔面をグーで殴られていた。
「いい眺めね~、潮風も気持ちいいし~」
フェリーの手摺りにゆったりと凭れかかったリヴァイアサンが、風に乱れる青髪をそっと手で整えた。そんな優雅な仕草の向こう側では今にもおっさんが海に突き落とされそうになっているが、気にする様子はまったくない。
「わたし知ってます。この辺り、オスロ・フィヨルドって言うんですよね」
アルラウネが誇らしげに控え目な胸を張った。フィヨルドとは、氷河の浸食によって形成されたU字谷が沈水してできた複雑な湾のことだ。海岸線は湾の奥を除いて断崖絶壁となるものが多く、水深も深い。同じノルフェーのソグネ・フィヨルドなどは長さ二百キロメートル、水深は千メートルほどもある。しかし幅に関してはたったの数キロメートル程度しかない。
対するオスロ・フィヨルドは、長さがたったの十七キロメートルしかなく――
「地質学的には~、ここはフィヨルドじゃないらしいよ~」
「え? そうなんですか?」
「氷河で形成されたわけじゃないからかな~? ウチもあんまり詳しくないけど~、ここはそういう地名なんだって~」
「ほえぇ」
「ちなみに~、このオスロ・フィヨルドは彼の有名な画家――エドヴァルド・ムンクの『叫び』や『埠頭の少女』の背景に描かれてたりするね~。あ~、第二次世界大戦中にドイツ軍が千人の兵士を乗せた艦隊で攻め込んで来たときは大変だったな~。『オスロ・フィヨルドの戦い』って言うんだよ~」
「すごいです。リヴィさん物知りです。まるで見てきたみたいです」
感心したように緑色の瞳をキラキラと輝かせるアルラウネ。素直な尊敬の眼差しを浴びせられたリヴァイアサンは、頬筋が緩むことを抑えられず――ガバッ! とアルラウネの小さい体を抱き締めた。
「ふぇ!?」
「アララちゃんってばかぁ~いい♪」
「アルラです!? いきなりなにするんですか!?」
「食べちゃっていい~?」
「だから目が本気ですリヴィさん!? わ、わわわわたし食べても美味しくないです!?」
「そうよね~、アララちゃんはもう少し育ってからの方が……ブラウンチーズ食べる~? キャラメルみたいで甘いよ~?」
「食べません! なに太らせようとしてるんですか!」
「あはは~、じょ~だんじょ~だん♪ アララちゃん食べても属性違うし~、スキルレベルも上がらないしね~」
「なんの話ですか!?」
どうにかリヴァイアサンの抱擁から抜け出したアルラウネは、這々の体で船内へと避難するのだった。
その船内の休憩所では北欧神話組、もといフェンリルとフレースヴェルグが荷物番をしながら寛いでいた。
「なあ、フェンリル、お前さっきからなに食ってんの?」
フレースヴェルグは読んでいた観光雑誌から視線を上げ、目の前に正座してなにやら輪切りにされた緑色の物体を黙々と咀嚼しているフェンリルに訊いた。
フェンリルは口の中の物を飲み込むと、一旦食べるのをやめてフレースヴェルグを見る。
「『芋虫』」
「マジで! なにそれどこで売ってたんだ?」
「集合前に市場で見かけたから買ってみたのだ。なかなか美味しい」
「頼む! 一個! 一個でいいからくれ! いやください!」
拝み倒す勢いで頭を下げるフレースヴェルグに、フェンリルは若干引きつつも『芋虫』を一欠片摘んで差し出した。
「一個だけなら」
「サンキュ!」
引っ手繰るように『芋虫』を受け取ったフレースヴェルグは、粗雑にもポイッと口の中に放り込みそして――カッ! と大きく目を見開いた。
「――ってこれ野菜にアボカド巻いてるだけじゃねえか! 騙したな!」
「……なにを期待していた?」
フレースヴェルグがぶつくさ文句を垂れながら再び雑誌を読み始めたので、フェンリルも特にそれ以上気にすることなく『芋虫』の残りを全て平らげた。
そんなこんなで、飛んだり泳いだりできる幻獣にとっては億劫な船旅も二十分ほどで終了し、一行はとある小さな島の港へと降り立った。
港には高級そうなヨットやクルーザーがところ狭しと並んでいる。けれど島自体に民家はほとんどないため、それらは島民の所有物などではなくどこかの金持ちが保管している船だろう。
建物こそ少ないが、自然はその分豊かだ。草木は青々と生い茂り、アスファルトで固められた都会と違い砂利道が続いている。
「わぁ、思ってたより人がいますね」
その砂利道を行き交う人々にアルラウネが感嘆の声を上げた。普段は山奥の田舎よりも長閑そうな島は、海水浴シーズンのため大勢の人間が集まり活気づいている。この人ごみの流れに乗って行けばとりあえず迷うことはなさそうだ。
「う~、人がいっぱい。帰りたい」
早速重度の引き籠り病を発症しているヴィーヴルの主張はもちろん却下。はしゃぎ過ぎのアロハおっさん・秋幡辰久を先頭にビーチまで徒歩で向かう。
とはいえ、ほとんど目と鼻の先だった。もっと島の外周を回れば穴場的なビーチもあると思われるが、地図を見る限り島の反対側には船を使うか山を越えるかしないといけそうにない。貸切状態は諦めて一番大きなメインビーチにて根を張ることにした。
「じゃ、私ら着替えてくるから。ボスとフレスはしっかり場所を整えといてね」
適当な陣地を確保すると、ヴィーヴルたち女性陣は設置された簡易更衣室を使うためにそれぞれが着替えの入った袋を手に取った。
「私が安心してゲームできるように」
「ここまで来てもゲームすんのかよ……」
ビーチパラソルを立てつつフレースヴェルグはげんなりする。
「フレス~、バーベキューの準備もお願いね~。……鳥肉」
「やめろよ最後の一言!?」
「ハッハッハ、フレースヴェルグ君、後は頼んだよ。おっさんは彼女たちと着替えてくるからね」
「なにさらりとついて来ようとしてんだエロボス死ね!?」
「おぶふぅ!?」
「ひゃあっ!? 辰久さんが海面を八バウンドしました!?」
「主、今救助に向かいます!」
バッ! とフェンリルが人目を憚らず勢いよく服を脱ぎ捨てた。女性らしい柔らかさも合わせた引き締まった裸体が露に――なることはなく、既に青いラインの入った競泳水着を身につけていた。機能重視の水着はスレンダーな体型にピッタリとフィットし、彼女のクールビューティさをより際立たせている。
そのままライフセーバー顔負けの泳ぎでフェンリルがアロハシャツの中年を海から引き上げると、なぜか周囲の人々が盛大に喝采を送っていた。
∞
そうして始まった楽しい時間は、あれよあれよと言う間に過ぎて行った。
辰久の提案したビーチバレーには子供を見守る保護者のように動きたくなかったヴィーヴルも強制参加させられ、その鬱憤を晴らすように何度も提案者の顔面にボールを叩きつけた。一度大きく場外に飛んでいったボールがアルラウネの製作していた芸術的な砂のお城にクリティカルした時は、泣きそうになった彼女に参加者一同揃って土下座したものだ。
それからビーチの管理者側でも様々なイベントが開催されていた。
ビーチフラッグス大会ではフェンリルが圧倒的な駿足で優勝をもぎ取り、続けて行われた水中プロレスの決勝でも二メートル級の巨漢を一発KO。幻獣が一般人に混じるのは些か反則的だったが、辰久は全く悪びれる様子もなくノリノリで応援していた。
午前中は一頻り暴れ回った一行も、フレースヴェルグが一人で用意した(途中からアルラウネも手伝ったらしいが)バーベキューに舌鼓を打つと、午後は各々がのんびりと自由に過ごすことした。
「んんぅ~、ハワイやグアムじゃないのは残念だけど~、やっぱり海水浴って気持ちいいよね~♪」
楽しそうに笑うリヴァイアサンがチェック柄のレジャーマットの上にうつ伏せに寝転がった。青と白のグラデーションのバンドゥービキニが外され、左右にぺろんと広がる。白く柔らかそうな乳房が平らに押し潰されて横からはみ出る様は、通り過ぎる人間の男の目を釘づけにして放さない。
「そう? 私は自分の部屋のベッドでごろごろしてた方がずっといいけど」
炎柄のホルターネックビキニを身につけたヴィーヴルが億劫そうに言う。彼女も同じようにダイナミックボディを所有するため、二人並べばまさに女神が降臨したような光景だった。
まあ、色気全開のリヴァイアサンに比べ、ヴィーヴルの方はパラソルの下で胡坐を掻いて相変わらず携帯ゲームに興じているのだが。
「ていうか、海龍のあんたが海水浴楽しむってどうなのよ?」
「それを言うなら~、火龍のあなたもでしょ~」
「私は別に楽しんでねーし」
「ツンデレ~?」
「違うわ!?」
反射的にツッコミを入れるヴィーヴルだったが、リヴァイアサンはどこ吹く風といった調子で笑う。果てしないやり難さを感じたヴィーヴルは、リヴァイアサンから目を逸らして視線を遠くにやった。
波打ち際で人々に囲まれているフェンリルが目に入った。イベントでかなり目立っていた優勝者は、どうやらあれからまた溺れかけていた子供を二、三人助けたらしい。すっかり英雄だ。またと言っても、一人目はおっさんだが。
そのおっさんは……食後のスイカ割りでスイカの横に頭以外を埋められ、ヴィーヴルがわざと間違えて棒を振るったため隣のパラソルの下でノックダウンしている。フリフリのツーピース水着に緑色のパレオを腰に巻いたアルラウネが甲斐甲斐しく看病しているが、放っておけばいいのにと他の全員が思っていたりする。
フレースヴェルグはせっせとバーベキューの後片づけ中だ。コンロを分解して生ごみの処理をしている。なんかヴィーヴルが呼んだせいで彼一人に全ての雑用を押しつけてしまっているが……まあいいか。
「どうせなら他のみんなも来ればよかったのにね~。ウェルシュとか~、ケツァとか~」
「ウェルシュもケツァもボスの子供と再契約したっしょ。ウェルシュは息子、ケツァは娘とさ」
「じゃあヘスの三姉妹は~?」
「そいつらは奥さんの護衛」
「タマちゃんは~?」
「昔馴染みと飲み会するとか言って、数日前にフラッとどっかに出てったよ」
「ドラニュー将軍は~?」
「バカンスに行くくらいなら筋トレしてるよ、あいつは。あとそのあだ名言ったらめっちゃ怒られるから」
「ヒルデとか~? 副官さんとかは~?」
「あの二人は仕事馬鹿だから誘っても絶対来ないでしょうよ。寧ろ引き止められて仕事させられるっての。てか、その二人は今なんとかって魔術師を追ってたと思うけど」
仕事するくらいならこの旅行も悪くないかもしれない、とマイナス方向の比べ合いで状況を納得しそうになったヴィーヴルである。
「ところで~、どうして引き篭もりのあなたがそんなに詳しいの~?」
「うっさい引き篭もりの情報網舐めんな!」
ネットの普及したこの時代、寧ろ引き籠っていた方がいろいろと情報が入るのだ。ヴィーヴルはそう信じて疑わない。
と――
「Hey! そこの彼女たち、暇なら俺たちと遊ぼうぜ」
「向こうにいい感じにサーフィンできる場所があるンスよ」
二人の若い男が軽い調子で声をかけてきた。二人とも肌は黒々と日焼けし、スポーツマンなのかボディは無駄なく引き締まっていてずいぶんと男らしい。
「ここで寝っ転がってるよりずっと楽しいぜ」
サングラスをしたロン毛の男が白い歯をキランと光らせる。
「あ、サーフィンのやり方わからなかったら教えるッスよ」
不良じみたツンツン頭の男は脇に挟んだサーフボードをコンコンと小突いた。
わかりやすいナンパである。
ヴィーヴルとリヴァイアサンの周囲が女神空間過ぎて他の野郎共は遠くから眺めていただけなのに、なんとも豪胆な二人だ。
「間に合ってるよ、帰んな」
ゲーム画面に視線を戻してヴィーヴルは素っ気なく切り捨てる。
「そんな連れないこと言わずにさぁ、楽しいッスよサーフィン」
「興味ない」
ツンツン頭の笑顔が引き攣った。
「そっちのお姉さんも寝てないで体動かそうぜ」
「う~ん、今はいいかなぁ~。あなたたちと運動してもつまらなそうだし~」
ふわぁ、と欠伸するリヴァイアサンにロン毛もこめかみをピクつかせる。ただの人間である彼らがブチキレても全く怖くないのだが、無用なトラブルは避けたい。けれど、柔らかく断ったところでこういうタイプは引き下がらないだろう。
「他をあたれって言ってんだろ。あんたらじゃ私らとは釣り合わねぇーよ」
視線すら合わせず突き放すように言うヴィーヴルだったが、男たちは困ったように、しかしどこか愉快そうに声を出して笑った。
「ハハッ、これはなかなかお高いこった!」
「けど、どうしても来てもらわないと困るンスよね俺たち」
「あ? どういうことだ?」
先程までのチャラチャラした態度とは一変し、粘つくような狂気を滲ませた男たちにヴィーヴルは眉を顰める。するとロン毛が親指を立てて後方を示した。
「あそこの丘にでっけぇ豪邸が見えるだろ?」
言われてヴィーヴルとリヴァイアサンは顔を上げた。確かに、メインビーチを一望できる丘の上に城のように巨大な家が建っている。ゴシック様式でパステルイエローの壁をした豪邸だ。どう考えても島の景観を大いに損なっている。初めて見た時はそれはもう誰もが微妙そうな顔をしたものだ。
「あの趣味の悪い家がどうしたって?」
「趣味のわる……あそこは俺らのボスの別荘でよ。そのボスがあんたらのこと気に入ったみたいなんだ。一緒にメシ食いたいから連れて来いって言われてな」
ヴィーヴルの趣味悪発言にロン毛は一瞬絶句するも、どうにか立ち直って事情を語った。
「サーフィンじゃなかったの~?」
相変わらずのんびりと、リヴァイアサン。
「んなのテキトーな嘘ッスよ。ま、俺はホントにサーフィンしてもよかったンスけど。好きだし」
ツンツン頭が残念そうに首を振ってザクっとサーフボードを砂浜に突き立てた。これで両手が空きましたよ、とアピールしているらしい。
「傷物にしたら俺らが殺されっから穏便に連れて行きたかったが、あんたらがどうしても嫌だと言うなら少々強引な手も使うことだってあるかもなぁ?」
「ガンディーニ・ファミリーって聞いたことないッスか?」
「いやない。リヴィは?」
「ウチも初耳かな~」
瞬間――ブチリ。
男たちの額に青々とした筋が大きく浮かび上がった。
「……あんまり自分らで言いたくはねえんだが、マフィアってやつだ。イタリアのな」
「だから、逆らわない方が身のためッスよ?」
ポキリポキリと、二人の男がそれぞれ組んだ両手から暴力的な乾いた音が響いた。
予想だにしないマフィアの男たちの襲来に、絡まれた幻獣たちの契約者はと言えば……
「た、たたたたた辰久さん起きてくださいヴィーヴルさんとリヴィさんが大変です!」
「う~ん、もう食べられにゃいむしゃむしゃごくんげっぷ」
「食べてますよそれ!? あとそんなベタな寝言いらないです!」
暢気にも夢の世界で幸せに暮らしていた。
だが、マフィアの男たちが暴力行為を実行することはなかった。
「おいおい兄ちゃん、なんのつもりだ? あんたにゃ用はねえんだが?」
寸でのところで、見るに見兼ねたフレースヴェルグが立ちはだかったからだ。
「この二人なんだけどよ、連れなんだ」
「知ってるよ。だがそれがどうした?」
いきなり割り込んできたフレースヴェルグにもロン毛男は怯まない。男連れだろうが家族連れだろうが関係ない、そう言っている。
「諦めてあんたらのボスとやらに殺されろってことだ。ここで死ぬよりは長生きできるぞ」
「んだと?」
「兄ちゃん、あんまり調子に乗らねえ方がいいッスよ? 魚の餌になりたかねえだろ?」
呆れ半分、怒り半分で男二人はフレースヴェルグを睨む。ロン毛の方はサングラスを少しずらしてからの睥睨であるため、普通の人間の海水浴客ならば情けなく悲鳴を上げて逃げ出すほどの威圧感があった。
しかしそんなものは、幻獣フレースヴェルグには微塵の恐怖も与えない。
「そっちこそ鳥の餌にするぞ? ただの人間が、喧嘩売る相手間違えんじゃねえよ」
「あぁ? なんだとテメエ。よし決めた。もう決めた。あとから泣いて叫んでも半殺しじゃ済まさねえから覚悟しろ兄ちゃんよぅ」
ロン毛男が凶悪に唇を歪めてフレースヴェルグに掴みかかろうとした――その時だった。
「い、いい加減にしてください!」
さらなる闖入者があった。
若草色の髪をした少女――アルラウネだ。どうやっても辰久が目覚めないから自分が動くしかないと思ったのだろう。彼女はフレースヴェルグを庇うように両腕を目一杯広げ、毅然とした表情でキッと男たちを睨め上げる。
「アルラ、下がってろ。お前は力では人間より弱いんだから、怪我するぞ。ここはオレが」
「ダメです! フレスさんだとやり過ぎて本当にこの人たちを鳥の餌にしてしまいます!」
「……信用しろよ。加減くらいできるって」
眼前のちっこい少女にきっぱり言われて落胆するフレースヴェルグ。そんな彼の様子にヴィーヴルがケラケラ笑うと、獰猛な光を宿した紅い瞳をマフィアの男たちに向ける。
「いいじゃんか、アルラ。どうせこいつらのせいで他の海水浴客も迷惑してるんだ。フレスに殴らせればみんなスカッとするって。なんなら私がやってもいいけど。いい加減こいつらくっそウザいし」
「ヴィーヴルさんこそダメです! もっと穏便に済ませるべきなのです。暴力はよくないのです」
「暴力がダメなら~、肉体言語ならOKだよね~」
「それ暴力ですよね!?」
自分だけが良心、この面子を見ていて強くそう認識するアルラウネだった。
「んで?」
がしっと、太くてごつい手がアルラウネの頭を鷲掴みにした。ビクリ、と肩を跳ねさせるアルラウネを、ロン毛男は無理やり捻って自分の方に顔を向けさせる。
「なんなんだこのガキは?」
「ひゃあ!? 恐い顔がすぐそこに!?」
ロン毛男の手を振り払って転ぶように脱出するアルラウネだったが、そこに待ち構えていたツンツン頭に羽交い絞めにされてしまった。
「いやぁーっ!? は、放してくださいっ!?」
じたばた暴れるも、人化した幻獣アルラウネは見た目以上の出力を生まない。つまり、ただの少女が腕力で大の大人に敵うわけがないのだ。
「なあ、こいつ使えるんじゃないッスか?」
「そうだな」
ロン毛男は納得し、ニヤリと口の端を吊り上げる。
「おい、このガキを無事に返してほしけりゃ俺らの言う通りにしてもらおうか」
「人質になっちゃいました!? ヘルプミーです! 放してください!」
男に掴まり、涙目で叫ぶ若草色の少女。傍から見れば大変緊迫した空気なのだが、当事者の片方、人質を取られた側の者たちは特に焦燥感も見せず落ち着いていた。
まるで、人質を取った男たちを憐れむように。
「あー、いや、えっと……お前らさ、早くそいつ放した方がいいぞ?」
フレースヴェルグが困った顔で頬を掻きながら恐る恐る忠告するが、それは男たちの怒りのボルテージをさらに引き上げる結果にしかならなかった。
「テメエ、状況わかってんのか?」
「放してください!」
「この可愛い顔に傷がついちまうッスよ?」
「放してください……ひぐっ……」
「いや、状況というか正体というか、なんにせよわかってないのはお前らだから」
「「あぁ?」」
マフィアの男たちが怪訝そうに眉を寄せた。
その、直後。
「えぐ……放してくださいって……」
すぅ。
アルラウネが大きく息を吸い込んだ。
「やべっ!?」
その様子を見たフレースヴェルグが咄嗟に両腕を後ろに引き、羽ばたくように振り払う。
瞬間、彼らの周りを取り囲むように不自然な風が巻き起こった。
マフィアの男たちや他の海水浴客が突然の暴風に驚くのも束の間――
「放してくださいって……」
アルラウネが、限界まで吸った空気を、解放する。
「㌫㌶㌍㌫㍊㍍㌻㌫㍊㌶㌍㍍㍊㍍㌘㌶㌍㍊㌶㌍㌫㌻㍍㌘㍍㍍㍗㌘㍍㌫㌍㌧㍍㌘㍍㍍㌻㍍㍗!!」
悲鳴とも言えない、凄まじい声。
その叫びが終わらないうちに、マフィアの男たちはプツリと糸が切れたように呆気なく倒れた。二人とも白目を剥き、口から泡を吐き、ピクリとも動かない。
マンドレイクやその亜種のアルラウネが放つ〈致死の絶叫〉だ。
本来は引き抜かれる際に放たれる絶叫は、それを直接聞いた生物を即死させる効果がある。声には魔力が込められているため、普通に手で耳を塞いだり、耳栓をしたとしても意味はない。
そのため、引き抜く時は飼い慣らした犬にやらせるという方法が伝わっている。犬は当然死ぬが、〈致死の絶叫〉は何度も連続で放てるものではないので安全に回収できるのだ。
風の象徴たる幻獣――フレースヴェルグが咄嗟に風の壁を発生させていなければ、倒れた人間は彼らだけでは済まなかっただろう。
解放されたアルラウネは、トタタタタっと小走りで泣きながらフレースヴェルグたちの下へと戻ってきた。
「ふぇえええん! 暴力反対ですぅ!」
「お前が一番えげつねえよ!?」
フレースヴェルグたち高位の幻獣にはただの超音波だが、人間にとってはたとえ魔術師だろうとひとたまりもないはずだ。本気で死ねるから。
「ところでさぁ」
だるそうに立ち上がったヴィーヴルが、倒れた男たちをスイカ割りの棒で汚物にでも触れるようにつんつんする。目を覚ます気配はない。
「これ、死んでないでしょうね?」
「あ、それなら大丈夫です」
涙を拭って振り返ったアルラウネは、頑張りました、とでも言うように小さく拳を握ってみせた。
「一応、気絶する程度に魔力を調節しましたので」
∞
気絶したマフィアの男二人をオスロ警察に引き渡した頃には、時刻はすっかり夕方となっていた。ここが日本ならば空が茜色に染まりつつあるだろうが、しかしノルウェーのこの時期はまだまだ昼間並に明るい。
「え? 俺が寝てる間になにがあったの? てかなんでもうこんな時間? ねえ?」
夢の世界の住人だった辰久が戻ってきたのも同じ頃だった。彼はアルラウネの〈致死の絶叫〉を直撃する位置にいたはずなのだが、なにもなかったかのようにケロリとしている。あるいは、絶叫の影響でこの時間まで爆睡していたのかもしれないが。
「アララちゃんがね~、マフィアの人に捕まって泣かされてたの~」
「アルラです! あと泣いてなんかいません! リヴィさん嘘つきです!」
「いや泣いてただろ」
恥ずかしいのはわかるが、フレースヴェルグ含むあの場にいたほぼ全員が目撃している。言い逃れはできないけれど、その事実を公にしてもなんの得もない。アルラウネが否定するなら『そういうこと』にしておけばいい。
「そのマフィアってどこよ? おっさんちょこーっと忠告してこようと思うんだけど」
辰久の目には明らかに攻撃的な意思が宿っていた。たぶん、忠告どころではない。
「あの丘の上にある邸だけど……別にいいだろ。私らは気にしてないよ」
「俺の可愛い契約幻獣を泣かされて、黙って帰るわけにはいかんよ。なあに、ちょっとあの豪邸を跡形もなく消し飛ばしてくるだけだから」
「そ、そこまでしなくていいです辰久さん! わたし泣いてませんから! 泣いてませんから!」
「あ、大事だから二回言った……」
もしも辰久が本当にそんなことをするようならば、懲罰師の一員である契約幻獣全員で阻止する羽目になるだろう。
なんとかアルラウネの説得が通じると、辰久は大きく息を吐いてどさりとその場に腰を落とした。
それからなにかを探すように辺りをキョロキョロする。
「フェンリルはどこ行ったわけ?」
「あれ? そういえば、ずっと姿が見えませんね」
マフィアの男たちとごたごたしていた辺りから見失っている。フェンリルの性格からして仲間がガラの悪い連中に絡まれていれば飛んできそうなものだが、騒ぎが収まってからも現れないとなると……………………嫌な予感が全員の脳裏を過った。
「まさか、フェンリルさん……溺れて……」
「いや、それはないよ。あいつ泳ぎは人を助けられるレベルで上手いから」
アルラウネの予感をヴィーヴルが否定する。
「美味そうな匂いに釣られてふらふら~っとどっかに行ったとか?」
「フレスならあるかもだけど~、あの子は真面目だから勝手にいなくなることはないと思うよ~」
フレースヴェルグの頭の悪い考えをリヴァイアサンが打ち消す。
「契約が切れてないから消滅したってことはないな。えーと、フェンリルの魔力リンクはと……」
契約者と契約幻獣の間には魔力の供給ライン――魔力リンクが構築される。たとえ相手が地球の裏側にいようとも、リンクを辿れば少なくとも方角は知ることができる。辰久ほどの術者ともなれば、そこから距離・感情・魔力残量などまで読み取ることが可能だ(流石に意思疎通まではできないが)。
辰久は意識を内側に集中させ、数ある魔力供給ラインからフェンリルのものだけを抽出する。そこから方角と距離の情報を引き出す。
方角は――真後ろ。
距離は――
「主、ただいま戻りました」
「おわっ!?」
目の前だった。
振り返ったそこには、競泳水着を纏った黒髪蒼眼の少女が片膝をついていた。言うまでもなく、今の今まで行方不明だったフェンリルである。
「ちょ、いきなり現れるとかおっさんビックリするんだけど。どこ行ってたんよ? みんな心配してたぞ」
「はっ、勝手な行動を取ってしまい申し訳ありません。ですが、早急に確認したいことがありまして、周辺の小島とその近海を調査しておりました」
堅苦しいのは苦手な辰久だったが、彼女の様子がただ事ではないことを悟り、茶化すのをやめて真面目な顔をした。周りの幻獣たちも、言いたいことはあるだろうが空気を読んで口を閉じている。
「……なにか、あったのか?」
「はい。一昨日ほど前から、近隣のビーチで子供が頻繁に溺れかけているそうです。すぐに救助されていたため大事にはなっていませんが、不自然かと」
このビーチでも軽く溺れかけていた子供が数人いた。その度に辰久はまたかと思ったが、海は穏やかで、危険生物が出たとは聞いていない。足を攣った、水を飲んだ、沖に出過ぎたなど、原因は全て溺れかけた本人にあった。
だが、その子供たちを実際に救助したフェンリルはなにかを感じ取ったのだ。
溺れる原因となった、外的な要因を。
「俺に報告するってことは、魔術師か幻獣が関係してる感じ?」
訊くと、フェンリルはコクリと首肯した。
「海中から時折、ごく僅かですが魔力と思われる波動を感知しました」
「発生範囲は?」
「不明です。少なくともオスロ市近海は全域だと思われます」
「あ、ちょっと待ってくださいフェンリルさん」
フェンリルの報告を聞いたアルラウネが気を利かせて荷物から観光雑誌を取り出した。オスロ市とその近郊を俯瞰した航空写真のページを見つけ、皆に見えるように広げて地面に置く。
「えっと、フェンリルさんはどこを調査したのですか?」
「ここと、ここと、この辺りと――」
フェンリルが指で示した島をアルラウネがペンで×印をつけていく。その数は十にも及んだ。
「こ、これ全部回ったのですか? そんなに船って出てましたっけ?」
「船じゃない。自分の足だ」
「へ?」
意味がわからずアルラウネは目を点にした。周りの皆は理解しているようなので、ウェルシュ・ドラゴンが日本に派遣された後で契約幻獣となった新参者の彼女だけがわかっていないらしい。
フェンリルの、幻獣としての『特性』を。
「つまり~」とリヴァイアサンが顎に手をやり、「その魔力にあてられて~、抵抗力の低い子供が体に異常を来したってこと~?」
「恐らく」
頷き、フェンリルは蒼い瞳で辰久を見る。
「主、どうしますか?」
「どうするもこうするも」
辰久はわしゃわしゃと頭を掻き毟ると、長く深い溜息を吐いた。
「こりゃあちょっくら、調べてみる必要がありそうだぁね」
えー、と嫌な顔をしたのは、早く帰りたい願望を持つヴィーヴルだけだった。
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