許嫁は土地神さま。

夙多史

四章 お出かけは大変だ(5)

 緋泉加耶奈御子ひせんかやなのみこ
「って、緋泉神社の神様の名前じゃ……?」
 この緋泉市にある最大の神社に祭られている神様が、現代人っぽい格好をして僕たちの目の前に現れた? そんな馬鹿な、と思えど、今し方の言動を鑑みるに偽物ってわけじゃなさそうだ。
「ほう、わしの名を知っておるか、人の子よ。我が神社の参拝客の多くは『緋泉神社の神様』程度にしか認知しておらんのじゃがな」
 緋泉加耶奈御子は僕を見て愉快そうにまた笑う。軽薄そうでいて豪快。幾歳を重ねてきたとわかる威厳が真紅の瞳の奥から感じられて思わず怯みそうになった。
「その緋泉加耶奈御子様が、どうしてこんなところに?」
「加耶奈でよい。いちいちこの長い神名を口にするのは面倒じゃろう。聞く側にとってもな」
 緋泉加耶奈御子――改め、加耶奈様はそう言うと、流し目で僕から小和に視線を変える。
「なぜ白季のが人の子と共におるのか気になるところじゃが、それはまあ、今はよい」
 加耶奈様がすっと右手を挙げる。
 すると、すぐに異変が生じた。
 徐々に往来する人々が数を減らし、ついに周りには僕たち以外誰もいなくなったんだ。
「な、なにをしたんだ?」
 しん、と深夜のように静まり返るオールマイシティの一画で、僕一人だけが虚しく狼狽する。
「カカッ、そう驚くでない人の子よ。この場を一時的にわしの神域としただけじゃ。これで人も神もわしの許可なく出入りできのうなった。あのように人の蔓延る場では落ち着いて話もできんからのぅ」
 す、凄い。小和はこんなこと一度だってやったことないのに……どうやら疑う余地もなくこの女性は神様らしいね。
「お前、わたしになんの用だ?」
 起き上がった小和が警戒心剥き出しに問う。と瞬間、加耶奈様の雰囲気が一変した。表情が無になり、どこか険しさを孕んだ空気を威圧的に放出する。
「なんの用だ、じゃと? おかしなことを訊くのぅ、白季の。それはわしの台詞じゃ」
 そっちの台詞? どういうこと? 会いに来たのはそっちじゃないか。
「うぅっ……」
 たじろぐ小和は、理解したのだろう。加耶奈様の言葉の意味を。
「無断で他神の領地を侵犯しておるのはお主じゃぞ。相手が古き友じゃったからわし自ら出向いたものの、そうでなければ属神に命じて強制排除しておったわ」
 強制排除、その一言に小和の肩がビクリと跳ねた。
 見てられない。
「ちょっと待ってよ。あなたが緋泉市の土地神様だったことはわかったけど、ただ遊びに来てるだけなのにどうしてそんなに目くじらを立てるのさ?」
 間に割って入った僕を加耶奈様は静かに睨む。たったそれだけで吹っ飛んでしまいそうな感覚に、僕は必死に堪えた。
 明らかに小和とは力の大きさが違う。緋泉加耶奈御子は、そこに突っ立っているだけで神々しさと絶対的な存在感が溢れ出ている。なにもしなくても、人間とは異なることを否応なくわからされてしまう。
「白季のに共しておるから我が神域内に入れてやっとるが……あまり食ってかかるでない、人の子よ。これはわしら土地神の掟のようなものじゃ」
「掟って――」
「お主ら人間とて、他人の家に無断で踏み入れば不法侵入という罪になろう? それと同じじゃ」
「くっ」
 言い返せない。人間の僕にはとても理解できないスケールの不法侵入だけど、たぶん彼女が言っていることが正論なんだ。
 でもだからって、小和が咎められる謂れはない。
「僕が小和を連れてきたんだ! だから責任は僕が取る! 小和は悪くない!」
 目の前の強大な存在から逃げ出したい気持ちを根性で押さえつけて啖呵を切ると、加耶奈様は一瞬だけきょとんと目を見開いた。だがすぐに大仏よりも無表情になって口を開く。
「神の責を人の子が請け負う、じゃと? 人の子よ、一つだけ問うてよいかの?」
「な、なんだよ」
「お主はなんじゃ?」
 ストレートで端的に、緋泉市の土地神様は猜疑の言葉を小っぽけな人間に投げかけた。
 ――僕はなんなのか?
 自問する。土地神である加耶奈様にとっては人間と神が当たり前のように共に在ることが不思議なんだろうね。そんなケースは滅多にないんだと思う。
 ――僕はなんなのか?
 もう一度自問する。質問が大雑把過ぎてなんて答えたらいいのかすぐには思いつかない。「人間様だ」と答えることもできるけど、それは間違いなく不正解だ。
 ――僕は『小和の』なんなのか?
 加耶奈様はきっとこう訊きたいのだろう。そして、これだったらはっきりと答えられる。僕らの関係は最初に会った時に教えられているんだ。
 そう――

「僕は、小和の許婚だ!」

「――っ」
 言い放つと、加耶奈様ではなくなぜか小和が息を詰まらせたような顔をし――ボン! 湯気が立つほど一瞬で顔を紅潮させた。あ、あれ? もしかしてこれ、他の土地神に言っちゃまずかったとか?
 内心であたふたする僕を加耶奈様は眉一つ動かさず見詰め続け、やがて声に出して笑った。
「カカッ、許嫁とな? これはまた愉快なことじゃな、白季の。いやわしは否定せんよ。元々人間じゃったお主が人の子に懸想したところでなんの不思議もないからのぅ。この人の子はあやつにそっくりじゃし」
 ……はい?
 今、妙な言葉が聞こえたような?
「わたしが、人間だった?」
 小和もなにを言われたのかわからない、という顔をしている。
「うん? わしの顔どころか自分の過去も忘れたか? どうしたと言うんじゃ。以前はもっと聡明で物覚えのよい…………っ!」
 唐突に加耶奈様はハッとし、言葉を止めた。そしてみるみる目を大きく見開くと、小和の体をまじまじと観察する。
「なぜ大して得などない幼女の姿で顕現しておるのか甚だ疑問であったが……まさかお主、〈輪帰〉しおったのか?」
「りんき?」
 聞き慣れない神様用語を鸚鵡返しすると、加耶奈様は驚愕の表情のままあっさりと説明する。
「消滅の危機に瀕した神が、最小限の神気で存在できる形に初期化することじゃ。消滅を一時的に免れる代償として記憶・知識・経験・力の大半を失う。普通はせぬぞ、そのような馬鹿な真似」
 この驚きようからして、この赤い神様は僕のことなんて眼中から外れてるね。今の説明はただ反射的に答えてしまったのだろう。
 でもその〈輪帰〉というのが真実だとすると、一つ疑問が出てくる。
「ちょっと待ってよ、小和は前の白季小和媛命の子供じゃないの?」
 十年前に僕を救ってくれた白季小和媛命は今の小和の母。そう小和自身の口から聞いた。
「む? しもうた。この場には人の子もおったな」
 バツが悪そうに眼を泳がせる神に、僕は少しムッとしたぞ。
「人間に聞かれちゃマズイ話ってこと?」
「そういうわけではないが、わざわざ好んで人の子に語ることでもあるまい」
 さらにムッとした。いや、ムカっときた。虫唾が全力疾走だ。
「さっきも言ったけど、僕は小和の許婚だ。それに僕の中には前の白季小和媛命がくれた神気だって宿っている。ただの人間じゃないよ」
 苛立ちのまま叫んだりはせず、僕は逆に声のトーンを落として加耶奈様を睨んだ。だがそこは力ある神様、人間に睨まれたくらいじゃまったく怯んだりはしない。
 それでも、僕は目を逸らさない。
「教えて欲しいんだ、加耶奈様。あなたの知っている小和のことを」
「わたしも知りたい。わたしの母――いや、前の白季小和媛命について。頼む、教えてくれ」
 小和も手を胸の前で祈るように組み、青い瞳を不安げに揺らして懇願した。こんな弱々しい小和は初めて……ってわけじゃないけど、他者に対して下手に出るところは初めて見る。
 守ってあげたい。自然と、そう思ってしまった。
「うーむ。そこまで真剣に頼まれては、神として応えぬわけにはいかんな」
 加耶奈様は深く長く溜息を吐く。
「仕方ないのぅ、本当は追い返すつもりじゃったが、少しだけ我が神界に招待しようぞ」
 その言葉を聞き終えた直後――
 ――僕の視界は、意識を失ったわけでもないのにホワイトアウトした。

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