今宵、真紅の口づけを
5
裸足の足が痛かった。
でもとにかくエルネスティから離れなくてはいけないと、それだけ考えて少女は走った。土地勘のない町の中をどこをどう走ったのかなんて記憶になく、気づけば一件の家の前にいた。明かりのない小さな家。二階建てのそこをエレオノーラは見上げて視線を下げると、一階部分の一つの窓が開いているが見えた。
ああ、せっかく治まっていたのに……。
少女の中の認めたくない自分が顔を出す。さっき混乱してしまって影を潜めたそれがまた、笑いながら現れた。エルネスティの身体から溢れるように立ち上った甘い香りが、引き出してしまった。
闇夜に輝く真紅の瞳が、エレオノーラの意思に反して穏かにも見えるくらいの笑みの形に変わる。身体の渇きを感じて、そしてそれを満たしてくれるだろうモノを思って、無意識にふっくらとした唇を嘗めていた。
ゆらりと、エレオノーラは足を踏み出した。まるで何かに操られているように少女は窓に近づき、そのまま軽々と忍び込む。月明かりに照らし出されているのは、細い廊下だった。少し奥まったところに見えるドアが二つ。気配を感じる。一つはリビングかなにかの部屋だろうか。もうひとつのほうに、たまらなく少女を魅了する気配がある。
欲しい。
欲しくない。欲しがったりなんかしない。
相反する気持ちがない交ぜになって、エレオノーラはすぐには動けなかった。足が相変わらず震えている。泣きたいのか笑いたいのか分からないような表情で、ただ見えるドアを見つめていた。
一体どれくらいそうしていたのか、せめぎあうようにして揺れていた二つの人格とも言うべきエレオノーラの、一人のほうが行動に出た。
一歩踏み出してしまえば簡単だった。そのドアに近づくのは。
勝った方、と言えばおかしいのかもしれないが、求めるものに抗う方法はなかった。ただやはりエレオノーラにしか分からない香りは魅力的で、総毛立つ快楽にも似た感覚にはどうにもならなかった。
引き寄せられるように質素な木のドアに手をかけて、静かに開けた。僅かな音と共に明けられたドアの中も、やはり質素な造りの小さな部屋だった。家具らしいもののない中にベッドが一つ。そこからドアを開けた途端に感じた濃厚な香りがする。
思わず、少女は喉を鳴らしていた。
なんていい香りなんだろう。
そう思わずに入られなかった。細胞の隅々にまでその香りが行き渡り、それだけで意識は深い陶酔の中に導かれる。こんなに満ち足りた気持ちはない。涙が出そうなくらいに芳醇で甘い香りの元へと、エレオノーラは歩いていった。
目の前にいるのは、綺麗な顔立ちの人間。気持ちよさそうに眠っている姿を見て、少女はふんわりと微笑んだ。あどけなくらいの純粋な笑顔の中に、似つかわしくない真紅の瞳が輝いている。微笑んだ口元からのぞく牙だけが、やたらと艶めかしくて美しい。
ふわりとした手つきで、エレオノーラは人間の頬に触れてみる。柔らかくて繊細な手触りのその肌に、小さな溜息を漏らした。
なんて気持ちが良いんだろう。
そんなことを当たり前のように思ってしまうことが、もうおかしかった。普段の少女なら絶対に思わないことを思って、そしてそれに疑問を抱かないことがもう、エレオノーラであってエレオノーラではない。
頭の片隅で、誰かが叫んでいる。ような気がした。
しかしその後の記憶は、少女の中には数えるほどしか残らなかった。
甘い血の味。
温かさ。
気持ちよさ。
心の満たされる恍惚。
快楽。
生まれて初めて感じるものばかりが、記憶に残るだけだった。
でもとにかくエルネスティから離れなくてはいけないと、それだけ考えて少女は走った。土地勘のない町の中をどこをどう走ったのかなんて記憶になく、気づけば一件の家の前にいた。明かりのない小さな家。二階建てのそこをエレオノーラは見上げて視線を下げると、一階部分の一つの窓が開いているが見えた。
ああ、せっかく治まっていたのに……。
少女の中の認めたくない自分が顔を出す。さっき混乱してしまって影を潜めたそれがまた、笑いながら現れた。エルネスティの身体から溢れるように立ち上った甘い香りが、引き出してしまった。
闇夜に輝く真紅の瞳が、エレオノーラの意思に反して穏かにも見えるくらいの笑みの形に変わる。身体の渇きを感じて、そしてそれを満たしてくれるだろうモノを思って、無意識にふっくらとした唇を嘗めていた。
ゆらりと、エレオノーラは足を踏み出した。まるで何かに操られているように少女は窓に近づき、そのまま軽々と忍び込む。月明かりに照らし出されているのは、細い廊下だった。少し奥まったところに見えるドアが二つ。気配を感じる。一つはリビングかなにかの部屋だろうか。もうひとつのほうに、たまらなく少女を魅了する気配がある。
欲しい。
欲しくない。欲しがったりなんかしない。
相反する気持ちがない交ぜになって、エレオノーラはすぐには動けなかった。足が相変わらず震えている。泣きたいのか笑いたいのか分からないような表情で、ただ見えるドアを見つめていた。
一体どれくらいそうしていたのか、せめぎあうようにして揺れていた二つの人格とも言うべきエレオノーラの、一人のほうが行動に出た。
一歩踏み出してしまえば簡単だった。そのドアに近づくのは。
勝った方、と言えばおかしいのかもしれないが、求めるものに抗う方法はなかった。ただやはりエレオノーラにしか分からない香りは魅力的で、総毛立つ快楽にも似た感覚にはどうにもならなかった。
引き寄せられるように質素な木のドアに手をかけて、静かに開けた。僅かな音と共に明けられたドアの中も、やはり質素な造りの小さな部屋だった。家具らしいもののない中にベッドが一つ。そこからドアを開けた途端に感じた濃厚な香りがする。
思わず、少女は喉を鳴らしていた。
なんていい香りなんだろう。
そう思わずに入られなかった。細胞の隅々にまでその香りが行き渡り、それだけで意識は深い陶酔の中に導かれる。こんなに満ち足りた気持ちはない。涙が出そうなくらいに芳醇で甘い香りの元へと、エレオノーラは歩いていった。
目の前にいるのは、綺麗な顔立ちの人間。気持ちよさそうに眠っている姿を見て、少女はふんわりと微笑んだ。あどけなくらいの純粋な笑顔の中に、似つかわしくない真紅の瞳が輝いている。微笑んだ口元からのぞく牙だけが、やたらと艶めかしくて美しい。
ふわりとした手つきで、エレオノーラは人間の頬に触れてみる。柔らかくて繊細な手触りのその肌に、小さな溜息を漏らした。
なんて気持ちが良いんだろう。
そんなことを当たり前のように思ってしまうことが、もうおかしかった。普段の少女なら絶対に思わないことを思って、そしてそれに疑問を抱かないことがもう、エレオノーラであってエレオノーラではない。
頭の片隅で、誰かが叫んでいる。ような気がした。
しかしその後の記憶は、少女の中には数えるほどしか残らなかった。
甘い血の味。
温かさ。
気持ちよさ。
心の満たされる恍惚。
快楽。
生まれて初めて感じるものばかりが、記憶に残るだけだった。
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