今宵、真紅の口づけを

1

 エルネスティとエレオノーラの関係は、赤い瞳になったくらいでは揺らぎはしなかった。大切な温かさを持ってそれは育まれ、最愛であることは互いが言葉にはしないが感じあっている。純粋な心の触れ合いに、少女と少年は幸せで、一月と少しほど穏やかな時間を共有した。
 季節は秋も深まり一気に冬の様相を呈し始めている。森の木々も寂しげな様子になり、川遊びをするにはあまりにも寒くて冷たい風が吹く。しかし川のあるその場所は、エレオノーラには聖地。大好きな少年との唯一の逢瀬の場所だった。
 鮮やかな紅葉色のコートを着たエレオノーラが、金色の輝く長い、まっすぐな髪の毛を風に躍らせて待っていると、やがて感じる気配がある。栗色の髪の毛の、少女の何よりも大切な存在。そしてもう一人。
「今日はアーツも一緒なんだ」
 シャンパン色の髪の毛と翡翠のような綺麗な瞳の青年を思い浮かべて、エレオノーラはくすりと笑った。ヴェルナも後からやってくると言うし、アーツの喜ぶ顔が思わず想像出来たからだ。
 次第に近づいてくる二人の気配に、少女は逸る鼓動を抑えるだけで必死だった。何度会っても、それは変わらない。苦しくなるくらいに感情を甘くかき乱される。ドキドキするこの気持ちを与えてくれるエルネスティの事を思っては、少女はまた切なくて愛しい溜息を零した。
「あ、いたいた」
 不意に木の間から顔を覗かせたアーツが、エレオノーラを視界に入れるなり声を出した。その穏やかな笑顔は、エレオノーラの真紅の瞳を初めて見たときにも見せてくれたものだった。
『綺麗だよ』
 たった一言、明るい笑顔でそう言ったアーツに、エレオノーラは涙を浮かべて微笑んだ。人間からすれば異質極まりないこの赤い瞳を、エルネスティだけではなくて、アーツも認めてくれた。それは真紅のこれを誰よりも受け入れられなかった少女にどれほどの勇気と平穏を与えてくれたか。きっとエルネスティもアーツも気付いていないだろう。
「こんにちは」
 エレオノーラはいつものように挨拶をする。アーツの後ろから姿を現したエルネスティを見て、心のそこから湧き上がる愛しさに任せて、儚くて優しい微笑みを浮かべた。
 そんな少女のあまりにも愛らしい笑顔に、エルネスティは思わず可愛いと思ってしまって、黙って頷くだけだった。視線を伏せたその顔がうっすらと朱をはいている。
「なんか、俺…邪魔?」
 アーツがからかうように言うと、少年も少女も顔を真っ赤にして慌てて否定する。それがおかしくて青年は肩を揺らして笑い声を上げた。
 本当に穏やかな時間を、ここ最近は過ごしている。エレオノーラの体調も良く、家族とも上手く行っている。婚約の話はエーヴァがフェリクスを気に入っていることもあり、エレオノーラに話が戻ってくることもなかった。瞳の色は変わってしまったけれど、その他には何の変化もない少女は、こうして二日に一度ほど大好きな少年と会うことが出来ている今を何よりも大切にしたかった。
「もうすぐヴェルナも来るよ」 
 からかわれて熱くなった頬を隠すように、白い両手で覆ったエレオノーラがそう言うと、アーツは顔を綻ばせて頷いた。相変わらず、この青年はヴェルナの事が好きでたまらないようだ。ヴェルナも、親愛の感情がしっかり持っているようで、兄のような感覚でアーツに接している。何かを求めているわけではないと、アーツもまた、ヴェルナに会える時はその時間を大切に思い過ごしているようだ。
 三人でなんでもない会話をしていると、エレオノーラがヴェルナの気配を感じた。近づいてくるそれに、人間の少年達は勿論気付いていない。
「もうすぐ来るかな」
 一人感じる気配にエレオノーラは笑ってアーツに告げた。
 しばらく時間を置いて、ふらりとヴェルナは姿を現した。少しは離れたところに見えるその黒髪に濃い紅の瞳の少女は、ふわりふわりと歩いてくる。
「……ヴェルナ?」
 エレオノーラが思わず目を眇めて幼馴染の様子を探るように見つめた。真っ黒な質の良い、丈の長いコートに身を包み、少女は近づいてくる。肩で切りそろえられた豊かな黒髪が冷たい風にふわりと舞い踊った。
 何かがおかしい。
 そう、本能のようなものでエレオノーラは感じて総毛立ってしまった自身の身体を抱きしめた。足が震えてくる。そしてそれは、知っているヴェルナの姿だと気付く。
 血を求めているときの、美しく妖しい幼馴染。かつて見た、そのおぞましさすら感じる麗しいヴェルナが、そこにいた。
 濃い紅の瞳が一層に妖しい光と闇を湛えて、目の前にいるエレオノーラと、そして人間に向けられる。その形の良い唇が優雅に弧を描くと真珠のような白磁のような、やたらに白い牙が見えた。
「だめ……ヴェルナ……ダメだよ?」
 震える声は消え入りそうなほどに弱々しく、すぐ近くにいたエルネスティでさえ全てを聞く事はできなかった。
「なんか、様子がおかしくないか?」
 エルネスティもアーツもまた、妖艶な雰囲気を醸し出す少女の姿に異変を感じる。ぎこちない空気にその場が凍る。後数歩の距離まで近づいてきたヴェルナが、一層輝く濃い紅の瞳を笑みの形に変えて言葉を零した。
「ちょうだい……」 
 その一言に、エレオノーラが飛び出すのと、ヴェルナがアーツを見て飛び掛るのとはほぼ同時だった。
「だめッ!ヴェルナ!」
 ヴェルナのコート越しに腰の辺りにエレオノーラが腕を絡める。しかしヴェルナの力は普段よりもずっと強く、簡単に金色の髪を掴んで引き倒した。
「エレオノーラッ」 
 地面に押し倒されるように蹲ったエレオノーラにエルネスティが駆け寄り、その身体を抱き起こす。驚いて見上げた真紅と栗色の瞳に映ったのは、背の高いアーツの首に食らいつく小柄なヴェルナの姿だった。
 まるで抱きしめるように、アーツの頭をかき抱き、その無防備に晒された男らしい首筋にヴェルナは顔を寄せている。ヴェルナは後姿になっているので、二人には顔は見えない。しかしどんなに考えても、ヴェルナはアーツから奪っている、その均整の取れた身体に流れ廻る血を。
「やめて…やめて…ヴェルナ?お願いだからッ!!」
 何度も同じ事を繰り返すエレオノーラの体がガタガタと震え、立ち上がることも出来ない。たまらずエルネスティがその涙を零して揺らぐ真紅の瞳を大きな掌で覆った。
「見るな…」
 苦しげな声で言ったエルネスティは、怒りで狂いだしそうなほどにヴェルナを睨みつけた。
 なぜだ。
 そう思う少年の目の前で、アーツが動いた。震える長い腕で、ヴェルナを抱きしめた。優しく愛しく、壊れ物にでも触れるように。
「アー…ツ?」
 栗色の瞳が信じられないものを見るように、大きく見開かれて幼馴染の青年を見つめた。
 その前で、アーツは微笑んだ。とても幸せそうに。
 うっとりとした深い陶酔に酔いしれるその微笑は、長い付き合いのエルネスティでさえ見たことのない純粋な笑顔だった。翡翠の瞳に、湛えきれないほどにヴェルナのへの愛情を見せて、アーツは笑っている。
「これで、いい…」
 それがエレオノーラとエルネスティの聞いた、アーツの最期の言葉だった。

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