今宵、真紅の口づけを

2

 赤がある。
 そう言ったエルネスティはとても苦しげな顔をしている。泣き出しそうな、怒りたそうな、怯えたような。そんな顔でエレオノーラを見て、ふと視線を外した。
 それに、エレオノーラはショックを受ける。視線を外されただけなのだが、まるでこの世の全ての災いが自分に降り注いだかのような感覚を持った。言葉も出なくなった少女の様子に、エルネスティは繋いでいた手をしっかりと握りなおした。
「大丈夫だ…まだ、ほんの少しだけだから」
 搾り出すようなその声は何かを我慢しているような風にも取れた。エルネスティの指先が存在を確認するように、エレオノーラの細い爪をたどる。
「赤くなっちゃうね…」
 ポツリと、エレオノーラは呟いた。涙が出そうになって、俯いたその顔が悲しみに歪み始めた。
 もう会えなくなる。
 そう思うと、身の切り裂かれる思いだ。こんなに好きなのに、きっと違う意味でエルネスティを見てしまうだろう、ごく近い将来に、エレオノーラは叫びたいほどに苦しくなった。
 肩を震わせて泣くのを我慢している少女を、エルネスティは弾かれたように抱きしめた。力いっぱい、エレオノーラの呼吸が苦しくなるくらいに抱きしめて、その細い肩口に顔を埋めて言う。
「まだ、大丈夫だって言ってんだろ。まだじゃない。これからも大丈夫だ。こんな事で、終わったりしない」
 エルネスティの声も泣きそうに揺れている。いつも見た目に似合わない低い声が、一層低くなり少し掠れて聞こえる。体を通して聞こえたその声に、エレオノーラも腕を回して少年を抱きしめた。
「でも、私はエルネスティの事を殺しちゃう…」
 自分で言って、戦慄の走る言葉だと思う。誰も殺したくない。命を奪うなんてありえない。
「簡単に殺されたりするわけないだろ」
「どうやって…?」
「それは…後から考える。だから心配するな。俺はお前なら嫌じゃない。お前が良い」
 エレオノーラの長くて艶やかな金色の髪の毛を何度も撫でて、エルネスティは同じ事を繰り返した。自分にも言い聞かせるように。だがその手はエレオノーラにも分かるほどに震えている。
 自分の家族を奪った赤い瞳が少女にも与えられようとしている。それがこんなにも怖いことだとは、正直こうなるまで分からなかった。動揺して、もしかしたら憎むかもしれないとは思っていたが、実際に感じたのは恐怖だった。
 この純粋な少女が変わってしまうことの方が、エルネスティには耐え難い苦痛だ。愛らしい、美しい水の瞳が、この先赤くおぞましいものに変わっていくのを、自分は見ることが出来るのか。その前に、この少女から離れる事ができるのか。会わないと言う選択が出来るのか。
 応えは分かっている。無理だ。どれだけ考えてもきっとこれは変わらない。エレオノーラのことを想う感情が、もう細胞にまで刻み込まれている自分を、不思議な感覚で捉えて、そしてそれが幸福感をもたらしてくれる。
 エルネスティの震える手と体に、エレオノーラは愛しくて悲しくて苦しくて、どうにかなりそうなくらいに涙が溢れるのを止められなかった。
 柔らかな日差しを浴びる少女の青い瞳は、僅かに、赤が混ざっている。一見するとまだまだ水のように澄んだ青さのある美しい瞳だが、光の加減によっては、鮮やかな赤の光を持って輝いた。家を出るときに、鏡は見てきた。自分では分からなかったその赤に、エルネスティは気付いた。いつからそれがあったのか、少女には分からない。
 このからだの不調も、赤い目になって来たせいなの?
 温かな最愛の人の体温に包まれて、エレオノーラはふと考える。エーヴァは違ったがカトリネは体の不調を訴えた。ヴェルナも、最初は違ったけれど、しばらく体調を崩した。それを考えると、自分のこの不調も頷けないわけではない。
 これは変化の前兆。
 確信と共に、それは深くて濃い澱になってエレオノーラの中に澱みをもたらす。自分ではどうしようもないこの状況に、エレオノーラは不思議と笑いがこみ上げてきた。
 だから、何?
 青い瞳の中に僅かな赤を纏った瞳が純粋に微笑む。誰が何をしようと、どんな事が起ころうと、エルネスティの事を好きなのは変わらないではないか。もう嫌いになどなれないし、まして忘れるなんてことは、たとえ神であっても許さない。
 この人を守ろう。私にできる事をして、この人だけは守ろう。
 そう心に決めた。
 何が出来るのか分からなくても、守りたいと思う気持ちは本物だった。栗色の髪と瞳の、優しい心も持ったこの少年の事ならば、守れる。自分の事はどうでも良い。最愛の存在を守れるなら、これほど幸せな事もない。
 そう思うと、ますます幸せで、笑顔は花を咲かせる。あどけなくて無垢な笑顔を浮かべたエレオノーラは、そっと、その栗色の髪の毛の中に細い指を滑り込ませた。無造作に結ってあるエルネスティの髪の毛がはらりと零れた。柔らかくて、太陽の匂いのするその髪の毛を、大切なもののように感じて、また涙がこみ上げる。
「エルネスティ」
 目を閉じて、エレオノーラは少年の名前を呼ぶ。それだけで胸が高鳴る。互いに顔は見ないまま、しっかりと体を寄せ合いながら、エルネスティは小さく返事をした。
「なに」
「私のことは大丈夫だよ」
「…え?」
「私は、あなたを守る。私から、あなたを守る」
 しっかりとした声に、エルネスティは何を言い出したのか分からなかった。そんな少年の目の前で、エレオノーラはまた微笑んだ。鮮やかな青と、僅かな赤を持った瞳を細めて、純粋な愛情を湛えたまま。
 自分に、この忌まわしい体に、逆らってやる。
 少女は心の中で、大きな黒い影に挑むように、何度も呟いた。

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