今宵、真紅の口づけを

1

 朝から何となく調子が悪かった。
 体が重くて、ベッドから出るのにも辛いと感じたエレオノーラだったが、色々あったからだと思って家の中でおとなしく過ごしていた。
 昼になり、あまり食欲はなかったが軽く食事を済ませて、森に向かった。逸る心臓をなだめながら歩く道は楽しくて幸せで、自然と足取りも軽い。次第に秋になっていく季節を感じて、少女はその愛らしい顔に笑顔を浮かべた。
 エルネスティと出会って数ヶ月。季節も変わるくらいの時間が過ぎたことに不思議な気持ちがある。最初はこんな風になるなんて思いもしなかった。人間を好きになることがありえないと思っていた。
 でも人柄を知り、あの笑顔を知って、エレオノーラの人生が変わった。自分を取り巻く環境も変わりつつあった年代の少女には、とんでもなくすごいことのように感じる。
 涼しさを増した風に、輝く金色の髪の毛を躍らせてエレオノーラは待ち合わせの場所に着く。雲の切れ間のように視界の開けた先には、既に栗色の瞳と髪の毛の少年がいた。
 それだけで涙のこみ上げる想いがあっという間にエレオノーラの中に湧き上がってくる。
 私はこの人が本当に好きなんだ。
 そう思ってしまって、胸がいっぱいになる。その想いがあふれ出し、青い瞳はどこまでも深い愛情を湛えてエルネスティを見つめた。
 その瞳に、エルネスティも応えてくれる。ふんわりと、あの優しい笑顔でエレオノーラを見て、手を差し出す。大きな手が、早くここに来てと少女を呼ぶ。総身の震え上がる思いで、エレオノーラはエルネスティの傍に近づいた。
「こんにちは」
 にっこりとあどけない笑顔で言ったエレオノーラに、エルネスティは一瞬表情を変えた。
「何かあったのか?」
 前にも同じことを言われたと、少女は思い出し思わず小さく笑った。思えばあの時から、エルネスティはエレオノーラの心を敏感に感じ取ってくれていたように思う。そんな些細な事でさえ嬉しくて、もっと溢れてくる想いのままにエレオノーラは微笑んだ。
「なんで笑ってんだよ」
 怪訝な顔で見るエルネスティに、エレオノーラはますます笑った。こんな穏やかな時間を持てるようになった自分を幸せに思いながら。
 エルネスティも呆れがちながらも、その少女の笑顔につられるように微笑んだ。決して大笑いしない少年の、滲むような優しさの色が見える笑顔で。
 二人で、木の陰に腰を下ろした。どちらからともなく、肩の触れ合う距離で、どちらからともなく、そっと手を繋いだ。触れた途端、互いの体温が溶け合うように馴染む。心地良くて、幸せだ。
「本当に何もないのか?」
 ふいに、エルネスティは確認するように尋ねてきた。
「え?別に何もないよ?」
 婚約の事はエルネスティは知らない。それなら話す必要もないと思って、エレオノーラは微笑んだ。しかしエルネスティはまだなにか言いたげな視線で少女を見る。そっと指を絡めながら、眉間に少しだけ皺を刻んだ顔で言う。
「その割りには、顔色が良くない。体調が悪いのか」
「それは…少しあるかもしれない」
 朝からの体の微妙な不調は続いている。でもたいした事もなく、実際には倦怠感が少しあるくらいだ。
「そんなに顔色悪い?」
 鏡を見たときはそんな風に思わなかったエレオノーラは、自分の頬に手を添えて聞き返した。
「少しだけ。何となくだけどな。良いのか?ここに来て」
「うん、会いたかったから」
 素直な少女の言葉に、エルネスティは一瞬頬を赤らめて視線を外した。髪の毛をかき上げて、溜息をつき完全に視線はどこかに向かってしまっている。
「エルネスティ?」
 きょとんとしたエレオノーラはその顔を覗き込むように首をかしげた。さらりと金色の髪の毛が肩を滑り流れた。
「あんまりそんなこと言うなよ。恥ずかしい」
「恥ずかしいって…そんなこと言われたら私が恥ずかしくなっちゃうよ」
 思わずエレオノーラも頬が熱くなるのを感じる。俯き加減になった少女に、今度はエルネスティが首をかしげて視線を流してきた。
「なんでお前が恥ずかしいんだよ…」
 その栗色の瞳が青い瞳を見て、思わずといったように眉を顰めた。上目遣いに自分を見る少女の瞳を凝視して、言葉を詰まらせるように唇を僅かに震わせた。
「…なぁに?」
 驚愕したような戸惑ったような、なんともいえない表情のエルネスティに、エレオノーラは訳が分からずに首をかしげる。
「エルネスティ?」
 もう一度、エレオノーラは最愛の少年に呼びかける。我に返ったかのように視線を揺らめかせたエルネスティは、何度か瞬きをしてエレオノーラを見た。まだ信じられないと言ったような顔をしている。
「どうかした?」
「いや…お前の…」
「私の?」
「そう。お前の目…」
 そこまで言って、少年は言葉を詰まらせた。言いたくない言葉が心の中に嵐のように暴れまわる。息が苦しくなるくらいに心臓が鼓動を刻んでいく。思わず指先が震えそうになって、そこに力を込める。エレオノーラと繋がっている方の手でさえ、加減を知らないかのように力が入った。
「エルネスティ、痛いよ」
「あ、悪い」
 エレオノーラが眉を顰めて言うと、慌てて力を抜いたが今度は震えてしまって、やはりエレオノーラは意味が分からないと言ったように眉を顰めた。
「ねぇ、何?」
 少女の確認する問いかけに、エルネスティはもう一度エレオノーラの瞳を見つめた。青い澄んだ水のような瞳を見て、大きな息を吐く。それから、静かな声で言った。
「……お前の瞳の中に、赤がある」

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