今宵、真紅の口づけを

4

 大きな、広い腕の中で、エレオノーラは泣きじゃくった。叫ぶ、と言う感覚に近いその少女の声を、エルネスティは包み込むように大きな心で受け取った。そして自分の身も裂かれるように痛みを感じる。
 笑っていて欲しい。この子には、どこまでも笑っていて欲しい。
 そう思って、少年はただ黙って、少女の涙が止まるのを待った。


 朝の訪れを知らせる光が、ほんの少しだけ見え始めた時間。エレオノーラはようやく涙を治めて、エルネスティの腕の中でまどろむように瞼を伏せた。大きなソファーで二人で寄り添い、薄手の毛布に包まる姿は、まるで迷子になって母親を捜し求めているように心許ない。
 エルネスティの肩に頭を凭れかけ、金色の髪の毛がさらりと流れる。長い睫毛を伏せたその疲れ切った少女の顔は、いつもの明るい笑顔など勿論なく、涙の後がいくつも残っている。栗色の少年はそれをじっと見下ろして、何も言わずに、長い指でその後を拭う。
「エルネスティ?」
 瞼を落としたまま、エレオノーラは問いかける。寝ていたと思っていたエルネスティは僅かに驚いて、涙を拭っていた指をピクリと跳ねさせた。
「起きてたのか」
「うん。指…」
「指?」
「あったかい。ありがとう…」
「…ん」
 言葉少なに会話をする。二人でいればどんな事も幸せで、温かくて、穏やかだった。荒んで千切れそうな心も、少しその綻びを繋ぎ合わせられるような気になる。
「ここには、クリフはいないの?」
 ふと、エレオノーラは少年の犬のことを思い出した。
「あいつは少し離れた馬小屋にいる。…それがどうしたんだ?」
「んー?あのね、クリフに認めてもらえたら、良いなって思ったの」
「認める?…何を」
 エルネスティは言われた事が分からず、エレオノーラの長い睫毛を見つめた。その視線に気付いたエレオノーラが、不意に睫毛を持ち上げて、栗色の視線と絡み合う。至近距離のその交錯に、互いに言葉をなくして、ただ見つめあった。深い愛情の湛えられた青と栗色に、やがてどちらからともなく微笑んだ。優しく純粋に。
「私が魔族だから、クリフは私を嫌いでしょう?だから、いつか、できれば…クリフに好きになってもらいたいなって」
 あどけない笑顔で言ったエレオノーラに、エルネスティは小さく笑った。
「そうだな」
 それから、大きな手で少女の頭を手繰り寄せ、何度か撫でる。
「少し眠れ。起きたら送ってやるから」
 その言葉に、エレオノーラは身体を強張らせる。小刻みに震えだしたその身体に、エルネスティは肩を抱き、穏やかに言葉を続けた。
「大丈夫だから。俺がいる」
 その一言が、少女の中で何かに触れるように響いた。ゆっくりと。泉が湧き上がるように温かな感情が溢れてくる。髪の毛の先から足の爪先まで、行き渡り馴染んでいく温かさに、エレオノーラは一粒だけ、その澄んだ水のような青い瞳から涙を零した。
 もうこのまま、何も考えたくない。何も見たくない。このままこの人といたい。
 出来るはずもない事を思って、エレオノーラは唇を噛み締めた。こうしている間にも、きっと周りは変化している。自分だけが置いていかれた気分になって、そして周りに対してついていけなくて、混乱ばかりして、見えなくなった。
 自分の生まれた種族のことをこんな風に思うとは、少し前まで考えた事もなかった。ただ赤い瞳になって、当たり前のように大人になるんだと思っていた。今も、大人に対する憧れはない事もない。でも、以前より確実に薄れてきている事に、エレオノーラは自覚し、大人を嫌悪し始めてさえいる自分に気付く。
 大切な幼馴染に感じた恐怖は、少女を大きく変えてしまった。
 成長したくない。そんなこと望んでない。私はこの青い瞳のままでいたい。
 そして。
 目の前に人と一緒にいたい。
 温かな腕の中で、好きな人の体温と、感触を感じながら、エレオノーラは思う。自分よりも背の高い、自分よりもしっかりとした体。栗色の瞳に、無造作に結った同じ色の髪の毛。普段は無愛想なのに、笑うととても優しげで、口数は多くない。でも嘘はつかない。
 そんな全てが、自分の中に大きく芽吹いた花になって、深く根を張った。
 そんなあなたが、好きで堪らない。
 幸せと悲しみの紙一重のこの想いを教えてくれたエルネスティだけが、今の支えになっている。それに、神に感謝したいくらいに、少女は少年を最愛だと感じていた。
 少年もまた、思う。こんなに少女を泣かせる現実と種族に対して、更なる嫌悪感を抱かずにはいられない。この子だけはどんなに考えても、やはり嫌ではない自分がいて、たとえ赤い瞳になっても、大きく動揺はするだろうが、きっと嫌う事はない。
 ただ大切だった。少女が大切で仕方がなかった。
 細いその肩を抱き寄せて、自分の腕の中から出られなくしてやりたい。涙を流す現実から隠して、ただ温かくて優しいものだけを見せてやりたい。真綿で包んで、痛みも悲しみも、怒りも憎悪もない、真っ白な世界で笑っていられるようにしてやりたい。
 そんなこと出来る訳がないのに、真剣に考えてしまうくらいに、エレオノーラに溺れている。
 でも、それが心地良い。
 ずっと、憎悪が心を支配してきた少年は、久し振りにこんな穏やかな感情を持つ事ができた。少女に対する感情を手放しで喜べる状況でない事はよく分かっている。でもやはり、大切な相手を想うのは幸せな事だ。母親と姉を失ってから、笑う事も少なくなった少年の笑顔を引き出したのは、間違いなく目の前にいる魔族の少女。皮肉だけれど、今は魔族でも何でも、エレオノーラに出会えた事は奇跡で、そして神様からのプレゼントのように思える。だから、家族を失ってから神なんて信じていなかったけれど、感謝したい。
 この子に出会わせてくれてありがとうと。
 静かな寝息を立て始めた少女の重みをその肩に感じながら、エルネスティもまた、睡魔に誘われて重くなった瞼を閉じた。
 あと少しで離れなければいけない、現実から逃げるように。互いの指を絡めて、二人で夢の中に。

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