今宵、真紅の口づけを

2

 額に汗が滲むのも、息が上がってしまうのもかまわず、エレオノーラはヴェルナと一緒に、最後は走っていた。こんな時にロングスカートなんかはいて来るんじゃなかったと後悔しながら、空いてる方の手でスカートをたくし上げて走った。
 緑が突然、雲の切れ間のように途切れる場所がある。そこが少年達との唯一の共通の場所。聖地のように思える大切な場所に、少女はたどり着いた。
 明るい日差しの中に、煌く川と花と、緑。あまりの眩しさに思わず目を眇める。その青い瞳に映るのは、二人の少年だった。明るいシャンパン色の髪の毛と翡翠色の瞳。それから、大切な、大切な栗色の髪の毛と瞳。
「……いた…」
 苦しくなるほど走ったエレオノーラは息も絶え絶えと言った感じでそれだけ呟いて、そのまま地面に座り込んだ。ヴェルナもやはり相当走ったので、体を折り曲げるように呼吸を整えている。
 それに驚いてぽかんとしているのは少年達だった。何事かと言わんばかりに少女二人を見つめいている。しかしそのうちに、アーツの優しい声がエレオノーラたちの鼓膜に届いた。
「やっと会えた」
 嬉しそうなその声に、青い瞳も赤い瞳も虚を突かれたような色を見せた。そんな中でアーツはエレオノーラを見て微笑み、すぐ傍までやって来て、片膝をつき目線を合わせて来る。
「心配してたんだ。元気かなって。会えてよかったよ」
 優しい、今までと同じ笑顔でアーツはエレオノーラを見る、それにホッとした顔でエレオノーラも笑った。
「ありがとう…私は大丈夫だよ」
「そっか」
 アーツは微笑んだまま、今度はヴェルナに視線を移した。立ったまま困惑してるのか、ヴェルナは少し緊張した顔でアーツを見た。
 それにアーツは、エレオノーラに見せた以上に穏やかで優しくて、愛しそうに笑った。
「ヴェルナも、久し振り。元気になった?」
 声に、体に、全てにアーツの感情が溢れる。見ているエレオノーラが泣いてしまいそうなほどの温かいアーツに、ヴェルナも自然と赤い瞳を細めて愛らしい笑みを見せた。
「うん。久し振りだね。心配してくれてありがとう」
 少し潤んだ濃紅こいくれないの瞳がとても綺麗だと、エレオノーラは見入ってしまった。アーツが立ち上がり、やや恥ずかしげにヴェルナを見て、それから後ろにいるエルネスティを振り返った。
「お前も、話したいことあるんだろう?」
 にこやかな顔でそう言ったアーツに、エルネスティは黙ったまま三人のいる所まで歩いてくる。まだ座り込んだままその様子を見ていたエレオノーラは、近づいてくる少年に鼓動が逸るのを止められなかった。
 無言のままに少年は、エレオノーラのすぐ前に立って、じっとその栗色の瞳で青い瞳を見つめる。アーツはキョトンとした顔で、ヴェルナはまた緊張した様子でそれを見た。
 縫い付けられたように、エレオノーラはその栗色の瞳から視線を逸らせずに、ただ見つめた。少しの間そうしていたエレオノーラだが、やがて素っ頓狂な声を上げる事になる。
「…え?ッ、きゃあっ」
 グイッと、力いっぱいに細くて白い腕を引っ張られたからだ。思わぬ力に勢い良く立ち上がったは良いが、勢いがありすぎてバランスを崩して思い切りエルネスティに突っかかり、まるでその胸に飛び込むように受け止められた。頬に触れる柔らかなエルネスティの服の感触と森の中と同じ心の落ち着くような香りに、一瞬少女の思考が止まる。
 アーツとヴェルナも、エルネスティの行動に驚いて目を見開いた。当のエルネスティは全くの無言、無表情なので、三人はこの少年が何を考えてこんなことしたのか分からない。
 そのままエルネスティは、エレオノーラの手首を掴んで、その場を離れていく。呆然とするアーツもヴェルナも、それを黙って見送るだけだった。
 エレオノーラも何も言えないまま、半ば引き摺られるようにエルネスティの後に続いた。自分の腕を掴む大きな少年の手に、どうしても胸がドキドキして苦しい。顔が真っ赤になっているだろう自分にも恥ずかしかった。
 しばらく歩いて、大きな、二人が並んで座れる位の岩のところまで来るとようやくエルネスティは止まった。そのままエレオノーラをそこに座らせて自分は立ったまま、腰に括りつけていた水筒を差し出した。
「…何?」
「飲め」
 無表情のまま、手渡してくるそれを受け取って、走って渇いていた喉を潤した。
「ありがとう…」
 まだ少年の真意が分からないままのエレオノーラは小声でお礼を言う。
「ん」
 受け取った水筒を手にして、エルネスティは自然な仕草でエレオノーラの横に腰を下ろした。肩が僅かに、ほんの僅かに触れる距離。それにエレオノーラはまたドキドキしてしまう。
「こないだは悪かった」
 ポツリと、エルネスティは言葉を零した。無造作に結った髪の毛が輪郭を隠してしまっているので、どんな顔をしているのかはエレオノーラには見えないが、零れた声は優しいものだった。
「え?」
「戻ってくるって言ってたのに、先に帰って…悪かった」
「あ、良いの。アーツが説明してくれたし」
「でも、約束したし…」
 自分が納得していないようで、エルネスティは何度もエレオノーラに謝った。
「もういいよ。本当に大丈夫だし。それに、私も謝らないと…」
「…何を?」
「嫌な事聞いて…ごめんなさい。辛い事だったのに…」
 しばし、エルネスティが黙り込んだ後、小さく溜息をついて言葉を返した。栗色の瞳をエレオノーラに向けて、表情は変わらないままじっと見つめる。
「お前が悪いわけじゃない。俺が、憎んでるからだ」
 憎んでいる。魔族を、自分の種族を。そう思うとたまらなく胸が痛くなる。青い瞳が不安げに揺れたのを見たエルネスティが言葉を続けた。
「これだけは、どうしようもないから…お前は嫌かもしれないけど。家族をいきなり訳の分からないまま奪われたら、誰でも憎むだろう?」
「…うん」
 苦しげな栗色の瞳が、一瞬本当に泣いてしまうかと思うほどに揺らぎを見せた。暴発するような危うさと共に垣間見えたそれは、エルネスティの意思で封印され、いつもと同じように無愛想とも取れる色に戻る。
「でも」
「…でも?」
 口ごもるエルネスティに、エレオノーラが聞き返す。何度か、小さく震えるように唇が動き、やがて小さな声でエルネスティは言った。
「お前なら…良い。お前が、良いと思ってる。…それだけは本当だから」
 低い、優しい、恥ずかしそうな声で、少年は頬に若干の朱をはいてそう言った。視線はどこかを彷徨っているようで青い瞳を見てはくれない。それでも、触れたものがあった。
 細いエレオノーラの指にそっと大きな手が触れてきた。形の良い少女の爪を辿るように触れたその手が、少しずつ指に伝わり、手の甲を包んだ。
「エルネスティ…」
 その優しくて温かい行為は、エレオノーラの気持ちに入り込み、今まで経験した事のないような感情を溢れさせた。
 この人が好き。その確信と言葉に出来ないような幸せが、神経を緩やかになぞり優しい麻薬のように広がる。人と触れることがこんなに気持ちの良いものだとは思わなかった。甘くて泣き出したくて笑いたくて、感情を根こそぎ持っていかれるくらいに総身が震える。
 触れそうな肩の距離も、強引に掴まれた腕も、こうやって触れてくれた手も、くすぐったくて心地良い。この間、泣いて泣いて悲しかった気持ちも、さらりと溶けていく。自分でも現金だと呆れるけど、それだけエルネスティは自分を変える力を持っているんだと思うと、愛しい。たったこれだけの事でと、ヴェルナは笑うかもしれない。でもエレオノーラには、口数の少ない、きっと恥ずかしがりやだろう少年の行動と言葉は、やはり嘘のないものだと思えるし、憎むべき種族である自分にこう思ってくれることにありがたかった。
 きっと、心は近づいている。
 と、思いたい。初めて会った時よりも。だけど、近づけば近づくほど、泣く事も増える。不安ばかりが先立つこの想いになぜそこまでのめり込むんだと、他の人が見たら呆れられるものだろう。
 それでもまだ離れたくない。
 そう思って、エレオノーラは縋るように、でも壊れ物にでも触れるように、そっとエルネスティの指に自分のそれを絡めた。
 夏の日差しの下なのに、暑さを感じない。ただ感じるのは、互いの体温だけだった。

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