今宵、真紅の口づけを

1

 白々と夜が明ける。窓から夏の風が入り込んで、白いレースのカーテンを揺らした。
 泣き腫らした青い瞳には眩し過ぎる光に、エレオノーラは目を閉じた。
 結局あの後、何をする気にもならず部屋に閉じこもったまま朝を迎えた。何も食べていないが空腹感もなく、泣きすぎて頭が重くて鈍痛が治まらない。真っ赤になった瞼を力のない手で擦ると、繊細な皮膚が痛んだ。
 フェリクスのあの言葉と、自分が憧れている赤い瞳。改めて見た口元から見える牙、そして栗色の瞳が交差してはエレオノーラを苛んでしまう。愛しい気持ちしかないその瞳を想うだけで、焦れる気持ちと種族の違いを考えては、青い瞳は際限なく涙に濡れた。
 静かにベッドから立ち上がったエレオノーラは、まだ誰も起きていない家の中を、のろのろと歩き外に出た。
 からりとした気候の爽やかな風が、その青白い頬を慰めるように撫でていく。母親と丹精こめて手入れする薔薇の庭を通り、僅かに軋む音を立てる門を開けて、人気のない道を歩いた。 
 いつもなら目にするだけで気の晴れる、花の咲いた景色も空の青も、今日は何も感じない。感じようとする心がない。ただ何となく、家の中にいたくなくて出てきたエレオノーラは、目的もなく歩いて、ある場所にたどり着いた。
 リクの店の前だ。朝の早い時間では当然店は開いていない。それでも無意識にここに来てしまった。いつも穏やかなあの青年の顔が無性に見たくなった。リクの家は、店の裏手にある。無茶を承知でベルを鳴らせば、きっと出てきてくれるだろう。でも、その勇気もなくエレオノーラは店の前で立ちすくんでいた。
 なんで、人を欲するんだろう。
 誰にも分からない、本能としかいえないようなことに疑問が浮かぶ。昔のように、人間の血でしか生きられないわけではない。なのに、それは根絶しない。それがエレオノーラには不思議だった。きっとリクでも分からないだろう。それが自分の生まれ落ちた種族なのだから。
 いつか。いや、近いうちに現れる自分の変化が怖くなった。どうやら瞳の変化が起きてすぐには、人間に対してエレオノーラの怖がる感情はなさそうだと、思う。ヴェルナも、エーヴァたちも、周りの友人達もそんな気配はない。ないと見えるだけかもしれないが、少なくとも、ヴェルナや双子の妹達には今のところそんな様子がない。
 では、いつそれが来るのか。それもまた分からない。疑問ばかりがふつふつと心に燻り、誰かに聞いてみたい気持ちが、エレオノーラをここまで来させたのかもしれない。しかしそれすらもがひどく曖昧だった。
「…エレオノーラ?」
 不意に、穏やかな声が聞こえた。空耳かと思ったがそれに僅かに反応した思考が、自然とエレオノーラの視線を声のした方向に向けさせた。
 店の横の小道から、焦香色の髪の毛を緩やかに下ろしたリクが姿を見せた。髪を下ろして、眼鏡のない姿は朝の光の中で優しげな顔で、しかし少しばかり驚いた様子にも見えた。
「どうした?エレオノーラの気配がして、まさかと思って出てきたんだけど」
 近づいてきたリクは、その少女の真っ赤になった瞳を見て目を見開き、それから手を引いて歩き出した。
「とりあえず、店の中に入ろうか。美味しい飲み物でも飲みながら話をしよう」
 大きな手の感触と暖かさに、エレオノーラはただ黙って頷いた。
 店の中には、相変わらず草木の香りと、落ち着くような不思議な香りが充満している。リクがエレオノーラをソファーに促して、そのままお茶の準備をしてくれた。花のやさしい香りのするお茶が、少しの時間を置いてエレオノーラの前にあるテーブルに置かれた。
「これ飲んで、気が向いたらで良いから話してくれるかな」
 にっこりと微笑んで、リクはエレオノーラの隣に腰を下ろした。長い脚を組み、その膝に頬杖をつくと、エレオノーラの青い瞳を見つめた。
「ありがとう…リク先生」
 小さくお礼を言って、温かいカップを手にしたエレオノーラは一口お茶を飲んだ。昨日から何も入れていない口の中に、程よい暖かさのお茶が広がり、鼻腔を抜けて芳醇な香りが漂った。脳にまで浸透していくその香りと温度が、またエレオノーラの涙腺を刺激した。
 もう散々泣いたと思ったのに、まだ涙が出てくる。それに引っ張られるようにまた、思い出す。赤い瞳と栗色の瞳を。なぜこんなにも泣いてしまうのか、もう自分では分からなかった。
「リク先生…」
「ん?」
 涙の止まらない青い瞳がリクに止められる。リクは温かい眼差しでそれを受け止めて、微笑んだ。
「変化しなきゃダメ?」
「…え?」
 エレオノーラの言葉に、リクはキョトンとした顔で少々間抜けにも取れる声で返事をした。
「私、怖くなったの。自分のこと」
「怖い?」
「うん。大人になったら、人間を殺してしまうんでしょう?血が欲しくて、その欲求を満たすために、人間を殺すんでしょう?」
 震える声で話すエレオノーラをじっと見つめたリクは、少女の不安を痛いほどに感じて整った眉根を寄せた。
「それは、否定しない」
 静かな声で答えるリクに、エレオノーラは小さく息を飲んだ。分かってはいるつもりだが、信頼する青年から言われたたった一言が、とてつもなく重かった。澱んだ色を見せた青い瞳は、どこを見ているのか分からなくなるほどにぼんやりとした。
 リクは長い金色の髪の毛を、大きな手で何度も撫でながら、エレオノーラの気持ちを落ち着けようとした。
「人間が食べ物を食べるように、俺達は人間を欲しがるように出来ているんだ。それはどれだけ時間が経っても変わらない。出来れば、なくなって欲しいけどね」
「なくならないの?…どうしても?」
「なくなりはしない。欲求自体が薄れる事はあっても…本能だから。特に変化の時期は、それが強く現れる傾向があるんだよ」
 リクの指が流れる涙を拭ってくれる。それが温かくてまた涙が出る。エレオノーラは黙ってリクの言葉を聞いた。
「瞳が赤くなって、人ぞれぞれだけど、体調が悪くなったり、苛々したりする。感情が揺れていく中で、本能が目覚めるって感じかな」
 そこまで言われて、ふと思い出す。ヴェルナのことを。
 カトリネはまだ変化したばかりだから、それに当てはまるのかは分からない。だがヴェルナは、数ヶ月間、赤い瞳になって経っている。そして体調を崩した。エレオノーラの考えていた事が分かったのか、リクは小さく頷いた。
「ヴェルナは今、本能が出て来始めたんだと思うよ。体の調子が悪いのは、本能に対して心が上手くついて行ってないからおきるんだ。カトリネももしかしたらそうかもしれない。成長過程は本当に十人十色だから俺も断言できないけど」
「じゃあ、ヴェルナは、人間を見たら…」
 その先は、恐ろしくて言葉になど出来なかった。

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