今宵、真紅の口づけを

4

 少し日の傾いた陽射しと涼しさを含んだ風を背に、エレオノーラは家に向かって歩いていた。エルネスティに会えた嬉しさで頬が自然に綻んでしまうままに、茜色に変わりつつある道を、軽やかな足取りで。
 妙な気まずさの沈黙で二人とも話せなかった川での空気を、突然現れたアーツが払拭してくれた。穏やかな性格の青年は、どうやら方向感覚があまり良くないらしく、川に来たかったのに迷っていたらしい。
 そして、ヴェルナがいないことにあからさまに落ち込んでしまっていた様子が、年上ではあるが、エレオノーラは可愛いと思ってしまって吹き出した。それにエルネスティも呆れながらも小さく笑ったので、気まずさが消えてくれたのだ。
 その後は、アーツも交えて話をしながら近場の果物を取ったり、魚を追いかけたりして遊んでいた。まぁ、主に楽しんでいたのはエレオノーラとアーツなのだが。
 帰りがけ、エルネスティはエレオノーラを近くまで送ると言ってくれたが、エレオノーラはそれを断った。人間の所有する森の半分からこっちは、日が暮れると低俗な魔物が徘徊する。その中を帰らせるなど出来るはずもなかった。それに、まだ二人きりになるには、エレオノーラにはハードルが高い。せっかくいつものような雰囲気で話が出来ているのに、それを壊したくない気持ちが大きかった。
 別れ際、どちらからともなく、
 『また今度』
 と言う言葉が出たのが、心が震えるほどに嬉しかった。


 家の裏口から正面玄関に回り、大きな扉を開けようとしたときに内側から勢い良くそれが開いた。思いもかけないことにエレオノーラが体をビクッと震わせると、中からフェリクスが出てきた。
「エレオノーラ…やっと帰って来たのか」
 赤い瞳がやや冷ややかにエレオノーラを見下ろして言う。それにエレオノーラは黙ったまま頷いた。相変わらず、この従兄弟で婚約者の青年に対して、エレオノーラは心を開き切れない。黒い仕立ての良い上下に身を包んだフェリクスは、じろじろとエレオノーラを品定めするように見た後、意地悪げに口の端を持ち上げて言葉を放つ。
「相変わらず何の変化もない…」
 呆れたような、蔑むような色さえ持つその声に、エレオノーラは俯き唇を噛んだ。しかしその細い顎に手を添えて、フェリクスは自分の方にエレオノーラの顔を向けさせた。
「お前は本当に吸血族なのか?いつまでそんな青い目でいるつもりだ」
「…っ!」
 小ばかにされて、エレオノーラはその青い目でフェリクスを睨みつける。普段にこやかな愛らしいい瞳が見せるきつい表情に、フェリクスは僅かに目を見開き、面白そうに笑った。
「その目つきは良いな。俺は気の強い女の方が好きだから。でも、色が良くない。何の美しさも魅力もない青だ」
「……」
 どうにもならない瞳の色で、どうしてここまで言われなければいけないのか、エレオノーラには全く理解できない。出来るものなら、リクにでも変えてもらいたいほどだ。しかしフェリクスはまだ言葉を続ける。
「青い瞳など、人間と変わりがない。誇り高い一族にふさわしいのは赤い瞳だ。弱くてもろい人間と同じ瞳をいつまでも持っているなど、嘆かわしい以外にないな。これでは、俺達はいつになったら婚姻の儀が出来るか分からん…本当にエーヴァかカトリネと変わってもらいたいものだ」
 暗めの赤い瞳がエレオノーラをまた、劣等感の奥底に落とし込む。先ほどまでの楽しかった気持ちを吹き飛ばすように放たれた言葉が深い傷となって、エレオノーラの中で血を流した。
 涙が滲んでくる瞳を、悔しさでまみれさせながらも絶対に逸らさない。何か言おうとしたら泣いてしまいそうなエレオノーラは、それだけが今できる事だった。
 そんな少女の顔を、余裕の眼差しで見ていたフェリクスが、ふと何かに気付いたように口を開いた。
「お前、何か雰囲気が変わったか?」
「…え?」
 突然言われたことに、エレオノーラは虚を突かれた顔になる。フェリクスはその顔に自分の顔を近づけて、フンを鼻を鳴らした。
「それに、匂いがする」
「匂い?」
「あぁ、人間の…甘くて良い匂いがする」
 艶を含んだ暗くて妖しい笑みを浮かべたフェリクスに、エレオノーラは悪寒めいたものを感じて慌てて後ろに身を引いた。
「あ、甘いって…」
 そんな表現を人間相手に使うなど思いもしなかった。あまりにも不適切だと感じる言葉。自分の体の奥底から湧き上がる恐怖に、エレオノーラは自身の体を抱きしめた。
 そんなエレオノーラを見たフェリクスは、また呆れたように笑って、その赤い瞳を青い瞳に止めた。
「何をそんなに驚いている?吸血族が人間に対して甘い匂いと感じる事は当たり前だ」
「…当たり前?」
 何を言っているのか分からない。ただ不快感を感じるフェリクスの瞳に耐え切れず、エレオノーラは目を逸らして言葉を返した。
「だってそうだろ?元々は人間など我々の餌に過ぎないのだから。それを欲しがって何が悪い。人間の匂いは、最高に甘くて食欲をそそる」
 ニッと笑った口元から、真珠のような白磁のような、白くてぞっとする程の長い牙が見えた。その妖しい唇を、赤い舌でぺろりと舐めたフェリクスは言葉を続ける。
「お前にはまだ分からないか。それも仕方がない…成人しない吸血族はその匂いに気付かないのだからな」
 そして、フェリクスはエレオノーラにもう一度近づいて深く、その人間の匂いとやらを吸い込んだ。
「あぁ、良い匂いだ…」
 うっとりとしたその言葉に、エレオノーラは総毛立つほどの嫌悪感と恐怖で眩暈がしそうだった。
「そんなの私には分からない…分かりたくないよっ!!」
 たまりかねてフェリクスを突き飛ばすように押して、エレオノーラは家の中に飛び込んだ。そのまま部屋まで一気に走り、大きな音を立ててドアを閉めた。感情の昂ぶりで呼吸すらままならないエレオノーラは、両手で頭を抱え込むようにしてその場にくず折れる。
「何?甘いって何よ…あれが、大人になるってことなの?」
 みんななるの?ヴェルナも、エーヴァも、カトリネも?
 それに………私も?
 まだ青い瞳のままで、何も考えずにただ憧れていた。赤い瞳になる事に対する変化の本当の意味を、改めて知った。エルネスティを思う心を持つエレオノーラには、あまりにも酷で受け入れ切れない。
 混乱しきった頭の中に、不意に浮かんできたのは、栗色の瞳。フェリクスの言った匂いはエルネスティの事だろうか。アーツの事だろうか。
 そんな事を頭の片隅で考えて、あまりのおぞましさに吐き気すら催してしまう。ぐっと上がってくる吐き気を必死に抑えて、こみ上げてくる涙を堪えたが、涙だけはどうにもならず青ざめた頬にいくつも痕を残した。

 エルネスティに会いたい…。
 声を抑えて泣きながら、エレオノーラは心の中に住む少年を思い浮かべては、また泣いた。


 

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