transient

12

 誠の腕の中から葉月の感触がなくなった。小さくても温かくてしっかりとしていた存在が、一瞬にして消えた。誠はただ、何もなくなった腕の中を呆然として見るしかできなかった。
「葉月…?」
 自然と出てきたその名前は、自分でも驚くほどの震えた声だった。息が苦しくなって、そして体が小刻みに震えだす。
「なんだ…何が起こった?」
 誠が周りを見渡すと、斜め後ろに葉月が立っていた。輪郭のぼやけるその姿に誠は異変を感じる。実体化していないときの葉月は、いくらはっきり見えていても、重さがないと言うか、存在はない。しかし今の葉月はそれ以上にふわりとしている。羽どころか空気のような。
 驚く誠の目の前で、葉月はその切れ長の瞳を細めて笑った。大きな目が細められたとき、涙がポロッとこぼれた。それを見た誠は理解する。
 これがお別れなのだと。
 葉月は言葉にしない。でも、涙がそれを教えてくれる。誠は触れられないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。立ち上がり、葉月の目の前に立つ。自分よりもずっと小さな葉月が見上げてきてくれる。涙をためた瞳で見上げられ、誠は自分も泣きそうになるのを必死で堪えた。
 震える手で、葉月の髪を撫でようとしたが、それは何も触れずに空しく動いただけだった。葉月もその様子に切なそうに眉間に皺を寄せた。もちろん葉月が触れてこようとしても、誠にはその感触が伝わってこない。
 こんなときには役に立たないのか。
 そう思うと自分の性質が恨めしい。
「もう、会えないのかな」
 誠の呟きに、葉月はこくりと頷いた。
「なんで、急に?訳分からないんだけど」
 それに、葉月は何か言っている。でも声すらも聞こえない。
「声…聞かせろよ」
 だんだん、誠の声に涙が滲んでくる。抑えようとしても抑えられず、震える声のまま、誠は葉月に語りかける。
「恋愛したいってのが、とりあえず叶ったからか?俺が好きだって言ったからか?…でも、恋愛って、付き合ったりするのも含めて恋愛って言うんじゃないのか?これで終わりとか、マジ勘弁」
 葉月は何も言わず、そっとその頬に流れる涙をぬぐった。本当は誠が拭ってやりたいのに、それもできない自分にむかつく。
 本当は分かっている。どんなに楽しくても好きでも、一緒にいることなどはできないと。ただそれを忘れたかったのも事実で、目を逸らしている自分がいることも知っていた。
「でもだからって、こんな急には………ないだろう」
 苛立ちを隠そうともせずに、誠は頭をかきむしるようにしてため息をついた。葉月は胸元を抑えて必死に泣くのを我慢しようとしている。小さな体が一層小さく見えた。しばらく沈黙が流れて、葉月がいくつ目かの大きな息を吐いたとき、誠は小さく問いかける。
「なぁ。楽しかったか?」
 誠の問いに、葉月が泣き笑いながらも可愛い笑顔を見せた。
「そうか。俺も楽しかった」
 触れたくて触れたくて、やっぱり葉月に手を伸ばしながら誠は笑った。もう何度も触れた葉月の手に触れられない。それがこんなにも悲しいことなんだと思い知らされる。
 葉月は身動きすらしないまま、誠の手の動きを見つめている。自分を求めてくれる手を、愛しそうに目で追いながら、にっこりと笑った。
「触りてぇ…」
 ぐっと手を握り締めて搾り出すような声を出した誠に、葉月はゆっくりと口を動かした。
 ア・リ・ガ・ト・ウ
「そんなこと、言うな…!」
 息を呑む誠の前で、葉月がゆっくりと薄れていく。細くて小柄な体が消えるのに、それほど時間はかからなかった。黒くてつややかなぱっつん前髪も、切れ長の大きな瞳も、桜色の頬も、デザイン変更前の制服も、何もかもが消えていく。
 誠はただ見ていることしかできない。涙で視界が滲むのも惜しいと思うくらいに、見つめるしかなかった。
 葉月のいなくなった空間は、居心地が悪くて、勝手に乾いた笑いがこみ上げてくる。喉から出るそれは自分の笑い声じゃない様に聞こえて、誠は口を閉ざした。
 そのまま、椅子に座り込み頭を抱えた。
 いきなりすぎた展開に頭が拒否している。何かを言いたくて唇がわずかに動くが、実際には言葉は出ない。自分が何を言いたいのかも分からない。強烈な喪失感が誠の中を暴れて、走り出したいような、何かを投げつけて壊してしまいたいような気持ちになる。
 そんなことをしても何も変わらない。
 心のどこかで、そう思ってる自分もいる。それが誠を思いとどまらせていた。
「こんなのありかよ…」
 天井を仰ぎ、誠は情けない声を出した。ついさっきまで葉月に触れていた手で目を覆い、そのまま長い間身動きもしなかった。
 また、時計の針の音が大きく聞こえた。でも紅茶の香りはしない。冷めてしまった紅茶からはもう香りは立ち上がらなかった。
 一口も、食べることのなかったケーキと、紅茶と、葉月のために選んだプレゼントが、テーブルの上に残されていた。
「プレゼントも渡せなかったし、ほんと俺何やってんだ」
 ポツリと呟いた声は、誰も答えないリビングに溶けていった。







 桜の舞い散る季節に、誠は学校の前を通る。
「今年も咲いてるなぁ」
 晴れやかな日差しに目を細めて見上げた桜は、つい数年前まで通っていた高校の桜だ。
 桜を見るたびに思い出す。一人の女の子のことを、誠は懐かしい気持ちで思う。
 ぱっつん前髪と、大きくて切れ長の瞳が可愛かった。明るくて素直で、どうしてあんな子が死ななければいけなかったかと思うと今でも悲しくなる。
 今でも、時々颯希や彩と話すことがある。それは楽しかった話ばかりで、誠は葉月を思い出すと笑顔になれた。当時は、いきなり消えてしまったことに対する戸惑いと悲しみと苛立ちと、後悔と、いろいろな感情があって、颯希も彩も泣いていた。でも時間がたつと、そんな暗い感情ではなくて、もっと淡くて緩やかな感情が誠の心を占めていった。あの明るい笑顔ばかりが、誠の中にいる葉月のイメージになっている。


 自分が生まれる前に死んだ女の子と過ごしたわずかな時間は、誠の中で今でも温かくて大切な思い出として残っているのだった。


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