transient
7
葉月の手が、誠に触れる。
時に右手で、時に左手で、温かい小さな手が触れている。
でも誠はその手を見ない。いや、見れない。顔を赤らめて、目を閉じて俯いている誠の耳に彩の声が聞こえた。
「誠ぉ。もうちょっとだから我慢して。絶対こっち見ちゃだめだよっ」
その声に、誠のイラつきが限界に近づいた。
「分かってるっ。だから早くしろよこの馬鹿!」
「馬鹿とはなんなのよっ。あんた、一応私は年上なのよ?」
「うるさいっ。お前の事なんか年上と思ったことなんかあるかっ」
睨みつけたい気持ちをぐっと押さえて、誠は声を荒げた。それに大きなため息をついて、ぶつぶつと誠の文句を言いながら、彩は衣擦れの音をさせていく。
なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだ。だいたい颯希が馬鹿なこと言い出したから…。
颯希のあの、ふわんとした笑顔を憎々しげに思い出して誠は舌打ちをした。当の颯希は現在退席中だ。
それもそのはず、今彩の部屋にいるのは誠、彩、そして葉月で、葉月は彩によって服を着替えている最中だった。
事の始まりは、日曜日の今日。たまたま颯希の部屋でテレビを見ていた葉月が、画面に映るファッション特集を見ていたことから始まった。
葉月が生きていた時代とは違う格好に、「良いなぁ。私もあんなのが着たい」と、ぽつりと呟いた。それを聞いた颯希が、かわいらしい笑顔を浮かべて、「彩ちゃんの服を借りればいいんじゃない?」などと、軽いことを言った。その瞬間、誠が嫌な予感を感じまくったのは言うまでもない。
いつも昼過ぎまで寝ている彩が起きてきた所を葉月が捕まえて、あっという間に話は進み、誠は彩の部屋に葉月とともに閉じ込められた。
女の子らしいピンクが溢れたこの部屋だけでも、誠にとっては居心地の良いものじゃない。しかも彩の格好と言ったら…………薄いブルーのベビードール姿。長くゆるい巻き毛をシュシュで軽く結ったその格好に、葉月が着替えていなくても、目のやり場に困る誠だった。
こいつなんでこんな格好なんだ。だいたいそれ!どこに売ってんだよっ。
「私も着替えるから、誠はもう少し目、開けちゃだめだからね」
裸体に近い姿を散々晒しておいて、彩はのんびりとした口調で言う。それに誠は返事もしたくなくてただ頷いた。出るものと言えばため息ぐらいだ。
「さぁ、もう良いよ」
何がもういいだ。絶対仕返ししてやるからなっ。
誠は再び目を開けて、顔を上げる。ピンクに溢れた部屋の中に、葉月がいた。黒いワンピースを着た葉月が、恥ずかしそうに顔を伏せて立っているのを、誠は上から下まで見つめた。
上半身はシンプルに、襟元と袖口にレースを添わせた、体の線がよく分かるスタイル。そして上質なレースが何層もあしらわれた、ふわりとした丈の短いスカート部分。そこから見える白い足には、ガーターベルトで止められた複雑な柄のストッキング。それが、細過ぎない綺麗なラインの、葉月の足を飾っているのがいやに目についた。
顔には前と同じように化粧を施され、髪は細めのカーブで巻かれて、葉月の輪郭や肩のあたりを飾っている。右耳の少し上に、大輪の薔薇の髪飾りを付けたぱっつん前髪が健在の葉月は、前回化粧をした時よりも、どこらかどう見てもアンティークの人形のような雰囲気だった。
「普通の格好も捨てがたかったんだけど、葉月ちゃんは人形になれると思って。もう可愛くて仕方ないっ」
彩の声が耳には届いたが、誠は返事もせずに頷いてしまった。
人形だよ、これは。制服しか見てなかったからか…可愛いしか言えない。
ぼんやりする誠と、どうしていいか分からない葉月を残して、彩は颯希を呼びに行くと言い残して出ていってしまった。
「誠くん?変……かな」
誠の腕をそっと触れたままの葉月が、上目づかいに見上げている。その顔が少し不安げで、誠は慌てて首を振った。
「可愛い。変な心配するな」
その目が深く柔らかい色だったので、葉月は嬉しくて感情のままに微笑んだ。切れ長の大きな瞳が、いつもよりも長い睫毛に縁どられて笑む。プックリとした唇が弧を描いていくのが、なんだか色香のようなものを感じさせた。
「わぁ!葉月ちゃん可愛いねぇ」
ドアを開けるなり颯希が声を上げた。誠と葉月の周りをくるくる回りながら眺めて何度も「可愛い」と繰り返している。彩も満足気に頷いて微笑んだ。
「なんか、嬉しい。こんな風にお化粧も、可愛い服も着たことなかったから」
「そうなの?」
葉月の言葉に彩が返すと、その切れ長の目を少し伏せて笑った。
「うちの親、結構厳しかったから…服も全部親の好みだったの」
思い出しているのか、声がだんだん小さくなる。でも決して嫌な表情はしていない。どちらかと言えば、親に対する優しさがこもっている目だった。
厳しくても、それは自分のことを思ってのことだと思えば、葉月は我慢できた。礼儀作法や習い事、勉強に至るまで、しっかりとサポートしてくれていた両親に対して感謝はあれど、他の嫌な感情なんてものはない。ただあるとすれば、親より早く死んでしまったことに対する謝罪の気持ちだけだ。
会いたいな。葉月はそっと声に出さないで唇を動かした。
「そっか。…じゃあさ、私の服で良ければいつでも貸すよ」
彩がにっこり笑って言うと、葉月も笑って頷いた。それを聞いて誠は全身から力が抜ける思いだった。
またこんなことするのか?勘弁してくれ…。可愛いのはいいけど、俺が持ちそうにない。
眉根をこれでもかという位寄せて、ため息をついた誠に、彩も颯希も葉月も、キョトンとした顔をした。
「いや……なんでもない。それより彩」
「何?」
彩をちらりと見て、誠は言葉を続ける。
「俺の手、離れないように結んでくれないか?」
「は?」
ぽかんとする彩の前で、誠は葉月が自分に触れている方とは反対側の手を差し出した。
「だから、俺と…………」
たった一言を言うのがとてつもなく恥ずかしくて、誠は目を逸らして早口で言った。
「葉月の手を結んで」
それにその場にいた全員が目を見開いた。誠がこんなことを言うのも想像も出来なかったし、何よりも初めて葉月を名前で呼んだことに驚いた。
いつも「あんた」とか「この子」とか、絶対に名前を呼ぶことがなかったのに、誠の口から出た葉月の名前は「葉月ちゃん」でもなく呼び捨てだった。
「嘘……誠が名前呼んだよ?僕の気のせいじゃないよね、彩ちゃん」
「うん。私も聞いた。ちょっとこれってすごくない?」
よく似た顔を突き合わせて話す姉弟に、誠はイライラしながら顔を赤くする。
葉月はその様子を見て、何も言わずに幸せそうに微笑んだ。
いきなり呼ばれた自分の名前。呼び捨てにされたことも、誠の口から出たことも、名前を呼んでくれた低めの恥ずかしそうな声も、何もかもが嬉しかった。
名前を呼ばれて、こんなに嬉しかったことはないと、葉月は笑顔になることを止められない。
「早くしてくれっ、あと、上着も着せてくれ」
「はいはい。分かったわよ」
クスクス笑い誠のダウンを取った颯希と、お気に入りのピンクのコートをクローゼットから取り出した彩が、それぞれに手伝って外出出来るようにしてくれる。
最後に、誠の左手が葉月の右手を取り、目立たないように彩が紐で二人の手を結んだ。それを確かめてから、誠が自分のダウンのポケットにその手を入れ込んだ。
「えっ、え?え?え?」
誠の行動に葉月は動揺しすぎる位に動揺して何か言いたげに誠を見上げた。
「こうやってたら、簡単には離れないだろ」
視界の端にだけ、ようやくの思いで葉月を入れた誠が少しぶっきらぼうに言う。
「きっちり結んでるから、離れないと思うけどぉ」
からかう彩の言葉に、颯希が笑いを堪えて優しい声を重ねる。
「まぁまぁ彩ちゃん。そういうことにしといてあげようよ」
「うーん。ま、仕方ない」
ニヤニヤと、よく似た目を細めた二人に舌打ちをして、誠は視線を移し、目が合った葉月に笑いかけた。
「じゃ、行くか」
「何処に……?」
「散歩」
一言、柔らかい声で言った誠は、ポケットの中で葉月の細くて長い指に、自分のそれを絡めた。
それに、ぶわっと真っ赤になって俯いた葉月を見て、誠は思わず頬を緩める。
可愛い顔してんじゃねぇよ。襲うぞ。
最初のころより、明らかに加速している自分の思考がおかしくて恥ずかしくて、自然と誠の頬も赤くなった。
葉月の死の話を聞いてから、もうすぐ2週間。クリスマスも近い日曜日の夕方が迫る時刻に、二人は初めて出かけることにした。
時に右手で、時に左手で、温かい小さな手が触れている。
でも誠はその手を見ない。いや、見れない。顔を赤らめて、目を閉じて俯いている誠の耳に彩の声が聞こえた。
「誠ぉ。もうちょっとだから我慢して。絶対こっち見ちゃだめだよっ」
その声に、誠のイラつきが限界に近づいた。
「分かってるっ。だから早くしろよこの馬鹿!」
「馬鹿とはなんなのよっ。あんた、一応私は年上なのよ?」
「うるさいっ。お前の事なんか年上と思ったことなんかあるかっ」
睨みつけたい気持ちをぐっと押さえて、誠は声を荒げた。それに大きなため息をついて、ぶつぶつと誠の文句を言いながら、彩は衣擦れの音をさせていく。
なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだ。だいたい颯希が馬鹿なこと言い出したから…。
颯希のあの、ふわんとした笑顔を憎々しげに思い出して誠は舌打ちをした。当の颯希は現在退席中だ。
それもそのはず、今彩の部屋にいるのは誠、彩、そして葉月で、葉月は彩によって服を着替えている最中だった。
事の始まりは、日曜日の今日。たまたま颯希の部屋でテレビを見ていた葉月が、画面に映るファッション特集を見ていたことから始まった。
葉月が生きていた時代とは違う格好に、「良いなぁ。私もあんなのが着たい」と、ぽつりと呟いた。それを聞いた颯希が、かわいらしい笑顔を浮かべて、「彩ちゃんの服を借りればいいんじゃない?」などと、軽いことを言った。その瞬間、誠が嫌な予感を感じまくったのは言うまでもない。
いつも昼過ぎまで寝ている彩が起きてきた所を葉月が捕まえて、あっという間に話は進み、誠は彩の部屋に葉月とともに閉じ込められた。
女の子らしいピンクが溢れたこの部屋だけでも、誠にとっては居心地の良いものじゃない。しかも彩の格好と言ったら…………薄いブルーのベビードール姿。長くゆるい巻き毛をシュシュで軽く結ったその格好に、葉月が着替えていなくても、目のやり場に困る誠だった。
こいつなんでこんな格好なんだ。だいたいそれ!どこに売ってんだよっ。
「私も着替えるから、誠はもう少し目、開けちゃだめだからね」
裸体に近い姿を散々晒しておいて、彩はのんびりとした口調で言う。それに誠は返事もしたくなくてただ頷いた。出るものと言えばため息ぐらいだ。
「さぁ、もう良いよ」
何がもういいだ。絶対仕返ししてやるからなっ。
誠は再び目を開けて、顔を上げる。ピンクに溢れた部屋の中に、葉月がいた。黒いワンピースを着た葉月が、恥ずかしそうに顔を伏せて立っているのを、誠は上から下まで見つめた。
上半身はシンプルに、襟元と袖口にレースを添わせた、体の線がよく分かるスタイル。そして上質なレースが何層もあしらわれた、ふわりとした丈の短いスカート部分。そこから見える白い足には、ガーターベルトで止められた複雑な柄のストッキング。それが、細過ぎない綺麗なラインの、葉月の足を飾っているのがいやに目についた。
顔には前と同じように化粧を施され、髪は細めのカーブで巻かれて、葉月の輪郭や肩のあたりを飾っている。右耳の少し上に、大輪の薔薇の髪飾りを付けたぱっつん前髪が健在の葉月は、前回化粧をした時よりも、どこらかどう見てもアンティークの人形のような雰囲気だった。
「普通の格好も捨てがたかったんだけど、葉月ちゃんは人形になれると思って。もう可愛くて仕方ないっ」
彩の声が耳には届いたが、誠は返事もせずに頷いてしまった。
人形だよ、これは。制服しか見てなかったからか…可愛いしか言えない。
ぼんやりする誠と、どうしていいか分からない葉月を残して、彩は颯希を呼びに行くと言い残して出ていってしまった。
「誠くん?変……かな」
誠の腕をそっと触れたままの葉月が、上目づかいに見上げている。その顔が少し不安げで、誠は慌てて首を振った。
「可愛い。変な心配するな」
その目が深く柔らかい色だったので、葉月は嬉しくて感情のままに微笑んだ。切れ長の大きな瞳が、いつもよりも長い睫毛に縁どられて笑む。プックリとした唇が弧を描いていくのが、なんだか色香のようなものを感じさせた。
「わぁ!葉月ちゃん可愛いねぇ」
ドアを開けるなり颯希が声を上げた。誠と葉月の周りをくるくる回りながら眺めて何度も「可愛い」と繰り返している。彩も満足気に頷いて微笑んだ。
「なんか、嬉しい。こんな風にお化粧も、可愛い服も着たことなかったから」
「そうなの?」
葉月の言葉に彩が返すと、その切れ長の目を少し伏せて笑った。
「うちの親、結構厳しかったから…服も全部親の好みだったの」
思い出しているのか、声がだんだん小さくなる。でも決して嫌な表情はしていない。どちらかと言えば、親に対する優しさがこもっている目だった。
厳しくても、それは自分のことを思ってのことだと思えば、葉月は我慢できた。礼儀作法や習い事、勉強に至るまで、しっかりとサポートしてくれていた両親に対して感謝はあれど、他の嫌な感情なんてものはない。ただあるとすれば、親より早く死んでしまったことに対する謝罪の気持ちだけだ。
会いたいな。葉月はそっと声に出さないで唇を動かした。
「そっか。…じゃあさ、私の服で良ければいつでも貸すよ」
彩がにっこり笑って言うと、葉月も笑って頷いた。それを聞いて誠は全身から力が抜ける思いだった。
またこんなことするのか?勘弁してくれ…。可愛いのはいいけど、俺が持ちそうにない。
眉根をこれでもかという位寄せて、ため息をついた誠に、彩も颯希も葉月も、キョトンとした顔をした。
「いや……なんでもない。それより彩」
「何?」
彩をちらりと見て、誠は言葉を続ける。
「俺の手、離れないように結んでくれないか?」
「は?」
ぽかんとする彩の前で、誠は葉月が自分に触れている方とは反対側の手を差し出した。
「だから、俺と…………」
たった一言を言うのがとてつもなく恥ずかしくて、誠は目を逸らして早口で言った。
「葉月の手を結んで」
それにその場にいた全員が目を見開いた。誠がこんなことを言うのも想像も出来なかったし、何よりも初めて葉月を名前で呼んだことに驚いた。
いつも「あんた」とか「この子」とか、絶対に名前を呼ぶことがなかったのに、誠の口から出た葉月の名前は「葉月ちゃん」でもなく呼び捨てだった。
「嘘……誠が名前呼んだよ?僕の気のせいじゃないよね、彩ちゃん」
「うん。私も聞いた。ちょっとこれってすごくない?」
よく似た顔を突き合わせて話す姉弟に、誠はイライラしながら顔を赤くする。
葉月はその様子を見て、何も言わずに幸せそうに微笑んだ。
いきなり呼ばれた自分の名前。呼び捨てにされたことも、誠の口から出たことも、名前を呼んでくれた低めの恥ずかしそうな声も、何もかもが嬉しかった。
名前を呼ばれて、こんなに嬉しかったことはないと、葉月は笑顔になることを止められない。
「早くしてくれっ、あと、上着も着せてくれ」
「はいはい。分かったわよ」
クスクス笑い誠のダウンを取った颯希と、お気に入りのピンクのコートをクローゼットから取り出した彩が、それぞれに手伝って外出出来るようにしてくれる。
最後に、誠の左手が葉月の右手を取り、目立たないように彩が紐で二人の手を結んだ。それを確かめてから、誠が自分のダウンのポケットにその手を入れ込んだ。
「えっ、え?え?え?」
誠の行動に葉月は動揺しすぎる位に動揺して何か言いたげに誠を見上げた。
「こうやってたら、簡単には離れないだろ」
視界の端にだけ、ようやくの思いで葉月を入れた誠が少しぶっきらぼうに言う。
「きっちり結んでるから、離れないと思うけどぉ」
からかう彩の言葉に、颯希が笑いを堪えて優しい声を重ねる。
「まぁまぁ彩ちゃん。そういうことにしといてあげようよ」
「うーん。ま、仕方ない」
ニヤニヤと、よく似た目を細めた二人に舌打ちをして、誠は視線を移し、目が合った葉月に笑いかけた。
「じゃ、行くか」
「何処に……?」
「散歩」
一言、柔らかい声で言った誠は、ポケットの中で葉月の細くて長い指に、自分のそれを絡めた。
それに、ぶわっと真っ赤になって俯いた葉月を見て、誠は思わず頬を緩める。
可愛い顔してんじゃねぇよ。襲うぞ。
最初のころより、明らかに加速している自分の思考がおかしくて恥ずかしくて、自然と誠の頬も赤くなった。
葉月の死の話を聞いてから、もうすぐ2週間。クリスマスも近い日曜日の夕方が迫る時刻に、二人は初めて出かけることにした。
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