神刀人鬼

神取直樹

日常

 かの有名な殺人鬼は言った。
“もしも真実と空想が入り混じっていたら、真実が何かなんて誰にも分からない”
 もう一人も言った。
“『悪い』と思って行なわれる『犯罪』は存在しないのです”
 結局はそれだけである。些細なことで少年少女誰でも自らを正義とし、真実など何処かに消えてしまうのだから。絶対悪はどの精神にも宿らない。
 彼も彼女もそれで生まれたのだから。


 朝目が覚めて、羚は薄っすらと降る雪を眺めていた。別に何かが悪いわけでもないが、ただ寒くて布団から出たくないとの気持ちもあったし、朝から騒がしい幼馴染が来るまで待とうとも思ったのである。
「羚!」
 案の定部屋をノックもせずに入ってきた幼馴染は、羚の布団を剥ぎ取った。
「うん。なあに」
 羚ののんびりとした言葉に、幼馴染は眉間に皺を寄らせ、顔を近づける。
 彼女は可愛らしい顔の通り、【愛】という名前を持っていた。その可愛らしい顔をしかめて睨んでも、何も怖くはない。それどころか更に愛らしいとさえ思ってしまう。
「起きるの遅い! あと起きてるならちゃんと返事!」
「うん、ごめんね」
 ゆったりとした答えから、羚はベットから降り、愛の隣で服を脱ぎ始めた。
「ちょっと! 一応私女の子なんだからね!」
 そんな言葉気にもせずに、羚は着替えを止めない。近くで扉の開く音と壊れそうなほど扉を打ち付けた音が聞こえた。きっと彼女が何も言わずに走って逃げて行ったのだろう。つい想像して少し嬉しくなって、口から息が漏れた。
 手短に着替えを終え、愛を追いかけるように部屋の外に出ると、朝御飯の香ばしい香りがした。今日はトーストだろうか。バターと卵の匂いがする。愛の母、兄の声もする。愛自身はきっとふてくされているのだろう。声が聞こえないが、足音だけはしっかりと聞こえた。
「おーい、羚君! そろそろ来てもらわないと愛が可哀想だから!」
 聡の声で意識が完全に覚醒し、部屋から駆け出していく。聡は愛の兄だが、羚にとっても兄のような存在だ。今日は大学の授業が無いらしい。
「お早う」
「お早うです」
「朝御飯、早く食べちゃおうか。今日さ、買い物行きたいから」
 羚は聡の意思を聞くと、黙って頷いた。隣に座った愛を見て、羚も座る。一般的な朝食と言えるだろう品揃えの料理を見渡すと、羚は手を合わせる。
「いただきます」
 それに続いて愛も「いただきます」とぼそりと口に出した。食事を口に入れているときは絶対に声を出さないからか、いつも食事時は静かになってしまう。それも十分くらいで終わり、羚は食器を片づけ始めた。それに気が付いた愛も、それにならう。二人とも片づけを済ませると、顔を洗いに洗面所へ行き、それぞれ鏡に向かった。
 羚の顔は相変わらず女の子のような顔で、隣に一緒にいる愛と並んでやっと少年だとわかるくらいだ。身長もそれほど高くはなく、一般的な小学生よりは小柄で、気も小さい。
「ほら、ボーッとしない!」
 その気の小ささを補助するように、愛はいつも声をかける。今日買い物に行こうと言ったのも愛だ。一緒に顔を洗い、歯を磨く。いつもの土曜日だ。準備が終わって玄関にかけていった二人は、聡と愛の母に笑顔を向けた。



 家から愛の母が運転して、どれほど経っただろうか。後部座席の窓から多くの人が見える。特に若者や家族連れが多く、皆一様にして同じ方向に向かっていた。
「何かあるのかしらね」
「あー、学校の奴らが何かデパートでどっかのアイドルだかのライブみたいなのがあるって言ってたけど。多分それじゃない?」
 聡と愛の母がそう話しているのを聞いて納得する。デパートには確か広い吹き抜けがあり、そこでちょくちょく人気の映画の告知や新人アイドルの軽いライブのようなものがあるのだ。おそらく今回は後者のようなことが行われるのだろう。それにしては、少々人が多い気もするが。
「私、それちょっと見てみたい」
 愛がそう言うと聡が言う。
「俺が一緒にいてやるけど、はぐれるなよ……羚君、人多いの苦手なんだっけ。母さんと一緒に買い物してる?」
 羚はその問いに首を縦に振った。
「じゃ、そうしましょうね。駐車場に入れるから窓閉めなさい」
 目の前が暗くなる。それに一瞬だけ戸惑いがあったが、駐車場の明かりが見えると、少しだけ落ち着いた。慣れた手つきで車を入れる愛の母を見ながら、羚は思いを巡らした。久しぶりの買い物で、何を買おうかと。だがその考えもすぐに終わってしまった。
「じゃ、羚君は私と一緒に買い出しね」
 強制的ではあるが、食料の買い出しをしようというらしい。この場合の愛の母には逆らえない。聡も困った顔で羚を見ていた。


「ほら、早く早く!」

「愛!危ない!」

 車が止まったのを確認してすぐに外に飛び出した愛。飛び出した先には強い光があった。それを直感的に自動車だと感じた羚は、自分でも驚くような大声を出していた。愛が気が付いた頃には車両は目の前まで迫っていた。



 一瞬、何が起きたのかわからなかった。車から勢いで出ていた羚は目を瞑っていて、聡は動けず、愛の母は外に出ようとした寸前で。
 愛は、
「大丈夫か」
 羚の目の前で何が起きたのかわからないまま、立っていた。
「大丈夫か。怪我は」
 ハッとして羚が前に意識すると、がたいの良い男が無表情のまま愛の顔を見て話していた。男はがたいだけ見れば成人しているように見えるが、ジャージ上下にまだ幼さの残る顔を見るとまだ高校生くらいの様だ。頭にタオルを巻きつけ、印象としては農業学校の生徒のような素朴さがある。が、羚たちにはそんなことどうでも良かった。
「すみません!」
 聡が扉を開けて出ると、男もそちらを向いて立ち上がった。
「怪我が無いようで良かったです。元気が良いのは良いですが、お気を付けて」
 サラリとそう言うと、男はその場から立ち去ろうとする。が、何か眉間に皺を寄せて車の方を見た。それと同時に相手の車のドアが開く。
「おい! あぶねえぞ! ちゃんと教育してんのか!」
 見るからに柄の悪い男が、羚達に罵声を浴びせる。その声はまた羚を反射的に震え上がらせた。それに対して愛の母は車から降りてただただ頭を下げるしかなかった。
「スミマセン。私からも言っておくので……」
「あのなあ、怪我がなかったからよかったけどよお。あの兄ちゃんがいなかったら本当に危なかったんだぞ。言い聞かせるんじゃなくて、ちゃんと見とけよ……って、あの兄ちゃん何処行った?」
 ふと、男がそう言った為に周りを見渡したが、彼の気配はしない。冷たいようなあの視線はもう感じられなかった。
――――カッコいいな。
 羚はそう思った。幼さがそうさせるのか、不思議だ、というよりそういう感覚が強かった。
「車、動かしたいからさっさと餓鬼連れてどっか行ってくれ。家族でショッピングなら、餓鬼から目を放すな! 解ったか!」
「はい!」
 聡が咄嗟に反応してからすぐに、男は車に乗り、そのまま車を走らせた。それを目で追い、誰も居なくなったのを確認して、四人はフッと溜息を吐いてしまった。全員が揃っていたのもまた凄いが、それに気が付かないほど全員が緊張していた。
「……たっく! 愛!」
 怒鳴り声にも近い聡の声が、愛の耳に容赦なく入る。
「なによ! 車来てるなんてわからなかったんだもん!」
「そうじゃなくて! 確認もせずに車の外に出るのもおかしいだろ!」
「楽しみにしてたんだもん!」

「父さんみたいに死にたいのか!」

 その大声は、羚達をまた違う意味で固まらせた。愛は下を向いて泣き出しそうな目をしている。それを察した聡がハッとした表情で駆け寄った。
「ゴメン。言い過ぎた」
「…………」
「行こう。楽しみに来たんだから」
 こくりと頷く愛に、聡は安心したように溜息を吐く。
「母さん、俺、連れてくから」
「えぇ、わかったわ」
 平然とした声色と表情で、二人の母は答えた。だが、的確に羚はその声が耐え難いものであることは理解できた。ただそれを、遠巻きにしか見れないのは仕方が無いことだ。今、自らがそこにいることさえ本来ならいけないことだろうに。幼い羚には解らない。何故この家族が自分を生活させてくれるのかが、解らなくて仕方が無い。その本懐を理解できなかった。また夢を見るように、瞬きをした。



「羚君、これ好きだっけ?」
 愛の母は羚の目の前にさっとキャラメルの箱をかざした。それに対して羚自身は首を縦に振る。そして、顔を向けて笑みをこぼした。
「そう。なら、買って帰りましょうね」
 早くも山盛りに積み上げられている食材類を見る限り、前々から思ってはいたが多少の浪費癖があるらしい。だが子供三人を養えるほどの女性だ。高給取りではあるし、教養もある範囲でのそれは可愛らしいし、必要最低限より少し多い程度だろう。ただ意味の解らない食材まで買ってほしくはないが。
「どんな料理を作りましょうかね。愛の好きなものにしても良い?」
「僕は大丈夫」
「なら、それで良いわ。聡も愛も好きなものが同じで助かるのよね。羚君も好き嫌い無いでしょ? 助かるわ」
 透き通った白い肌に、赤い口紅をさしたような唇を動かして、微笑んだ。大学生の息子がいるとは思えない若々しさ。彼女の結婚前のアルバムを見たことがあるが、さほど変わりがない。
 まるで、いつまでも若々しい魔女のようだった。
「流石にこれ以上買っちゃうと怒られちゃうね。レジに行きましょうか」
 彼女がそう言った直後だろうか、羚の隣を誰かが歩いた。何故かはわからないが、背筋に何かが刺さったように、ザワザワとしたものが体を伝う。
 危険、あれは危険、ここに居てはイケナイ。直感だろうか、本能的な何かか、カートに掴まっていた手が汗にまみれて仕方がない。それでも人間としての好奇心が勝ってしまう。羚は、後ろを振り返る。
「何?」
 普通の、少年だった。正しく言えば、中学生くらいの一般的な、普遍的な、非の打ちどころのない普通の少年。顔立ちは比較的に整っており、恐怖を煽る対象ではない。隣に人がいただけで怖がってしまった羚の幼さに表情筋が綻んだのか、少年は微笑んでいる。
「ごめんなさいね。この子人見知りで」
「おや? お母さんですか? 俺もよそ見してて気が付かなくて」
「いえ、私はこの子の母親の友人で」
 そこまで言ったときだろうか。まだ、言ってなかっただろうか。少年の顔に影が差す。
「羚君のお母さんに興味があったんだけどなあ……やっぱ死んでるのは確かか……」
 そう、聞こえたことに驚いて、上を見ていなかった。自分の目の前に紅いものが降りかかって、やっとのことで気が付いた。少年の足元に転がったボールのようなものは、球体と言えばまた歪で、凹凸が多い。そのボールを蹴り飛ばして羚にその正面を見せた少年は、微笑みを讃えたまま唇を動かした。
「大丈夫。羚、お前はこうしない」
 その微笑みが恐ろしい。後退りをしようにも、足が固まってしまって動かない。上手く頭が働かない。今すぐ、ここから立ち去らなければならないのは、理性が理解している。ただその方法も浮かばないし、その先は見えてこない。羚は、静かにその場に足を崩してしまった。

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