比翼の鳥

風慎

第6話 蜃気楼(6)

「先輩、お兄さん、おそぉい!」

 腰に手を当て、そう怒ってますと言う雰囲気を演出しているのは、瑠奈を名乗る少女だ。
 だが、実際には、待ち合わせの時間にはまだ20分以上早く、勿論の事、鈴君もまだ来ていなかった。
 ちなみに、柴田は、住んでいる方向が逆の為、現地にて集合という事になっている。
 そんな彼女が怒りを表している場所とは、広い空間に何本も整然と並ぶ、太い円柱のたもとである。

 JR 横浜駅 中央口の改札前

 巨大ターミナルの導管であるここは、休日という事もあって、まだ早い時間にも関わらず、人が多く見受けられた。

 その中で、ひときわ目を引く、可憐な美少女。
 パッと見では、小柄で細身なのだが、その体のどこから出て来るのか分からない程、存在感を放っている。
 まだ化粧もしていないであろう、若さを武器にしたその顔は、通り過ぎる人達の視線を存分に集めていた。
 更に、彼女の為にあつらえたと言われても不思議ではない程、透明感のある空色のワンピースが似合っていた。
 頭には定番ともいえる、つばの広めの麦わら帽子が、黒い髪に映える。

 そんな思いの外、真面目に気合が入っている彼女の姿を見て、改めて、この少女は本気で、今日のお出かけを楽しみにしていたのだと実感する。

「……悪いな。これでも急いで来たのだが……。」

「どうせ、先輩が寝坊したんでしょ! ダメですよ、こういう日位、しっかりしないと!」

 俺では滅多に見られない、妹が言い負かされ謝ると言う構図を見て、俺は苦笑する。
 そんな風に、少し困った顔で弁解する春香と、頬を膨らませて怒る少女の様子を視界に収めつつ、俺は、昨夜、彼女に言われた言葉を思い出していた。





「兄貴、ちょっと良いか?」

 ノックも無く、扉を開けて入って来る妹様を、俺は溜息と共に迎えつつ、

「あのね、とりあえず、ノックはしようよ。一応、親しき中にも礼儀あり、だよ。で、どうした?」

 そう、いましめながらも答える。

「ああ、すまん。ちょっと、伝えておきたい事があって、急いでしまった。」

 この妹様は、あまり器用な方ではないから、頭の中が一つの事で一杯になると、突っ走る癖がある。
 今回も、それが悪い形で出てしまったようだ。
 ただ、自分で悪いと思った事は、ちゃんと謝れる子だから、その辺りの心配は、していない。
 まぁ、後でやらかした事を後悔して、彼女が布団の中で悶えているのを知っているからこそ、寛容になれると言う部分もあるのだが。

「んで、どうしたのよ? そんなに慌てて。」

「うん。実は、今日の強引な誘いについて、謝っておきたくて。」

 そう口を開いた彼女から出たのは、俺にしても意外な言葉だった。

「妹よ……一応、あの誘い方が、かなり強引だって事は理解していたのか……。」

 素直に驚きである。俺の記憶によれば、春香であれば、ああいう物言いで、物事を進めてしまう事も、何度かあったのだから。そういう意味では、別段、不思議な事では無いのだ。
 そんな俺の態度に、流石に春香も苛立ったのか、眉をしかめて、口を開いた。

「わ、私だって、一応、分別は、ある……ぞ? 多分。」

 公衆の面前で、実の兄貴を殴り飛ばす程度にかなり怪しい分別だが、この際それは置いておく事にする。
 そんな事、口にしようものなら、二次災害が起こりかねないし。

「そうか。兄としては、妹の成長の一旦を実感できて、嬉しいよ。」

「そ、そうだろう? うん。私だって、ちゃんと頑張ってるんだ。」

 途端に、恥ずかしそうに、モジモジし始める春香。そんな、しおらしい彼女の姿を、他の人は見た事が無いだろう。

 そうなんだよな。この子、いつもあんな風に、ぶっきらぼうなのだが、あれは、人前でだけなのだ。
 あの激しい言動とじゃれ合い――と言うには激しい物だが――は、所謂、虚勢の一種だと俺は思っている。その反動なのか、何故か、俺しかいない状況だと、一転して途端に素直で大人しい子になるのだ。

「そっか、そっか。春香は頑張り屋さんだな。」

 そう言いながら、俺は春香の頭を優しく撫でた。
 春香は嬉しそうに、俺に撫でられるままでいて、静かに時間が過ぎる。

 そこに言葉は無い。
 ただ、静かに微笑み、嬉しそうに撫でられる彼女と、何となく優しい気持ちが染み出るのを感じながら、彼女の頭を撫でる俺が居る。それだけだ。

 これが、小さな頃から続く、彼女とのスキンシップだったりする。

 思い返せば、昔からそうだったと思う。
 彼女は、感情の発散が下手な子だった。

 だから、何かがあって暴れていた時、悲しくて泣いていた時、この方法が、彼女のやさぐれた心を解きほぐす、唯一無二の手段だったのである。

 根本的な所は、小さい頃から何も変わっていない。ただ、意思表示の手段として、手が出るようになっただけだ。
 うん、冷静に考えれば、可愛い妹に空手と合気道を進めた親に、黒い思念がそれとなく湧く。まぁ、彼女なりに考えて選んだ道だから、尊重はしたいんだけどな。

 まぁ、そもそも、こんなに大きくなっても、兄妹でこんな事をしているなんて、他の人には恥ずかしくて言えないな。それが、別段、悪い事では無いとは思っているが。
 そんな兄としては、早く、兄離れして欲しいと言う気持ちと、まだこのままでいて欲しいと言う、二律背反の気持ちが常にせめぎ合っている。
 ただ、確実に言えるのは、どちらも、本心であり、家族である以上の感情はそこには無い。

 こんな状況、傍から見れば、ゲームとか、エロ小説に良くある、妹エンドとかに繋がるんだろうな。だが、男女とは別に、それを超えた家族の愛情と言うものが、確かに存在すると、それこそ俺は身をもって実感していた。
 それは、多分、家族と言う特殊な環境下だからこそ、長い年月を積み重ねて勝ち得る信頼であって、普通には無理なんだろうな。

 そうそう。春香は、子供の頃、いつも目に涙を浮かべて、俺の後ろを着いて回る少女だった。

 そんな彼女を見てまた、何時の頃からだったか、俺は妹を守る兄貴になると言う使命感を持っていたのだ。
 それは、元を質せば、母に笑顔でお願いされたかららしい。……らしいと言うのも、俺自身にその記憶が無いからだが、母の胸に抱かれる赤ん坊だった春香を見て、兄としての責務を自覚した事は、薄っすらと記憶の片隅にこびりついていた。

 いつだったか、躾けられていない近所の犬に、吼えかかられたことがあった。ゴールデンレトリバーだったと思う。

 子供にとっては、あの犬は巨獣に等しかった。今にして思えば、あの犬は、単にじゃれていただけなのかもしれないが。
 春香を護るために、彼女の前から一歩も引かない俺は、あの巨体にのしかかられ、腕を噛まれた時の痛みと恐怖は、今も鮮明に覚えている。
 だが、それでも、俺に逃げると言う選択肢は無かった。本当なら、大人を呼ぶべきだったと今になったら思うのだが、俺もまだ幼かったのだ。
 結果、俺は春香を庇って小さくない怪我をした。何針か縫ったと思う。今思えば無茶ばかりしている。それからも、そんな事が、細かい事も含めれば何度かあった。
 そういや、近所の悪ガキに、自転車で特攻され、門扉ごと吹っ飛ばされたときは結構酷い事になったよな。
 俺は完全に意識を失っていたから知らないのだが、大流血だったらしい。そう考えれば、俺、良く生きているな……。

 ま、まぁ、そういう俺の姿を見て来たせいか、春香も、俺には絶対的な信頼を寄せてくれているのだと思う。
 その反動なのか、一皮むけばややブラコン気味に成長してしまった訳だが、その事は、周囲には知られていない。

 恐らくは、俺以外であれば、柴田と鈴君が何となく感じ取っている位か。

 両親も、春香が俺にべったりな事を理解した上で、完全に放任している。と言うか、そもそも、うちの両親はあまり口出しをしてこない。その為、彼女の事は、結果的に俺が面倒を見ている事が多かったりする。彼女も、親に相談しても、頼りにならないと思ってしまっているのもその原因の一つか。
 まぁ、親の信頼を俺が受けて、結果として春香を任されているのは分かる。分かるけど、もう少し、親も頑張ってほしいと思うのが、息子としての偽らざる気持ちである。
 いや、今になれば親の愛情も、俺はよく理解できるよ? けどさ、解りにくいんだよ! もう少しアピールしてよ!と思わないでもない。
 だから、信頼構築してこなかった両親は、可愛い娘に、陰でうざいとか言われるんだよ。全く。

 特に春香が親父に抱くイメージは最悪である。
 一応、俺もフォローはしているが、基本、何もしない……どころか、話すら碌にしない人だ。誤解されても仕方ないと思う。
 そんな事を考えていたら、階下から大きなクシャミが聞こえた気がするが、きっと気のせいだろう。

 ちなみに、そんな父親の相方である母も、春香としては、何もしてくれない母であるらしい。うーむ、もう少し広い視野を持ってもらいたいものなのだが、俺が幾ら言っても、同じ女としてのプライドが壁になるのか、効果は芳しくない。
 俺としては可愛い所のある、ちょっと抜けた優しい母だと思うのだが。

 そんな可愛い母のいびきが薄っすらと響いてくるのも、日常だ。ま、どこもそんな物だろう。
 逆に、母のいびきが聞こえないと、何故か不安になってしまう。その程度には、慣れていた。

 そんな訳で、話は前後するが、俺の前では、しおらしい可愛い妹である。
 欲を言えば、もう少し肉体言語を抑えてくれれば、言う事は無いのだがな。

 そんな、想いを交えながらの家族のスキンシップと言うには、いささか恥ずかしい物が終了すると、春香は満足した様子で、笑みを浮かべる。

「兄貴、ありがとう。……はぁ、少し、兄離れせんとなぁ。」

 そう言いつつも、春香の顔は安らいだものだった。
 それを見て、俺は、この調子じゃ、当分無理だろうなぁと、心で苦笑しつつ、彼女の次の言葉を待つ。

 わざわざ、撫でられる為だけに来る……事もあるかもしれないが、先程の言い回しだと、何か別の用事があったはずだ。
 そんな微妙に挟まった沈黙の意図を正確に読み取ったのか、春香は呆けた顔に少し気を入れると、口を開いた。

「ああ、そうだ。本題なんだが、兄貴よ。実は、今回の遊園地の件は、なんと、あの子が言い出したことなんだ。」

「あの子? 瑠奈、と言う子の事かな?」

 俺の明らかな他人行儀な言い回しに、一瞬、春香は眉を顰めるが、すぐに「そうだ。」と、肯定すると、話を続ける。

「あの子は、兄貴も知っている通り、極度の男嫌いでな。今まで、男性に告白された数は数知れず。しかも、いずれも全て瞬殺されているのは有名だろう?」

 ほう、そうなのか。瞬殺……取りつく島も無いって事か。

「教室の男子にも、決して愛想が悪い訳では無いのだが、半径1m以内には、不用意に近寄らせない程の徹底ぶりでな。同級生の男子に言わせると、何か不可視の絶対領域が存在すると言っていたな。私には、良く分からんが。」

 なんじゃそら。

 思わず、心で突っ込みを入れてしまうほど、語られた少女のイメージは、俺の抱いている物とかけ離れた物だった。
 まぁ、確かに、俺はあの少女の事を、詳しくは知らない。だが、短い記憶を辿るに、そんな雰囲気は感じなかった。
 現に俺は今朝、少女の近くに立っていたし、頭も撫でている。何気なく伸ばした手だったが、はね除けられる事も無かった。

 そりゃ、近寄りがたい雰囲気を纏う人は確かにいる。ただ、俺が感じた限り、あの瑠奈を名乗る少女は、そこまで露骨に拒絶の意思を見せていない様に思う。
 何より、毎朝、俺を起こしに来ている……らしい、という事からも、矛盾するのではないだろうか?
 それとも、仲間認定した相手には、とことん甘いと言う、典型的な例なのだろうか。

「兄貴も自覚はしていたと思うが、あの子が異性……つまり男性に興味を持つのは、稀な事だ。今までは、私にちょっかいをかけるついでとして、兄貴に接していたように見えたんだが……。」

 記憶の無い俺には断言できないが、この話ぶりを聞くに、どうやら、身内に甘い訳でも無いのか。
 となると、今迄は、そっけなかった? 俺の記憶にその風景は無いが、今日だけでも接した感じでは、その雰囲気は見受けられない。だとすると……?

「それが、最近、変わったという事か?」

 今度は、歯切れの悪い春香に、俺が先を促した。そんな矛先にいる彼女は、俺の言葉に、頷くと、口を開く。

「今回、遊園地に誘う案も、チケットも、全てあの子が用意した。それだけなら、問題ないのだが……条件が、兄貴を連れて行く事だったのだよ。そもそも、あの子がついでとは言え、男性である兄貴を誘うこと自体が、異常だ。こんな事、今までにないんだ。」

 そこまでなのか。中々に、潔癖な感じを受ける。いや、男嫌い、ここに極まれりと言う感じか。
 そんな俺の困惑した表情を見て、春香は苦笑すると、少し笑いながら言葉を続ける。

「だから、今朝、兄貴があの子の頭を撫でていたのも、彼女から兄貴を誘う言葉が出たのも、私からすれば、何かの間違いではないかと、今でも少し思ってしまう程だ。」

「ふむ。」

 なるほど。今回の件は、春香の意思だけでは無く、瑠奈と名乗る少女の存在が大きいという訳か。
 しかし、元来、少女は、男性嫌いで、そんな事はまず自発的に行わない。

「だから、今回の事は、あの子にとって何か大きな意味がある様な気がするんだ。そこで、兄貴に頼みたい。」

 俺の考えに沿うかのように、春香の言葉が続く。
 そうだな。いつもと違う行動。ともすれば、何か特別な思惑が後ろに控えていても、不思議ではない。

「今回の遊園地では、出来るだけ、あの子を気にかけてやって欲しい。ちょっと……いや、かなり……ううん、盛大にうっとうしい奴だが、根は良い子なんだ。」

 さり気なく可愛い後輩を、ここぞとばかりに非難する妹に色々と思わなくもないが、確かに、あのペースで纏わりつかれれば、文句の一つや二つも言いたくなるだろう。
 今朝の二人の光景を思い出して、思わず苦笑する。

 まぁ、俺から見れば、春香もあの少女も、大差はないが。

 だが、一つだけ、気になっている事があった。
 あの一見すると華やかで楽しそうな彼女の行動。あの雰囲気、そして、そんな光景に心当たりがある。

 長い間生きていれば、良く見る光景の一つ。

 あれは、そうだな。例は悪いが、飲み会の雰囲気に似ていると思う。
 楽しもうとする事に一生懸命な、あの独特の空気。あるいは、人々が楽しむための演出に似た何か。
 勿論、その雰囲気を否定するつもりは無い。本当に楽しむための下準備と言う側面もあるし、そこから本当に楽しい気持ちが湧き上がって来る事もある。だからそれ自体は、同意できる。

 だが、俺からすれば、本当に楽しい時は、自然と楽しさが滲み出て、他人に伝わるものだ。そう思っている。
 楽しんでいる者同士が発する雰囲気と言うのは、作られたそれとは、全く別の物だったりするのだ。
 敢えて言葉にするならば、心地よい高揚感と、静かな興奮がない交ぜになり、見ている人も暖かくするような、居心地の良い落ち着く空間のような物……だろうか。

 だが、俺があの少女に感じた楽しそうな雰囲気は、そうでは無い。作ろうとしている物に見えた。
 裏にどこか必死さがあったと思う。義務感、使命感と言い換えても良い。

 駅でしゃがみこみ、何をするでもなく、一心不乱に、スマホをいじる集団。
「超ウケル」と口にしつつ、表情筋を微動だにしない真顔な女子高生達。
 彼女の行動は、そんな無機質な何かを、俺の中に連想させる。

 同時に、一瞬、今朝見た、部屋の隅でうずくまる、少女の光景が脳裏をよぎった。

 頑張り過ぎなんだよな。多分。

 良く分からないが、どうにも、彼女の行動の全てに、必死さが見え隠れしているように思える。
 余裕の無さが、それを加速させ、本人にも分からないまま、圧迫感となって自分自身を縛り上げる。

 楽しまなければならない。
 ……しなければ、自分の価値が失われる。

 その強迫観念に似たそれは、俺が社会で経験した自壊の形と酷似しているのだ。

 なんか、昔の自分を見ているようで、放っておけないんだよなぁ。

 これが、単なる感傷なのか、はたまた同情なのか、俺にも良く分からない。
 だが、何とかしてあげたいと言う想いは、俺の心の奥底からにじみ出て来る。

 それになぁ。どっかで、こんな子の話を聞いた事があるような気がするんだよな。しかも、春香に。
 だが、どうもその辺りがはっきりとしない。小さな事なのだが、それが凄く気になる。

 だからこそ、俺の答えは、決まっていた。

「ああ、分かったよ。」

 だが、そんな俺の言葉に、ホッと息を吐いた春香の続く言葉が、

「あ、だが、手を出しては駄目だぞ? 家族が犯罪者になるのは御免だからな。」

 兄貴の尊厳を微塵も感じさせない物で、俺は苦笑するしかなかったのだった。

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品