比翼の鳥

風慎

第11話 蜃気楼(11)

「兄貴、下がって。」

 春香が虎に気付くや否や、俺と虎の間に、身を滑り込ませる。

「いや、春香さんや。あんた、超カッコいけど、それで怪我されたら、俺泣くよ?」

 何せ虎が相手である。幾ら、空手と合気道の有段者とは言え、その勝手は随分と違ったものになるはずだ。
 緊迫した状況なのだろうが、思わず突っ込んだ俺に、春香は視線も寄越さず、背を向けたまま、痛烈な一言を寄越す。

「兄貴がこの状況で出来る事なんか、何もないだろう。弱いんだから、大人しくしてろ。絶対に……私が守る。」

 その声に潜んでいた物は、目の前に悠然と佇む虎と同じ、狩猟者の物だった。
 もう、完全に戦闘モードへと移行してしまっている。こうなってしまった彼女に対して、下手に手を出せばこちらの被害が甚大になる事は、嫌と言う程知っていた。

 うん、しかし、そう言われてしまうと、何も言い返せないな。
 その実情は兎も角、発言だけ聞けば、非常に頼もしい物だ。
 まぁ、妹に守られるおっさんの図っていうのは、如何なものかと思わないでもない。
 そう思う一方で、春香の言う様に、今、ここで虎に襲われた場合、俺は何も出来ぬまま、噛み殺されるだろう事は、常識的に考えれば、至極当たり前の事だ。

 だが、なんでだろうな? どう考えても状況的に、降って沸いた様な、絶体絶命の図なのだが……その実、俺は、危機感という物をまるで感じていないのだ。
 それどころか、何故かあの虎が、俺に何かを伝えたがっている様にも見える。
 俺はその根拠のない感覚を確認すべく、春香の背中越しに、虎を見つめた。そして、俺の予想した通り、視線が絡み合う。

 着いてこい。

 そう言うが如く、虎は、あっさりと俺達に背中を見せ、そして確認する様に、振り返った。
 付き従うように、黒い小さな虎達も、背を見せ、そして、俺を見る。
 その目に、邪気は無く、不思議そうな色を湛えていた。
 来ないの? と言う声が聞こえそうな程、その瞳の色は純粋そのものである。

 傍から見たら、突然、背を向けた様に見えただろう。
 春香は、息を吐くも、その視線は未だ、背を向ける虎へと固定されていた。
 ふと見ると、柴田が若干緊張した面持ちで、俺らに見えない様、後ろ手に指を動かしている。
 大方、彼のSPにでも指示を送っているのだろう。何か物騒な気配がそこらかしこで湧き上がるのを俺は、何とも無しに感じていた。
 ちなみに、鈴君は、ちゃっかり、柴田の傍に寄り添うようにしながら、虎の方に視線を向けている。
 流石だ。その的確な自己保身の姿勢には、いっそ拍手すら送りたくなる。
 現段階で、一番安全を確保できる場所が何処なのか、瞬時に判断し、実行出来ているようだ。

 この中では唯一、春香がその事実を知らない訳だが……これは、突っ込むには酷と言うものだろう。

 まぁ、このまま暴走、突貫しなければ、安全は保障されているようなものだ。
 もっとも、目の前の相手が、只の、虎であるなら……だが。

 先程から、脳裏に何かの映像がチラつく。
 何故か、宙を飛ぶ、目の前の虎の姿。砂漠を疾駆する雄々しい姿。苦しそうに喘ぐ姿。そして、常に影の様に、俺に寄り添う、健気な姿。

 こいつは……敵じゃない。

 そして、同時に、この目の前で佇むそれは、虎では無い、何か別の生物だと、本能が告げる。
 再度、俺は虎の……いや、黄色い狩猟者の目を見る。
 その目に殺意は無い。ただ、俺をジッと見つめていた。まるで、何かを待つかのように。

 そうか。俺は、お前を知っているんだな?

 確信した。
 ならば、もう、行かねばならない。水の中から気泡が浮かび上がる様に、ごく自然に、そう思えた。

「ごめん、皆。俺、行かなきゃならないらしいわ。」

 突然の俺の言葉に、周りの皆がの視線が集まる。
 張り詰めた空気を纏っていた春香でさえ、一瞬、俺に目をやり、慌てて黄色い狩猟者へと視線を戻した。

「行くって、どこにさ?」

 この中で、唯一、心に余裕のあるであろう鈴君が、そう問いかけた。
 口は開かない物の、他の二人も同じ心境だろう。

「あいつが、呼んでる。だから、行かなきゃいけない。」

 俺は黄色い狩猟者を見つめながら、そう答える。そんな俺の言葉を受けて、そいつは、微かに目を閉じ……頷いたように見えた。
 やっぱり、そうなんだな。お前に着いていけばいいんだな?

「馬鹿か!? 兄貴、どうしたんだ!」

 春香が俺に背を向けたまま、焦ったように声を荒げる。
 まぁ、そりゃそうだよなぁ。いきなり、この状況でそんな事言われても、気がふれたとしか思えないよな。

「佐藤君、あの虎の気を引こうとしてる? もしそうなら、大丈夫だよ、もうすぐ配置が完了するから。」

 状況がほぼ固まりつつあるようで、少し落ち着きを取り戻したのか、柴田がそう指摘して来る。
 なるほど、俺が皆を逃がす為に、虎の気を引いて突貫でもすると思ったのだろう。

「いや、違うさ。あいつは俺達に危害を加えるつもりは無い。だから、柴田も、あいつを攻撃しないでくれ。」

「でも、虎だよ? 肉食の獣が目の前にいて、安心しろっていうのは無理があるよ。」

 柴田がすかさず、そう返す。
 まぁ、そりゃそうだ。至極もっともな意見に俺は苦笑する。そして、残念な事に、それを説得する言葉を俺は、持ち合わせていない。
 だから、こう返すしかなかった。

「そうだな。納得してくれとは言わないよ。だから、皆はここに居てくれ。俺は行く。あ、柴田、撃つなよ? 後ろから味方に撃たれるのはシャレにならんからな。」

 俺のそんな言葉に、親友の二人は言葉を失う。長い付き合いで分ってくれたのだろう。俺が本気だという事が。
 だが、一方、付き合いは長いはずの家族は、俺の言葉を聞いて、更に激昂する。

「兄貴、冗談が過ぎるぞ!」

 そう声を荒げた春香の頭を、俺は、後ろから優しく、ポンポンと叩く様に撫でる。
 不意の事で何をされたのか、一瞬、理解できなかったのだろう。
 思わず振り向いてしまった彼女の顔から表情が抜け落ち、そして、次の瞬間、ゆでだこの様に、良い色に染まる。
 全く、最後まで可愛い妹様だ。

「じゃあ、。楽しかったわ。」

 俺は春香の表情の変化を堪能すると、そんな言葉を残して、歩き始める。
 何故かはわからないが、もう、こいつらとは、会えない。おもむろに、そう理解した。
 だが、理解しても、それでも、未練はあったのだろう。だから、有り得ない再会を願って、そう言葉に残す。

「ちょ、待て! 兄貴! ……行かせない!」

 まぁ、春香なら、そうなるよなぁ。
 後ろから問答無用で俺を行動不能にしようと、襲い掛かる彼女の気配を感じ、俺は考える事も無く、自然と、身体強化と知覚強化を施す。
 彼女の行動が、その先が、全て手を取る様に読めてしまう。何て反則な。

 俺の襟へと伸びる彼女の腕を、最小の動作で軽く横へ払う。
 至近距離を過ぎる彼女の顔。そして、思わず漏れたであろう声が、俺の耳を掠める。

「えっ!?」

 そのまま重心の乗っている軸足を払うと、彼女の身体は冗談のように、音も無く浮き上がった。
 それを空中で抱きかかえ、慣性を殺しながら静かに、地面へと降ろす。

 何が起こったのか全く理解できないまま、地面へとへたり込む彼女の頭を再度撫でると、俺は、再度、皆に向かって声をかけた。

「今まで、ありがとうな。」

 皆の驚いた顔を見ながら、俺は苦笑すると、踵を返し、そのまま、黄色い狩猟者の元へと、一足飛びに近づく。
 だが、それを見越していたように、そいつは、大きく跳躍し、俺から距離を取った。

 んにゃろ。やっぱり、そう簡単に追いつかせてはくれないか。

 俺の行動をあざ笑うかのように、人様の家の屋根から、俺を見下ろすその姿を見て、着いて来いと、挑発する様な声が聞こえた気がした。

「ああ、絶対に追いついてやるよ。」

 俺は、知覚強化と、身体強化の段階を上げる。
 身体から粒子が一瞬立ち上ったように見えたが、そんな普通では無い光景も、もう、どうでも良かった。

 一歩踏み出すと、アスファルトの地面にヒビが入ったらしく、変な音が一瞬響いたが、もう気にしない。
 屋根へと降り立ち、更にその勢いのまま、黄色い狩猟者の後を追う。一応、足場を形成しながら、空中を跳ねる様に移動する。
 同時に、黄色い狩猟者も、空中をかける様に、目の前を跳躍していた。
 流石に、速い……。そんな奴の後を、空気を切り裂き、音を置いたまま、猛スピードで疾駆していく。

 現実を置き去りにしたまま、不自然な現象の数々を考えないようにして、俺はその滅茶苦茶な鬼ごっこに、興じたのだった。


 どの位、走り、跳んだだろうか?
 ふと、目の前に、大きな森が見えて来た。
 それは住宅地のど真ん中を侵食するかのように、不自然な規模でその姿を横たえている。

 いやいや、都会のど真ん中に、そんな森無いから。

 そう思うも、現実に、目の前にある物は否定しようがない。
 そして、そんな森の入口へと、黄色い狩猟者達が、降りたつ。

 一瞬、その狩猟者たちは、こちらを振り返り、そして、真っ黒に開いた入口へと、吸い込まれていくのを、俺は遠目に確認しつつ、遅れてその場所へと到達した。

 残念。やっぱり、そう簡単には追いつけなかったか。

 勝者の消え去った場所には、暗い入口が俺を見下ろす様に目の前に開いている。
 うっそうと茂った木々は、沈みかけた夕暮れの光を全く通さないのか、奥の様子を見通す事は出来ない。

 それを見て、恐らく、ここに入ったら、もう帰れないだろうなと、何とも無しに思う。
 振り返り、現実離れした自然の集合体から、俺は一旦目を背け、
 同じく、ある意味で俺の現実だった、都市へと目を向ける。

 高さのある場所だったからだろう。遠くに見えるビル群が微かに見えた。背の高いそれらが、夕映えに染まっていたが、それも直ぐに残照へと変わり、夜の帳が落ちる。

 あれは、新宿だろうか?

 まるでミニチュアの様に、整然と並ぶ住宅と、建物。
 日も落ちた事で、家々に明かりが灯る。その光の下には、それぞれの人の生活があって、それらが都市の中で混ざり合って、新しい生活を生む。
 人と人が当たり前のように触れあい、日々を生きる。
 目の前の光景が人の成し得た事だと言うのは、理解は出来ても、どれだけ尊い物だったかという事は、失う間際になって、改めて実感する事が出来た。

 人が作りし、人の為の理想郷。

 住む場所があり、食べる場所があり、楽しむ場所があり、学ぶ場所がある。
 そこには勿論、歪みもある。数えきれないほど多くの問題もある。
 だが、それでも、それを捨て去るには、あまりにも惜しいと感じる俺が、確かにいた。

 脳裏に家族の、妹の、親友達の姿が浮かぶ。
 皆と共に過ごし、老いていく未来もあるのかもしれない。
 いや、本当はそれが日常だった筈だ。

 だが、俺は行かないといけないんだろう。

 心の奥から湧き上がる、このもどかしいまでの衝動。
 俺の心は、進めと言っている。

 昔、俺は、自分自身に誓った。
 もう、自分を偽るのは辞めると。

 どん底へと落ちた時に、解った。
 せめて、日の当たる場所で、堂々と生きていけるようになろうと。

 なら、進もう。

 それが例え、自己満足だったとしても……それでも、その先にしか、俺の望みは無いのだから。

 俺は、踏み出す。
 夜を照らし暴く人口の光に背を向け、自然が作る暗闇へと。
 俺の望む物を手に入れる為。そして、その先へと進む為に。

 その歩を進めると、暗闇が優しく俺を包む。

 そうして、俺は、この世界から消え去ったのだった。

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