比翼の鳥
第18話 蜃気楼(18)
結局、あれから、揚羽は、溜まりに溜まった感情の全てを、これでもかと言う程、吐き出し続けた。
ちなみに、何分……いや、何時間続いたのかは、もう覚えていない。
それ程まで苛烈に、彼女は、泣き叫びながら、延々と鬱憤を晴らすかのように、話し続けたのだ。
俺は、そんな彼女の言葉を頷きながら、あやす様に背中をさすりつつ、一つずつ、聞いていった。
そんな彼女の言葉の中には、重要な情報もかなり多かった。
正直に言って、聞いた瞬間、驚きのあまり、さすっていた手を思わず止めてしまった位だ。だが、俺は取りあえず、聞き役に徹した。
そんな甲斐もあったのだろう。俺の胸に納まっていた彼女は、そのまま崩れ落ちると、今は静かに寝息を立てて、眠っていた。
ちなみに、彼女が俺の腰をガッチリと掴んで放さないので、俺がそのまま座り込んで胡坐をかいた上に、彼女が乗っかる形になっている。
「うにゅ……」
時折漏れる、意味不明の吐息に、俺は苦笑しながら、優しく彼女の頭を撫でる。
反射的になのか、はたまた良い夢でも見ているのか、彼女の顔がだらしなく緩んだ。
そんな彼女の姿を眺めつつ、俺は、ぼんやりとしたまま、彼女から得られた情報を整理する。
まず、一番の情報は、あの世界の状況だった。
滅びかけていると言う、彼女の談だったが、具体的な情報が、断片的に得られたのである。
そんな彼女の話をまとめてみた所、どうやら、俺はバラバラにされたらしい。
文字通り、5体を切り刻まれて、分割されたとの事だった。
昔、牛男のハリケーンなんたらで、分割された肉っぽい助士の姿を思い浮かべてしまうが、あれに近い状況のようだ。
驚いたことに、そんな状態でも、俺は生きているらしい。
うん、意味がわからない。俺は、人間を辞めているのだろうか?
まぁ、なんだか、俺の常識の通用しない世界でもあるので、そんな物なのかもしれないが。
兎に角、俺がこんな風に自我を持って存在しているのが、何よりの証明である事も確かなのだ。
で、俺の状況は、そんな面白いことになっている訳だが、更にその上を行くのが、その活用方法だった。
俺は、あの教皇を前にして、世界を縛るシステムを壊しにかかった。
叡智の輪冠による、獣人への呪縛を壊し、精霊への支配を一部壊した。
その結果、まず、獣人たちへの絶対的な支配に、綻びが出始めたらしく、獣人達を擁護する者や、組織が現れたらしい。
中には、勇者の何人かが、反旗を翻したとか何とか。
そりゃそうだ。本当なら人として、共に歩む道もあった所を、無理矢理に隷属させていたのだから。
今まで、化物や単なる便利な道具として認識していた物が、実は人間と同じような存在でしたって言われたら、今まで通りには行かないだろうさ。
俺達の世界で言えば、家電や機械が、ある日突然、人と同じような存在になるような物だ。
そんな俺の脳裏に、白物家電が可愛い女の子になった姿が浮かぶ。
うん、ありだな。……いや、じゃなくて。
まぁ、日本古来の妄想力を結集すれば、何でも擬人化できそうだから、イメージしやすい。日本万歳。
話をもとに戻そう。
それだけで済めば、まだ何とかなったのだろうが、もう一つ、問題が発生した。
全世界で魔法が使えなくなったらしいのだ。
これは、恐らくだが、俺が精霊への干渉を一部破壊したことが原因だと思われる。
人族の都市に来て……また、ライゼさんの使っていた魔法を見た時に、分かったのだが、人族の魔法は、基本的には、自分で魔法を発動していなかった。
俺やルナの場合は、俺のイメージと魔力を使って、俺自身の中で完結するように魔法を構築している。
だが、人族の使う魔法は、その発想が、根本的に違っており、精霊にその全てを任せていた。
差し詰め、人族の使う魔法は、精霊魔法と言ったほうが、正しいだろうか?
だから、人族達の魔法には、精霊が必須なのである。
だが、俺がその束縛を断ち切ったことによって、人族は、旧来の魔法を使えなくなったらしいのだ。
まぁ、ともかく、その2つの事が多大な影響を与えた結果、今まで一つに纏まっていた人族が、分裂をし始めたとの事だった。
更には、それと共に、多くの労働力を獣人達に頼っていた人族は、深刻な労働力不足に陥ったらしい。
そんな事が重なった結果、今まで、教団の絶大な権力によって維持していた統治機構が、根こそぎ崩れた。
挙げ句の果ては、教団に対して、反旗を翻す国家まで、現れたとのことだ。
そこで追い詰められた教皇が目をつけたのが、俺の体……と言うより、俺の膨大な魔力だったらしい。
どうやら、俺の体は分割されつつも、無尽蔵に魔力を放出し続けていたようで、それを利用して、新しい労働力の代わりとし始めたとの事だった。
俺は世を滅ぼそうとした魔王として討伐され、封印されたと言う形となり、家族達も散り散りになって、今も見つかっていないらしい。
教団は、俺の体の一部を封じ、無尽蔵の魔力源として、各国に提供する事で利権を確保。
それによって、人族は、労働力不足を解消し、更にそこから新しい技術である魔道具等の発展もあって、一気に繁栄の道を進み始めたとの事だ。
個人的には、何とも言い辛い状況ではあるが、俺の魔力が結果として、皆の役にたったのであれば、それはそれでありなのかなぁとか、思ってしまった。
思ってしまったのだが、その先に、落とし穴があったのだ。
まぁ、発展すればそれに伴って、需要も増える。そうすれば、供給量もうなぎ登りなわけで……。
結果として、全世界で、俺の体の一部から、膨大な魔力を供給し続けたらしい。
そもそも、国家レベルを支えられる魔力供給量ってなんだよって思わなくもないが、森で散々やらかした身としては、ありえない話じゃないなと、何処か当然の事として受け止められてしまう自分もいたりする。
でだ。そもそも、魔力というのは、拡散し、循環する。
これは、森で俺がやらかして実証したから、よく知っている。
ここまで来れば、もう分かると思うのだが、世界中で俺の魔力を使用した結果……世界の魔力が、俺の魔力に上書きされると言う自体が起こった。
森では閉鎖空間だったから、その変化は劇的ではあったが、今回はより広い範囲だった。
何せ世界規模の変化である。
それは、緩やかに、しかし、確実に進行していったらしい。
奇しくも新しい技術が次々と開発されていき、繁栄を疑わない人族達は、どんどんと、その恩恵に預かるようになる。
権力を浸透させたい教団の勧めもあって、俺の魔力は世界中に急速に浸透していったらしい。
その先は聞かずとも分かった。
そう、森の二の舞いである。
結果として、ある時を境に、世界中で黒い獣の目撃例が出始めた。
ただ、森と違ったことは、その獣が、人族も獣人族も関係なく、襲い始めたという事だ。
教団は、それを魔物と呼称し、駆逐の為に、勇者達を向かわせるようになったらしい。
しかし、魔物達は、時を経るごとに、減るどころか、どんどん増えていった。
最初の内は優勢だった人族も、徐々に、その数に対応できなくなり、被害は無視できない所まで膨れ上がる。
しかし、原因が分からず、後手後手に回った人族達は、有効な打開策も打てず、遂には魔物に襲われ滅亡する国家が出た。
実は、教皇だけは、早い段階で、この魔物発生の原因が、俺の魔力だという事は、気がついていたらしい。
だが、折角、作り直した統治機構を、また変える訳にも行かなかったとのことで、そのまま、ズルズルと今に至るらしい。
アホかと。
結果的に、俺が……いや、正確には、俺の魔力が世界を滅ぼす要因となっている訳だが、俺自身の当事者意識は限りなく低い。
俺から言わせれば、勝手に人の魔力を利用しておいて、勝手に滅びに突き進んでいると言った感じだろうか。
本来であるならば、放って置いても良いくらいだ。
だが、あの世界には、俺の家族達がいる。
それに、俺のように連れてこられた、中身のある人達もいるかもしれない。
まぁ、単なる自己満足だよな。
そんな物のために、俺は、元の世界を捨てるのか?
一瞬、脳裏に浮かんだ迷いを、俺は自覚する。
寡黙だがいつも俺を見守ってくれた父。
逆に過剰に過保護だが、いつも味方でいてくれた母。
ちょっと手が早いのが玉に瑕だが、可愛い妹。
俺を陰ながら支えてくれていた、親友たち。
塾の皆。生徒の皆。細かい繋がりがあり、その人達の笑顔が浮かぶ。
ふと、寂しそうに笑う、彼女の姿が一瞬過ぎった。
ルナ、君はそっちにいるんだろうな。
無性に会いたくなった。
家族でも親友でもなく、彼女に会いたくなった。
これは、強制された心の残滓なのだろうか? それとも、俺の本心なのだろうか?
分からない。分からないが、それでも、この胸の痛みは、確かなのだ。
そして、改めて問う。
それでも、俺は、このままここで、滅ぶ世界を見つめながら、のうのうと過ごすことが出来るだろうか?
彼女に会うため、皆に会うために、元の世界に帰ることだけを望み、あの世界にいるであろう人達を見捨てる事が出来るだろうか?
うん……無理だわ。
絶対に、後悔する。俺は、きっと、後悔して、そして、自分を責め続ける。
仕方なかったと心で言い訳しつつ、何度も思い出の中にいる人達に謝罪をしながら、残りの時間を過ごすことになるだろう。
冗談じゃない。
そんな日々は、もう沢山だよ。
選ばず、諦めて、言い訳をしながら、下を向いて生きるのは、もう沢山だ。
どの道、後悔する事になるならば、何かを選んで後悔するさ。
手遅れかもしれない。それが、どんなに馬鹿げたことだとしても。それでも、俺は行く。俺自身の為に。
「んぅ……」
そんな風に、思考の海に潜っていた俺を、彼女の声が浮かび上がらせる。
どうやら、お目覚めのようだ。
そんな彼女は、緩慢な動作で、俺の腰から手を放し、ノロノロと起き上がる。
そのチャンスに、俺は、さり気なく彼女を足の上から下ろし、少しだけ距離を取った。
寝ぼけているのだろう。周りを、ゆっくりと見回し、そして、フラフラしながらも、俺を視界に収めると、くわぁっと、あくびを一つ。
うん、女の子の寝起き姿って、妙に可愛いらしく思える時があるよな。
妹様も、時々、こんな緩い姿を見せることがあったのを、何となく思い出しながら、彼女の様子を見守る。
「あれ……お兄さん?」
「うん、おはよう」
「私……なんで……」
そう呟きながらも、徐々に記憶が蘇って来たのだろう。
目に徐々に光が戻ってくると同時に、ワナワナと震え始める、揚羽。
「あああああ!? わた、し……ぬぁああああ!?」
その叫び声は、女性としてどうなんだと思いつつ、面白いので、目の前で悶える彼女を、そのまま眺める。
一通り悶え尽くして、ニヤニヤと笑いながら見ている俺に、改めて気がついたのだろう。
一瞬、悔しそうに表情を歪ませるも、すぐにそっぽを向くと、少し大きな声で、叫ぶように俺へと言葉をぶつけてきた。
「う、ううぅ……。い、色々、余計な事しゃべっちゃったけど、わ、わかったでしょ! だからもう、お兄さん、ここにいてよ!」
その後、「わ、私だって、もう、行く所、ないし……その方が楽しそうだし……」とか、小声で付け足す揚羽を見て、俺は苦笑するも、自分の意志をはっきりと、口にする。
「いや、俺は行くよ」
「そうよね。ここに、残るわよね。……って、え? ちょっと待って、お兄さん、今なんて?」
「俺は行く。ごめんな、揚羽。残ってやれなくて。」
そんな俺の言葉が、理解できないとでも言うように、首を振る揚羽。
そんな様子の彼女を見て、一瞬、心が痛む。
そうだな。出来るなら残ってやりたいとも思う。
彼女が泣きながら語った内容を思えば、同情の余地は十分にあった。
だから、俺は、彼女がしたことについて、これ以上、責める気にはなれなかった。
でも……それでも、俺は行く。行かねばならない。
「何で? だって、行く必要、無いよ、ね? お兄さん、もう、許してくれるって……」
「うん。俺は揚羽のことを憎めない。事情もわかったから」
「じゃあ、何で? おかしいよ。何の為に、行くの? 意味ないよ?」
首を振りながら、そう弱々しく呟く彼女は、そうは言いつつも、俺の決意の硬さが分かっているようだった。
だが、全く理解は出来ないと言った所だろう。そうだろうな。俺も同じ立場なら、そう思うかもしれない。
「家族が、仲間がいるからね。流石に見捨てられないよ」
俺のそんな言葉に、彼女は何かを思い出したように、その思いつきを言葉にする。
「あ、連れてきた人達の事? だったら、私、頑張るから。」
そう言いつつも、何となく違うというのは彼女も薄々感づいているのだろう。
俺が首を振るのを見て、彼女も首を振る。
「何で? 何でよ! もしかして、タカシの事!? あんな奴、もう良いじゃない!」
そんな彼女の叫び声に対しても、俺は黙って首を振る。
彼女も、理解できないと言うように、何度も首を振る。
「俺は、お世話になった人達を、獣人達を、人族の皆を、救いに行きたい。まぁ、何が出来るか分からないけどさ。」
そんな俺の言葉を、どこか達観した表情を浮かべつつ受け止めた彼女は、それでも、すがるように口を開いた。
「そ、そっか。お兄さん、分かってないんだよね? あは、お兄さん、勘違いしているんだよ」
そんな彼女の言葉に、俺は一抹の寂しさを覚えつつ、微笑んだ。
それで彼女は理解したはずだ。だが、信じたくないんだろうな。首を振りつつ、俺から距離を取るように後ずさる。
「嘘でしょ? わかっているんでしょ? 本当は……あの世界の人達が偽物だって事くらい。ねぇ! お兄さん!!」
「ああ、わかっているつもりだよ。」
俺の肯定の言葉に、改めて、衝撃を受けたように、後ずさる彼女。
ああ、認めたくなかったし、そう思いたくはなかったけど、分かっているさ。
あの世界の人族……いや、人族だけじゃない。獣人族や、恐らく、俺の生み出した新生代も、全ての生き物たちが、仮初の物だってことくらいさ。
思えば、最初から不思議なことだらけだった。
ルナの事もそうだが、ルカールの皆も、森の全てが、あまりにも上手く行き過ぎていた。
最初は、単に運が良いだけと思っていた。
与えられた幸運を享受しているだけだと思っていた。
だが、徐々に、元の世界との違いが明確になるにつれ、俺はある種の漠然とした不安を、心の奥に抱えるようになったのだ。
代謝や排泄、生殖のない世界。
魔力で代替できる生命維持。
ここまでは、そういう物だと思えばよかった。
だが、魔法とその効果の都合の良さ。
更には、住人達の都合の良い解釈と好意。
そもそも、現代を生きていた俺だったら知っていたはずだ。
好意もあれば敵意もあるはず。
それは、一部、形となって現れたが、都合よく全てが俺の望むように推移していった。
ここに至り、俺は疑いを持つようになった。
そして、極めつけは、桜花さんの最後の言葉だ。
駒、消費される部品、自我の欠片。
これは何を指すんだろうか? 言うまでもなく、彼ら自身の事だろう。
ならば、彼らは、本来、自我はなく、消費されるだけの部品でしか無いと言う事になるではないか。
それは、果たして人、なのだろうか?
恐らくは、俺に……いや、あの世界に呼ばれた者を満足させる為の、存在でしか無かったのではないだろうか?
ゲームで言う、NPC……つまりは、人形だ。
俺というゲームプレイヤーを満足させる為に、生み出された架空の存在。
勇者達にとっては、慰みものであり、狩の獲物であり、罪悪感を抱くこともない便利な存在。
それが、彼らの本当の姿だとするならば、綺麗に説明がついてしまう。
都合の良い好感も、上手くいく事態も全てが、そうあるべくして用意されていたなら不思議はないからだ。
ただ、幾つか、疑問点も残っている。それだけでは、説明のつかないこともある。
しかし、その事を加味しても、続く彼女の言葉が、俺の推測が正しいことであると、証明した。
「ねぇ……お兄さん、あの世界に、お兄さんと同じ人は、もう、殆どいないんだよ? お兄さんの大事に思っている人達も、皆、人形なんだよ? 用意されたものなんだよ? 中身がいないんだよ? ねぇ、お兄さん、おかしいよ!!」
「そうだな。自分でも、ちょっとおかしいとは思うよ。」
「何でよ!? 人形なんだよ!? 私や先輩より、元の世界の人達より、あんな、人形達の方が大事だっていうの!?」
そう泣き叫ぶ彼女に、俺は苦笑を返すことしか出来ない。
全くもってその通りだ。見方によっては、そう取られてしまっても仕方ないと思う。
「どっちも大切な人達だよ。」
「同列に並べないでよ! 中身のないあんな木偶と、私を一緒にしないでよ!?」
感情的になった彼女の言葉に、俺は胸が痛む。
そうだよな。そう叫びたくなる気持ちは、分かるつもりだ。
仮にだが、恋人がいたとして、その恋人に、ゲームのキャラと自分のどっちが好きかって聞いたとしよう。
その答えが、ゲームのキャラも君も同じだって言われたら……嫌な気持ちになる人だっているのではないだろうか?
けど、だけどね……俺には、どうしても、彼女たちと過ごした日々が、偽物とは思えないんだよな。
いや、もっと言えば、皆と過ごした日々が、俺の思いが、偽物による物だったとしても、俺は構わないんだ。
感じた思いに、経験したその事に、嘘も本当もないんだよ。
ゲームだってそう。読書だってそう。映画だって、ドラマだって、何でもそう。
架空だろうが何だろうが、その時に自分の中に湧き上がった想いは、俺の物だろう?
嬉しかったり、悲しかったり、怒ったり……そんな事の積み重ねに、嘘も本当もないじゃないか。
なら、良いじゃないか。俺はそんな想いに従って、行動するさ。
だから、結局、俺はこうするしかないんだよな。
「うん、揚羽は揚羽だ。けど、俺の中では、あの世界の人達も、君も、違いは無いんだよ。」
俺はそう言いながら、徐ろに立ち上がる。
そんな俺の動作を、ただ黙って見守る彼女。その姿は、何かを悟ったようでもあった。
「じゃあ、俺、行くから。……今まで、ありがとうね。」
俺の言葉をただ、首を振って受け止める彼女の姿は、酷く痛々しく見える。
だから、そんな彼女からの視線を振り切るように、俺は踵を返すと、歩を進めた。
「嫌だよぉ……こんなの、無いよぉ……絶対に、変だよ!!!」
そんな彼女叫びが俺の背を叩く。しかし、それを振り切るように、俺は歩を進めた。
やがて、その声は、小さくなり、聞こえなくなった。
それでも、俺の感覚の命ずるままに、進み続ける。
揚羽もそう。元の世界の人達だってそう。
選べと言われて、俺は選んだ。
だが、俺は諦めてなんかいない。どっちも、掴む。だからこそ、今は行く。
「そうさ、俺は、欲張りに生きていくって決めたからな。」
望むのはタダだ。だったら、少し位、欲張りになったって、良いじゃないか。
俺がそう思った時、目の前の空間が裂け、光が溢れる。
それは、まるで、俺の言葉を肯定するかのように、感じられた。
「皆、今、行くからな……」
光の中へと、身を踊らせる。
次の瞬間、全身を包む浮遊感に、俺は逆らわず、身を任せたのだった。
遠くから何かの音が聞こえる。
それは、徐々に、俺の耳に馴染み、精度を増していった。
これは……泣き声?
そう、泣き声だ。しかも、この断続的に響くような声は、赤ん坊の物だろうか?
「……ま……」
ふと、遠くから声が聞こえた。
その声には、何故か懐かしさが滲んでいた。
「……さ……さま」
知っている。
俺は、この声の主を知っている。
そうだ。この声は……。
「つ……さ、様!!」
脳裏に、ちょっとおっちょこちょいだけど、心の優しい少女の笑顔が浮かぶ。
金色の髪の間に鎮座する耳が忙しなく動く。
それは、徐々に、形を成していき……。
「ツバサ様!!」
その声で、俺の意識は完全に浮上した。
目の前には、俺の知っている少女の姿。
ああ、リリーだ。リリーが眼の前にいる。
俺の視界を独占するかのように、リリーの顔が間近にあった。
その表情は、涙に濡れているものの、ホッとしたような笑みを浮かべている。
何だか少しやつれたか? 何故かボヤケた視界に映る彼女の頬は、やや細くなった印象を受ける。
「ああ、ツバサ様! お分かりになりますか!? 私です! リリーです!」
何かの音が邪魔をして聞き取りにくい上に、ボヤケた視界に苛つきつつ、改めてよく見ると、彼女の頬に、大きな傷跡があった。
なんて痛々しい……ああ、彼女も苦労したのだろうか?
手を伸ばし彼女の頬に触れようとしたが、体が思うように動かない。
何とか懸命に手を伸ばしたが、どうにも彼女の頬に触れた感触が帰ってこないのだ。
あれ? 何か遠い……と言うか、届かない?
ふと視界の端に何か肌色の物体を確認し、俺は首を傾げる。
それは、小さな手のように見えた。
俺が手を握ると、それも形を変える。ぐーぱーぐーぱー。
もう、愛らしいとしか形容のしようがない、小さな五本指が俺の意志に合わせて動く。
うん、凄く嫌な予感しかしない。
俺は口を開こうとして……既に開きっぱなしになっている事を、この時に初めて認識した。
先程から雑音のような、騒音のような音が響いているが、どうやら、それは俺の口から漏れ出ているようだ。
「ツバサ様、お辛いですか? あ、もしかして、お腹が空いておられるとか……?」
いや、辛くはないんだけど、体が思うように動かない。
そう答えたかったのだが、口が勝手に動いているので、言葉を発することも出来ない。
どうやら、先程から視界が妙にぼやけると思っていたが、俺は今、盛大に泣いていると、自覚するに至る。
つまり、この状況は……。
「ひ、貧相な物ですが、よ、宜しければどうぞ。ツバサ様でしたら、幾らでも……。」
俺が事態を把握する間もなく、リリーは突然、服をはだけると、上半身を露わにした。
え!? ちょ、リリーさん!? いつからそんな大胆に!?
そう叫んだつもりだったが、それは声にはならなかった。
しかも、リリーは俺を抱きかかえると、その乳房に俺の口をあてがおうとした。
そんな目の前に飛び込んで来た控えめな双丘に、俺の体が勝手に反応する。
ああ、何か甘い匂いが……美味しそうな……って、ちょっと待てぇえ!?
そう精神力で乗り切ろうと全力で抵抗しようとしたが……そんな俺の意思とは関係なく、体は勝手に動いてしまった。
結果、羞恥心と、罪悪感と、多幸感を同時に感じながら、身体的に満足した俺は、強烈な眠気に引きずられ、その意識を失ったのだった。
ちなみに、何分……いや、何時間続いたのかは、もう覚えていない。
それ程まで苛烈に、彼女は、泣き叫びながら、延々と鬱憤を晴らすかのように、話し続けたのだ。
俺は、そんな彼女の言葉を頷きながら、あやす様に背中をさすりつつ、一つずつ、聞いていった。
そんな彼女の言葉の中には、重要な情報もかなり多かった。
正直に言って、聞いた瞬間、驚きのあまり、さすっていた手を思わず止めてしまった位だ。だが、俺は取りあえず、聞き役に徹した。
そんな甲斐もあったのだろう。俺の胸に納まっていた彼女は、そのまま崩れ落ちると、今は静かに寝息を立てて、眠っていた。
ちなみに、彼女が俺の腰をガッチリと掴んで放さないので、俺がそのまま座り込んで胡坐をかいた上に、彼女が乗っかる形になっている。
「うにゅ……」
時折漏れる、意味不明の吐息に、俺は苦笑しながら、優しく彼女の頭を撫でる。
反射的になのか、はたまた良い夢でも見ているのか、彼女の顔がだらしなく緩んだ。
そんな彼女の姿を眺めつつ、俺は、ぼんやりとしたまま、彼女から得られた情報を整理する。
まず、一番の情報は、あの世界の状況だった。
滅びかけていると言う、彼女の談だったが、具体的な情報が、断片的に得られたのである。
そんな彼女の話をまとめてみた所、どうやら、俺はバラバラにされたらしい。
文字通り、5体を切り刻まれて、分割されたとの事だった。
昔、牛男のハリケーンなんたらで、分割された肉っぽい助士の姿を思い浮かべてしまうが、あれに近い状況のようだ。
驚いたことに、そんな状態でも、俺は生きているらしい。
うん、意味がわからない。俺は、人間を辞めているのだろうか?
まぁ、なんだか、俺の常識の通用しない世界でもあるので、そんな物なのかもしれないが。
兎に角、俺がこんな風に自我を持って存在しているのが、何よりの証明である事も確かなのだ。
で、俺の状況は、そんな面白いことになっている訳だが、更にその上を行くのが、その活用方法だった。
俺は、あの教皇を前にして、世界を縛るシステムを壊しにかかった。
叡智の輪冠による、獣人への呪縛を壊し、精霊への支配を一部壊した。
その結果、まず、獣人たちへの絶対的な支配に、綻びが出始めたらしく、獣人達を擁護する者や、組織が現れたらしい。
中には、勇者の何人かが、反旗を翻したとか何とか。
そりゃそうだ。本当なら人として、共に歩む道もあった所を、無理矢理に隷属させていたのだから。
今まで、化物や単なる便利な道具として認識していた物が、実は人間と同じような存在でしたって言われたら、今まで通りには行かないだろうさ。
俺達の世界で言えば、家電や機械が、ある日突然、人と同じような存在になるような物だ。
そんな俺の脳裏に、白物家電が可愛い女の子になった姿が浮かぶ。
うん、ありだな。……いや、じゃなくて。
まぁ、日本古来の妄想力を結集すれば、何でも擬人化できそうだから、イメージしやすい。日本万歳。
話をもとに戻そう。
それだけで済めば、まだ何とかなったのだろうが、もう一つ、問題が発生した。
全世界で魔法が使えなくなったらしいのだ。
これは、恐らくだが、俺が精霊への干渉を一部破壊したことが原因だと思われる。
人族の都市に来て……また、ライゼさんの使っていた魔法を見た時に、分かったのだが、人族の魔法は、基本的には、自分で魔法を発動していなかった。
俺やルナの場合は、俺のイメージと魔力を使って、俺自身の中で完結するように魔法を構築している。
だが、人族の使う魔法は、その発想が、根本的に違っており、精霊にその全てを任せていた。
差し詰め、人族の使う魔法は、精霊魔法と言ったほうが、正しいだろうか?
だから、人族達の魔法には、精霊が必須なのである。
だが、俺がその束縛を断ち切ったことによって、人族は、旧来の魔法を使えなくなったらしいのだ。
まぁ、ともかく、その2つの事が多大な影響を与えた結果、今まで一つに纏まっていた人族が、分裂をし始めたとの事だった。
更には、それと共に、多くの労働力を獣人達に頼っていた人族は、深刻な労働力不足に陥ったらしい。
そんな事が重なった結果、今まで、教団の絶大な権力によって維持していた統治機構が、根こそぎ崩れた。
挙げ句の果ては、教団に対して、反旗を翻す国家まで、現れたとのことだ。
そこで追い詰められた教皇が目をつけたのが、俺の体……と言うより、俺の膨大な魔力だったらしい。
どうやら、俺の体は分割されつつも、無尽蔵に魔力を放出し続けていたようで、それを利用して、新しい労働力の代わりとし始めたとの事だった。
俺は世を滅ぼそうとした魔王として討伐され、封印されたと言う形となり、家族達も散り散りになって、今も見つかっていないらしい。
教団は、俺の体の一部を封じ、無尽蔵の魔力源として、各国に提供する事で利権を確保。
それによって、人族は、労働力不足を解消し、更にそこから新しい技術である魔道具等の発展もあって、一気に繁栄の道を進み始めたとの事だ。
個人的には、何とも言い辛い状況ではあるが、俺の魔力が結果として、皆の役にたったのであれば、それはそれでありなのかなぁとか、思ってしまった。
思ってしまったのだが、その先に、落とし穴があったのだ。
まぁ、発展すればそれに伴って、需要も増える。そうすれば、供給量もうなぎ登りなわけで……。
結果として、全世界で、俺の体の一部から、膨大な魔力を供給し続けたらしい。
そもそも、国家レベルを支えられる魔力供給量ってなんだよって思わなくもないが、森で散々やらかした身としては、ありえない話じゃないなと、何処か当然の事として受け止められてしまう自分もいたりする。
でだ。そもそも、魔力というのは、拡散し、循環する。
これは、森で俺がやらかして実証したから、よく知っている。
ここまで来れば、もう分かると思うのだが、世界中で俺の魔力を使用した結果……世界の魔力が、俺の魔力に上書きされると言う自体が起こった。
森では閉鎖空間だったから、その変化は劇的ではあったが、今回はより広い範囲だった。
何せ世界規模の変化である。
それは、緩やかに、しかし、確実に進行していったらしい。
奇しくも新しい技術が次々と開発されていき、繁栄を疑わない人族達は、どんどんと、その恩恵に預かるようになる。
権力を浸透させたい教団の勧めもあって、俺の魔力は世界中に急速に浸透していったらしい。
その先は聞かずとも分かった。
そう、森の二の舞いである。
結果として、ある時を境に、世界中で黒い獣の目撃例が出始めた。
ただ、森と違ったことは、その獣が、人族も獣人族も関係なく、襲い始めたという事だ。
教団は、それを魔物と呼称し、駆逐の為に、勇者達を向かわせるようになったらしい。
しかし、魔物達は、時を経るごとに、減るどころか、どんどん増えていった。
最初の内は優勢だった人族も、徐々に、その数に対応できなくなり、被害は無視できない所まで膨れ上がる。
しかし、原因が分からず、後手後手に回った人族達は、有効な打開策も打てず、遂には魔物に襲われ滅亡する国家が出た。
実は、教皇だけは、早い段階で、この魔物発生の原因が、俺の魔力だという事は、気がついていたらしい。
だが、折角、作り直した統治機構を、また変える訳にも行かなかったとのことで、そのまま、ズルズルと今に至るらしい。
アホかと。
結果的に、俺が……いや、正確には、俺の魔力が世界を滅ぼす要因となっている訳だが、俺自身の当事者意識は限りなく低い。
俺から言わせれば、勝手に人の魔力を利用しておいて、勝手に滅びに突き進んでいると言った感じだろうか。
本来であるならば、放って置いても良いくらいだ。
だが、あの世界には、俺の家族達がいる。
それに、俺のように連れてこられた、中身のある人達もいるかもしれない。
まぁ、単なる自己満足だよな。
そんな物のために、俺は、元の世界を捨てるのか?
一瞬、脳裏に浮かんだ迷いを、俺は自覚する。
寡黙だがいつも俺を見守ってくれた父。
逆に過剰に過保護だが、いつも味方でいてくれた母。
ちょっと手が早いのが玉に瑕だが、可愛い妹。
俺を陰ながら支えてくれていた、親友たち。
塾の皆。生徒の皆。細かい繋がりがあり、その人達の笑顔が浮かぶ。
ふと、寂しそうに笑う、彼女の姿が一瞬過ぎった。
ルナ、君はそっちにいるんだろうな。
無性に会いたくなった。
家族でも親友でもなく、彼女に会いたくなった。
これは、強制された心の残滓なのだろうか? それとも、俺の本心なのだろうか?
分からない。分からないが、それでも、この胸の痛みは、確かなのだ。
そして、改めて問う。
それでも、俺は、このままここで、滅ぶ世界を見つめながら、のうのうと過ごすことが出来るだろうか?
彼女に会うため、皆に会うために、元の世界に帰ることだけを望み、あの世界にいるであろう人達を見捨てる事が出来るだろうか?
うん……無理だわ。
絶対に、後悔する。俺は、きっと、後悔して、そして、自分を責め続ける。
仕方なかったと心で言い訳しつつ、何度も思い出の中にいる人達に謝罪をしながら、残りの時間を過ごすことになるだろう。
冗談じゃない。
そんな日々は、もう沢山だよ。
選ばず、諦めて、言い訳をしながら、下を向いて生きるのは、もう沢山だ。
どの道、後悔する事になるならば、何かを選んで後悔するさ。
手遅れかもしれない。それが、どんなに馬鹿げたことだとしても。それでも、俺は行く。俺自身の為に。
「んぅ……」
そんな風に、思考の海に潜っていた俺を、彼女の声が浮かび上がらせる。
どうやら、お目覚めのようだ。
そんな彼女は、緩慢な動作で、俺の腰から手を放し、ノロノロと起き上がる。
そのチャンスに、俺は、さり気なく彼女を足の上から下ろし、少しだけ距離を取った。
寝ぼけているのだろう。周りを、ゆっくりと見回し、そして、フラフラしながらも、俺を視界に収めると、くわぁっと、あくびを一つ。
うん、女の子の寝起き姿って、妙に可愛いらしく思える時があるよな。
妹様も、時々、こんな緩い姿を見せることがあったのを、何となく思い出しながら、彼女の様子を見守る。
「あれ……お兄さん?」
「うん、おはよう」
「私……なんで……」
そう呟きながらも、徐々に記憶が蘇って来たのだろう。
目に徐々に光が戻ってくると同時に、ワナワナと震え始める、揚羽。
「あああああ!? わた、し……ぬぁああああ!?」
その叫び声は、女性としてどうなんだと思いつつ、面白いので、目の前で悶える彼女を、そのまま眺める。
一通り悶え尽くして、ニヤニヤと笑いながら見ている俺に、改めて気がついたのだろう。
一瞬、悔しそうに表情を歪ませるも、すぐにそっぽを向くと、少し大きな声で、叫ぶように俺へと言葉をぶつけてきた。
「う、ううぅ……。い、色々、余計な事しゃべっちゃったけど、わ、わかったでしょ! だからもう、お兄さん、ここにいてよ!」
その後、「わ、私だって、もう、行く所、ないし……その方が楽しそうだし……」とか、小声で付け足す揚羽を見て、俺は苦笑するも、自分の意志をはっきりと、口にする。
「いや、俺は行くよ」
「そうよね。ここに、残るわよね。……って、え? ちょっと待って、お兄さん、今なんて?」
「俺は行く。ごめんな、揚羽。残ってやれなくて。」
そんな俺の言葉が、理解できないとでも言うように、首を振る揚羽。
そんな様子の彼女を見て、一瞬、心が痛む。
そうだな。出来るなら残ってやりたいとも思う。
彼女が泣きながら語った内容を思えば、同情の余地は十分にあった。
だから、俺は、彼女がしたことについて、これ以上、責める気にはなれなかった。
でも……それでも、俺は行く。行かねばならない。
「何で? だって、行く必要、無いよ、ね? お兄さん、もう、許してくれるって……」
「うん。俺は揚羽のことを憎めない。事情もわかったから」
「じゃあ、何で? おかしいよ。何の為に、行くの? 意味ないよ?」
首を振りながら、そう弱々しく呟く彼女は、そうは言いつつも、俺の決意の硬さが分かっているようだった。
だが、全く理解は出来ないと言った所だろう。そうだろうな。俺も同じ立場なら、そう思うかもしれない。
「家族が、仲間がいるからね。流石に見捨てられないよ」
俺のそんな言葉に、彼女は何かを思い出したように、その思いつきを言葉にする。
「あ、連れてきた人達の事? だったら、私、頑張るから。」
そう言いつつも、何となく違うというのは彼女も薄々感づいているのだろう。
俺が首を振るのを見て、彼女も首を振る。
「何で? 何でよ! もしかして、タカシの事!? あんな奴、もう良いじゃない!」
そんな彼女の叫び声に対しても、俺は黙って首を振る。
彼女も、理解できないと言うように、何度も首を振る。
「俺は、お世話になった人達を、獣人達を、人族の皆を、救いに行きたい。まぁ、何が出来るか分からないけどさ。」
そんな俺の言葉を、どこか達観した表情を浮かべつつ受け止めた彼女は、それでも、すがるように口を開いた。
「そ、そっか。お兄さん、分かってないんだよね? あは、お兄さん、勘違いしているんだよ」
そんな彼女の言葉に、俺は一抹の寂しさを覚えつつ、微笑んだ。
それで彼女は理解したはずだ。だが、信じたくないんだろうな。首を振りつつ、俺から距離を取るように後ずさる。
「嘘でしょ? わかっているんでしょ? 本当は……あの世界の人達が偽物だって事くらい。ねぇ! お兄さん!!」
「ああ、わかっているつもりだよ。」
俺の肯定の言葉に、改めて、衝撃を受けたように、後ずさる彼女。
ああ、認めたくなかったし、そう思いたくはなかったけど、分かっているさ。
あの世界の人族……いや、人族だけじゃない。獣人族や、恐らく、俺の生み出した新生代も、全ての生き物たちが、仮初の物だってことくらいさ。
思えば、最初から不思議なことだらけだった。
ルナの事もそうだが、ルカールの皆も、森の全てが、あまりにも上手く行き過ぎていた。
最初は、単に運が良いだけと思っていた。
与えられた幸運を享受しているだけだと思っていた。
だが、徐々に、元の世界との違いが明確になるにつれ、俺はある種の漠然とした不安を、心の奥に抱えるようになったのだ。
代謝や排泄、生殖のない世界。
魔力で代替できる生命維持。
ここまでは、そういう物だと思えばよかった。
だが、魔法とその効果の都合の良さ。
更には、住人達の都合の良い解釈と好意。
そもそも、現代を生きていた俺だったら知っていたはずだ。
好意もあれば敵意もあるはず。
それは、一部、形となって現れたが、都合よく全てが俺の望むように推移していった。
ここに至り、俺は疑いを持つようになった。
そして、極めつけは、桜花さんの最後の言葉だ。
駒、消費される部品、自我の欠片。
これは何を指すんだろうか? 言うまでもなく、彼ら自身の事だろう。
ならば、彼らは、本来、自我はなく、消費されるだけの部品でしか無いと言う事になるではないか。
それは、果たして人、なのだろうか?
恐らくは、俺に……いや、あの世界に呼ばれた者を満足させる為の、存在でしか無かったのではないだろうか?
ゲームで言う、NPC……つまりは、人形だ。
俺というゲームプレイヤーを満足させる為に、生み出された架空の存在。
勇者達にとっては、慰みものであり、狩の獲物であり、罪悪感を抱くこともない便利な存在。
それが、彼らの本当の姿だとするならば、綺麗に説明がついてしまう。
都合の良い好感も、上手くいく事態も全てが、そうあるべくして用意されていたなら不思議はないからだ。
ただ、幾つか、疑問点も残っている。それだけでは、説明のつかないこともある。
しかし、その事を加味しても、続く彼女の言葉が、俺の推測が正しいことであると、証明した。
「ねぇ……お兄さん、あの世界に、お兄さんと同じ人は、もう、殆どいないんだよ? お兄さんの大事に思っている人達も、皆、人形なんだよ? 用意されたものなんだよ? 中身がいないんだよ? ねぇ、お兄さん、おかしいよ!!」
「そうだな。自分でも、ちょっとおかしいとは思うよ。」
「何でよ!? 人形なんだよ!? 私や先輩より、元の世界の人達より、あんな、人形達の方が大事だっていうの!?」
そう泣き叫ぶ彼女に、俺は苦笑を返すことしか出来ない。
全くもってその通りだ。見方によっては、そう取られてしまっても仕方ないと思う。
「どっちも大切な人達だよ。」
「同列に並べないでよ! 中身のないあんな木偶と、私を一緒にしないでよ!?」
感情的になった彼女の言葉に、俺は胸が痛む。
そうだよな。そう叫びたくなる気持ちは、分かるつもりだ。
仮にだが、恋人がいたとして、その恋人に、ゲームのキャラと自分のどっちが好きかって聞いたとしよう。
その答えが、ゲームのキャラも君も同じだって言われたら……嫌な気持ちになる人だっているのではないだろうか?
けど、だけどね……俺には、どうしても、彼女たちと過ごした日々が、偽物とは思えないんだよな。
いや、もっと言えば、皆と過ごした日々が、俺の思いが、偽物による物だったとしても、俺は構わないんだ。
感じた思いに、経験したその事に、嘘も本当もないんだよ。
ゲームだってそう。読書だってそう。映画だって、ドラマだって、何でもそう。
架空だろうが何だろうが、その時に自分の中に湧き上がった想いは、俺の物だろう?
嬉しかったり、悲しかったり、怒ったり……そんな事の積み重ねに、嘘も本当もないじゃないか。
なら、良いじゃないか。俺はそんな想いに従って、行動するさ。
だから、結局、俺はこうするしかないんだよな。
「うん、揚羽は揚羽だ。けど、俺の中では、あの世界の人達も、君も、違いは無いんだよ。」
俺はそう言いながら、徐ろに立ち上がる。
そんな俺の動作を、ただ黙って見守る彼女。その姿は、何かを悟ったようでもあった。
「じゃあ、俺、行くから。……今まで、ありがとうね。」
俺の言葉をただ、首を振って受け止める彼女の姿は、酷く痛々しく見える。
だから、そんな彼女からの視線を振り切るように、俺は踵を返すと、歩を進めた。
「嫌だよぉ……こんなの、無いよぉ……絶対に、変だよ!!!」
そんな彼女叫びが俺の背を叩く。しかし、それを振り切るように、俺は歩を進めた。
やがて、その声は、小さくなり、聞こえなくなった。
それでも、俺の感覚の命ずるままに、進み続ける。
揚羽もそう。元の世界の人達だってそう。
選べと言われて、俺は選んだ。
だが、俺は諦めてなんかいない。どっちも、掴む。だからこそ、今は行く。
「そうさ、俺は、欲張りに生きていくって決めたからな。」
望むのはタダだ。だったら、少し位、欲張りになったって、良いじゃないか。
俺がそう思った時、目の前の空間が裂け、光が溢れる。
それは、まるで、俺の言葉を肯定するかのように、感じられた。
「皆、今、行くからな……」
光の中へと、身を踊らせる。
次の瞬間、全身を包む浮遊感に、俺は逆らわず、身を任せたのだった。
遠くから何かの音が聞こえる。
それは、徐々に、俺の耳に馴染み、精度を増していった。
これは……泣き声?
そう、泣き声だ。しかも、この断続的に響くような声は、赤ん坊の物だろうか?
「……ま……」
ふと、遠くから声が聞こえた。
その声には、何故か懐かしさが滲んでいた。
「……さ……さま」
知っている。
俺は、この声の主を知っている。
そうだ。この声は……。
「つ……さ、様!!」
脳裏に、ちょっとおっちょこちょいだけど、心の優しい少女の笑顔が浮かぶ。
金色の髪の間に鎮座する耳が忙しなく動く。
それは、徐々に、形を成していき……。
「ツバサ様!!」
その声で、俺の意識は完全に浮上した。
目の前には、俺の知っている少女の姿。
ああ、リリーだ。リリーが眼の前にいる。
俺の視界を独占するかのように、リリーの顔が間近にあった。
その表情は、涙に濡れているものの、ホッとしたような笑みを浮かべている。
何だか少しやつれたか? 何故かボヤケた視界に映る彼女の頬は、やや細くなった印象を受ける。
「ああ、ツバサ様! お分かりになりますか!? 私です! リリーです!」
何かの音が邪魔をして聞き取りにくい上に、ボヤケた視界に苛つきつつ、改めてよく見ると、彼女の頬に、大きな傷跡があった。
なんて痛々しい……ああ、彼女も苦労したのだろうか?
手を伸ばし彼女の頬に触れようとしたが、体が思うように動かない。
何とか懸命に手を伸ばしたが、どうにも彼女の頬に触れた感触が帰ってこないのだ。
あれ? 何か遠い……と言うか、届かない?
ふと視界の端に何か肌色の物体を確認し、俺は首を傾げる。
それは、小さな手のように見えた。
俺が手を握ると、それも形を変える。ぐーぱーぐーぱー。
もう、愛らしいとしか形容のしようがない、小さな五本指が俺の意志に合わせて動く。
うん、凄く嫌な予感しかしない。
俺は口を開こうとして……既に開きっぱなしになっている事を、この時に初めて認識した。
先程から雑音のような、騒音のような音が響いているが、どうやら、それは俺の口から漏れ出ているようだ。
「ツバサ様、お辛いですか? あ、もしかして、お腹が空いておられるとか……?」
いや、辛くはないんだけど、体が思うように動かない。
そう答えたかったのだが、口が勝手に動いているので、言葉を発することも出来ない。
どうやら、先程から視界が妙にぼやけると思っていたが、俺は今、盛大に泣いていると、自覚するに至る。
つまり、この状況は……。
「ひ、貧相な物ですが、よ、宜しければどうぞ。ツバサ様でしたら、幾らでも……。」
俺が事態を把握する間もなく、リリーは突然、服をはだけると、上半身を露わにした。
え!? ちょ、リリーさん!? いつからそんな大胆に!?
そう叫んだつもりだったが、それは声にはならなかった。
しかも、リリーは俺を抱きかかえると、その乳房に俺の口をあてがおうとした。
そんな目の前に飛び込んで来た控えめな双丘に、俺の体が勝手に反応する。
ああ、何か甘い匂いが……美味しそうな……って、ちょっと待てぇえ!?
そう精神力で乗り切ろうと全力で抵抗しようとしたが……そんな俺の意思とは関係なく、体は勝手に動いてしまった。
結果、羞恥心と、罪悪感と、多幸感を同時に感じながら、身体的に満足した俺は、強烈な眠気に引きずられ、その意識を失ったのだった。
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