ILIAD ~幻影の彼方~

夙多史

037 過去と現在と

 ――ここは……どこ?
 暗い闇の中にシャルンはいた。上も下も、右も左も、真っ暗な闇がどこまでも続いている。
 周りには誰もいない。声も聞こえない。
 わたし、一体どうなったの?
 真っ暗な闇の中に自分一人だけ。不安がだんだんと募ってくる。その時、一瞬目の前が真っ白になったと思うと、闇は消え去り、彼女はどこかの町の中に立っていた。ヴァルケンではない。もっと気候がよく、人が大勢いる町だ。
「うわっ! こいつ目が赤いぞ!?」
 すると、そう言う男の子の声が耳に響いてきた。自分のことか、と思ったがどうやら違うようだ。
 あれは……
 彼女の目に映ったものは、数人の子供たちに囲まれて泣いている、十歳にも満たないオレンジ色の髪をしたハーフの少女だった。
 あれは……わたし?
 それは、幼い時の自分の姿だった。過去に戻った――わけではないようだ。シャルンはようやく周りの人々に自分が見えてないことに気づいた。
 これは、わたしの記憶……ここは、わたしの心の世界……
「何だよこいつ、きもちわりぃな~」
 別の男の子が言う。彼女に怒りと憎しみ、それに悲しみが込み上げてくる。
「ほら、あっち行けよ!」
 また別の子がそう言って小石を投げた。それは幼いシャルンの額にあたり、皮膚が切れて血が流れた。
「こら! あなたたち何をしてるの!!」
 誰かの親と思われる女性がやってきて子供たちを叱りつけるが、幼いシャルンの瞳を見るなり仰天した。
「ハ、ハーフ!?」
 すると女性は一気に態度を豹変し、自分の子だと思われる男の子の手を引いた。
「うちの子に近寄らないでくれる! 穢らわしい!」
 そしてもの凄い形相で幼いシャルンを睨みつけ、子供たちを連れて去って行った。
「何で? どうして『はあふ』だといけないの……?」
 幼いシャルンは大粒の涙を零しながらそう呟いた。
 どうして? ハーフだからだ。それ以外に理由はない。ハーフはその存在自体が忌み嫌われるもの。同じハーフ以外に心を許してくれるものなんて……いない
 すると、また目の前が真っ白になり、場所が変わった。どこかの街道のようだ。夕暮れで、辺りに人はいない。
 そこへ一台の大きめの馬車がやってきた。もうすぐ夜になるというのに、どこに向かっているのだろう?
 だがシャルンにはこの光景に見覚えがあった。自分の記憶だから当たり前なのだが、その中でも特に強く残っている。
 これは、あの時の――ダメ! そっちに行っちゃ!
 聞こえないとわかっていても、シャルンは馬車に向かって叫んでしまった。これはあの悪夢の記憶だから……。
 辺りがもうだいぶ暗くなったとき、突如二頭いた馬が爆発し炎上した。馬車はバランスを崩し横倒しになって数十メートル地面を滑った。手綱を握っていた者は爆発に巻き込まれ、既に絶息しているだろう。
「ヒュー♪ タイミングバッチシ! さっすが俺!」
 木の影から出てきた金髪を逆立てた刺青の少年が、その惨状を見て楽しそうに笑っている。
 ゼース……
 シャルンに強い憎しみが込み上げてくる。
「う……一体何が……?」
 馬車の後部扉が開き、なんとか動ける男女が数人出てきた。それを見たゼースは一瞬驚き、そして口元に不敵な笑みを浮かべる。
「まだ動けるってことはちったあできるということだな。しかも、全員ハーフときた。ヘヘ、殺しがいがあるぜ」
 そう。あの馬車はエリエンタール家の馬車。これは十年前に彼女の家族が殺された時の記憶である。
 鮮血がほとばしる。実の兄のように思っていた人、実の姉のように慕っていた人が次々と殺されていく。
 みんな!
 この悪夢を見ていたくない。だが、目をつむってもこの映像は流れてくる。シャルンは悲鳴を上げたかった。
 義賊エリエンタール家はハーフだけが集まった集団。周りに血の繋がりがある人はほとんどいない。彼らは金持ちから盗んだ物を貧乏人なら種族を問わず分け与えていた。だから貧乏人にとって彼らはヒーローのようなものだった。だが彼らはそのヒーローが全員ハーフだということは知らなかった。
 開いた後部扉の割れた窓から外を見た九歳のシャルンは、その惨劇に全身が凍りついた。全員を殺し終えたゼースは、まだ生き残りはいないか、と馬車に向かって歩き始めた。幼いシャルンは金縛りにあったように動けない。
 だが、馬車に残った一人の男性が彼女を抱くように馬車の中に引き込んだ。それは――
 ――お父さん……
 である。彼女の父はこの集団のリーダーを務めているが、もちろん本当の父親ではない。
 彼は今の負傷した自分ではゼースに勝てないこともわかっていた。そこにいる母は、先程の転倒で自分を庇ったため動かなくなっている。
 一歩一歩ゼースが馬車に近づいてくる。
「シャルン、お前だけは生きろ!」
「いや! わたしも戦う!」
 と言っても、幼いシャルンはまだ戦う術を持っていない。父は額から血を流した顔で微笑むと、彼女に仕事で使う即効性の催眠ガスを吸わせた。急激に瞼が重くなり、意識が朦朧としてくる。
 彼は彼女を母の陰に毛布を被せて隠した。
「生きろシャルン。生きて本当の自分を見つけろ」
 それは薄れゆく意識の中、僅かに聞き取れた父の最後の言葉だった。
 ――また、漆黒の世界に戻った。
 わたしはあの後、お父さんがどのように殺されたのか知らない。気づいたら助けられ、どこかの家のベッドで横になっていた。他の種族を嫌うようになったのもそのときから。
 その家にはアルヴィディアンの老夫婦が住んでいて、今思えばハーフの自分を受け入れてくれた初めての人だっただろう。
 だけど、わたしはその家を飛び出した。敵を討つため、わたしから全てを奪ったあいつを殺すために……
 結局、飛び出したところで幼い、しかもハーフの自分が堂々と人前で生きていくことなどできるわけがない。残飯を漁り、時には盗みをし、ゼースを殺すという生への執着心が彼女を生かした。また、強くなろうともした。霊術の才能はもともとあったので、それを鍛え、気づけばどこで手に入れたのか忘れたトンファーを握っていた。
 あの老夫婦以来、自分を受け入れてくれた人はいない。避けられ、バカにされ、石を投げられ、意味もなく殺されそうになったこともある。
 憎かった。周りの人間全てが。それは今でも変わらない。
 憎い、憎い、憎い。あんなできれば忘れてしまいたい忌まわしい記憶を見て、シャルンの一度は解けかけた心がまた凍りつこうとしていた。闇がさらに濃くなっていく。
『……シャルン』
 その時、誰かが呟いたような声が聞こえた。
「シャルン!」
 気のせいじゃない……これはソテラの声!?
 また、目の前が真っ白になって、次に映ったものはどこかの町の裏道を走る自分の姿だった。
 また悪い記憶? いや違う、これは……
 その風景は憎しみに隠され、忘れかけていた記憶だった。
 もう十四歳になった自分がパンを抱え、後ろから追ってくる職人の男から逃げている。捕まって、ハーフだとわかったら殺されるかもしれない。彼女は必死で足を動かした。そして曲がり角を曲がった途端、衝撃が体に走った。誰かとぶつかった。シャルンは尻餅をついたが、相手はなんとかバランスを保ち立っていた。藍色の髪を耳に掛からない程度に刈ったシャルンより少し年上と思われるその少女は――
 ソテラ!
 に間違いない。
「大丈夫か?」
 彼女の細い腕が延びる。シャルンは警戒し、その腕を払って立ち上がった。しかし、目深に被った帽子の中の瞳を見て目を疑った。
「ハーフ!? わたしと同じ……」
 するとソテラはシャルンがハーフであること、ボロボロでパンを持って逃げていること、後ろから駆けてくる足音がだんだんと近づいていることで、シャルンが何をしたのか悟り、彼女の手を強引に掴んで、
「こっち!」
 と言って、すぐ傍の誰も住んでいない廃れた家の中へ放り込むように入れた。そしてソテラは外に出たまま、追いかけてきた男と不自然に見えないようにぶつかり、わざとらしく尻餅をついた。
「きゃっ!」
 弱々しい悲鳴を上げてみせる。
「だ、大丈夫か譲ちゃん!?」すまなさそうに男が訊く。「さっきここを曲がったハーフの女を見なかったか?」
「パンを抱えてた子ですか? ハーフだったんですね。彼女なら十字路を右に行きましたよ」
「ありがとう!」
 男は何の疑いも見せずソテラの教えた嘘の方向へ走って行った。帽子を目深に被り、尻餅をついて顔を相手より低い位置にすることで、彼女はハーフだとバレないようにしていた。当然バレてはいないが、嘘はすぐにバレるかもしれない。ソテラは家の中で呆然と座り込んでいたシャルンに言う。
「早くここを離れましょ!」
 これがわたしとソテラの初めての出会い。もう忘れかけていたけど、このとき孤独ひとりだった自分に仲間ができて本当に嬉しかった。
 でも、ソテラはもういない……わたしはまた孤独……
 闇が落ちた。その時――
『まあ、あんまり思いつめるなよ、シャルン。仲良くいこうぜ♪』
 なぜかアランの言葉が頭を過ぎった。
『俺らは仲間だろ?』
 サンデルクの港での言葉、孤独だったシャルンにとってそれは、あの時はあんな風に言ってしまったが、強く心に刻まれた言葉だった。
『ここには……他にも仲間がいるだろ? セトルたちなら……わたしたちハーフでも……助けようとしてくれた彼らなら……。シャルン、もっと周りに心を許せ……世界には……ハーフわたしたちを嫌っている人ばかりじゃ……ない。わたしは……それを教えたかった』
 ソテラの死に際の言葉も蘇ってきた。
 そうか、ソテラにはわかっていたんだ。自分を犠牲にしてまで彼女はそのことを伝えたかったのだ。エリエンタール家でもない彼女がどうしてそこまでしてくれたのか、シャルンにはわからなかった。だが――
 わたしもようやくわかったような気がする。今のわたしには、まだ仲間がいることを……
 闇に一点の光が差した。それは彼女の心の変化。サヴィトゥードの負の念を取り払える心の強さ。彼女はその光に向かって駆けだした。
 憎しみは消えないけど、わたしはもう前を向ける。だからこんな闇になんか……負けたりはしない!!

        ✝ ✝ ✝

 感情の片鱗も見せなかったシャルンの目から涙が零れたのを、しぐれは見落とさなかった。
「シャルン、泣いてるやん……苦しんでるんや」
 彼女を羽交い絞めにしているウェスターも、ふむ、と呟く。
「恐らく彼女はサヴィトゥードと戦っているのでしょう。この精神力、流石ですね……」
 シャルンは女性とは思えないもの凄い力でウェスターを振り払う。体の方は完全に支配されている。精神がブレーキをかけているからこの程度なのだろう。サヴィトゥードの恐ろしさをしぐれは実感せずにはいられなかった。
 セトルたちはルイスに邪魔され、まだサヴィトゥードを奪えないでいる。セトルは強く踏み込んで横薙ぎに一閃、さらに一閃するが、全くあたらない。彼の攻撃は全て紙一重で躱されている。だからルイスに隙が生じない。逆にセトルに攻撃の隙ができてしまう。アランはセトルが戦っている間にルイスの脇を抜けようと全力疾走を試みるが、目の前に大剣が振り下ろされ制される。ルイスの戦い方はこちらを傷つけるといったものではない。時間稼ぎ、そういった戦い方だ。その証拠に、彼は隙ができても一度も反撃していない。
「フフ、もう少し……流石にノルティアンの血が流れている分、時間がかかっていますが、ハーフをものにできれば我々の計画も大幅に前進する」
 セトルたちから十分距離をとった安全地帯で、ロアードは不敵な笑みを浮かべている。サヴィトゥードで操れる時間は、実は無制限である。といっても使用者の精神が続く限りだが。
「最後の封印はハーフの力がないと解けませんからね――!?」
 微かだが、ピキッ、という音がサヴィトゥードから響いたのをロアードは聞いた。見るとサヴィトゥーにまだ僅かだが罅が入っている。
(バカな!? 凝縮霊核光線でも破壊できないサヴィトゥードがなぜ!?)
 と思っていたのも束の間、最初の罅を引き金に次々とサヴィトゥードに亀裂が入っていく。
 次の瞬間――
 ――パリン!
 ガラスのコップを落として割ったような音と共に、サヴィトゥードは粉々に砕けてしまった。ロアードの表情に焦りが生じる。同時にシャルンが操り人形の糸が切れたように倒れた。
 ルイスはそれに気づき、隙を見せてしまった。もちろんセトルはそのチャンスを見逃さない。ルイスの懐に飛び込み、彼の肩から脇腹にかけて剣を滑らせ対角線を描いた――ように見えたが鮮血が飛び散らない。ルイスは咄嗟に大剣を盾にし、セトルの剣はルイスの大剣の腹を滑っただけだった。ルイスはセトルを弾くと、後ろに跳び退る。
「どうした?」
 セトルたちから目を反らさずにルイスは訊く。
「あのハーフの娘の精神力を侮ってました……まさか身体を操られた状態でサヴィトゥードに打ち勝つとは……」
 ロアードはシャルンを睨むような形で見た。
 セトルたちが彼女に駆け寄ったときにはまだ彼女に意識が残っていたが、やった、と囁くとすぐに気を失ってしまった。無理もない、とセトルは思った。
「かなり衰弱してる……一応、治癒術をかけてみるわ」
 サニーがファーストエイドを唱える。ウェスターは彼女の安否を確認するとロアードたちの方を向いた。
「さあ、どうします? サヴィトゥードは破壊されました。もうあなたの言う実験はできません!」
 ギリッ、とロアードは微かに歯ぎしりを立てる。そして体を翻し、
「退きますよ、ルイス! まだ手がないわけではありません」
 と言って引き上げようとする。ルイスも黙ってそれに従った。
「ま、待て! お前らの目的は何だ! 人種戦争レイシェルウォーを起こすことか?」
 叫ぶようにアランが訊くと、ロアードは立ち止り、顔を半分だけこちらに向けた。
人種戦争レイシェルウォー? あの方はそんなものを起こす気はありませんよ。古霊子核兵器スピリアスアーティファクトを使ったもっとすばらしいことです」
「それは?」
 セトルが問う。だが彼らはそれ以上喋らず、砂の巻き上がる風の中に消えていった。セトルとしぐれは追おうとしたが、ウェスターに呼び止められる。
「今はシャルンの方が先です。早く宿に向かった方がいいでしょう」

        ✝ ✝ ✝

「――ん……」
 シャルンは目が開くと、そこは宿のベッドの上だった。
(そうか、わたしはあの後……)
 上半身だけ起こし、彼女は窓の外を見上げた。冷たい乾いた空気が窓の隙間から流れ込んできた。今はもう夜で、部屋の中も薄暗く、静かで、そして寒い。窓のからは満天の澄んだ星空が見える。時々吹きつける強い風が、その窓をガタガタと音を立たせる。
 シャルンは身震いすると、とりあえずカーテンを閉めた。星明りが消える。だんだんと夜目が効いてくる。すると周りに皆の姿があることに気がついた。ただ、ウェスターだけは居ない。理由はわかる。奴らが夜襲してくることも考えられるので、その見張りといったとこだろう。
 皆、よく眠っている。砂漠越えのあとにあんなことがあったのだ。当たり前である。セトルは胡坐をかいて壁に寄りかかるようにして静かに眠っており、その隣でしぐれが、すーすーとリズミカルな寝息を立てている。治療をしていてくれたのだろう、サニーがこのベッドの端に腕を置き、それを枕にしている。皆、毛布を被っているが、それは誰かがあとからかけたような跡があった。
「目が覚めたみたいだな」
 腕を組み、シャルンの後ろの壁に凭れるようにしてアランは立っていた。
「アラン……」
 シャルンは体を捻るようにして彼の方を向いた。
「もう少し寝てろよ。俺たちの中で一番疲れてんのはお前だろ?」
 アランの優しさが感じられた。今までもこんな風に話してくれてはいたが、こんなにはっきりとは感じることはできなかった。
「あなたは寝ないの?」
「バッカ、俺は見張りだ。ウェスターが外、俺が中。まあ、そろそろ交代の時間だからセトルを起こす準備でもするか」
 やはりウェスターは見張りで合っていた。普段は野宿でもなければこんなことはしないのだが、今日は仕方ない。
「準備?」
「ああ、どういう風に起こしたら面白いか考えることだ♪」
 薄暗闇の中でアランは意地悪そうな笑みを浮かべる。
「……いやな性格ね」
「それほどでも♪」
 褒めてない、とシャルンは言わず、クスッと微笑した。この中に居ると、不思議と自分がハーフであるということを忘れてしまいそうな居心地の良さがあることに、彼女はようやく気づく。
「よし、この手でいってみるか!」
 何かを思いついたのだろう。アランは静かに手を叩くとセトルの方に向かって歩き始めた。途中で振りかえり、お前は寝てろよ、と潜めた声で言う。
 言われた通りシャルンは布団に入り、目を閉じた。そのあとでセトルの小さな悲鳴が聞こえた。何をされたのか少し興味があったが、今は眠ることにした。
 今、わたしはもう、孤独じゃない――。

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