乙女よ。その扉を開け

雪桃

神の詔

 一時間前。先程まで乱闘が繰り広げられていた場所には一人の女が耳を塞ぎながら床に伏していた。その目に光は灯っていない。ただ生理的に涙を流し、口を動かして聞こえない声を何度も出す。その姿はさながら壊れた人形のようだ。

 里奈と名を変えたのは一種の拒絶だったのかもしれない。里子を消すと同時に殺されてしまった雄介も豹変し、敵となってしまった舞姫も、何もかも捨てて真っ白な世界へ行きたいと願った自分が無意識に作り上げた架空の人間。理想。里子にとって救いの手を差し伸べてくれる教祖だったのかもしれない。

 だがそう思ったとしても結末が変わりはしない。結局里奈は負け、代償が里子に回ってきた。既に里奈の脳内では争うことなどどうでも良くなっていた。ただこのまま悪夢を見ることなく、力尽きて果ててしまえれば。里奈はそう願っていた。

『何も遺さずして死ぬ気?』

 頭の中で若い娘の声が響く。耳は塞いでいるはず。里奈が視線を上げると黒のローファーが目に入る。首を少し上げれば見覚えのない制服を着た、紫であって雰囲気は似ていない。そんな娘が目の前にいた。
 彼女は眉を寄せ、不機嫌そうな表情を里奈に見せている。

『見苦しい。それで紫を守ろうとしてたなんて。私の認めたあなたはそんなんじゃなかったのに』

 どこかで会ったことがあるだろうか。思い出そうとするもあと一歩というところでもやがかかってしまう。

(……でも誰だっていい。どうせこの子だって私を貶してくるだけ。もうどうでもいい)

 正気を取り戻し始めた目はまたすぐに色を失っていく。だが彼女は尚も脳内に話しかけてくる。

『あなたが今まで生きてきた百年は何の為だったの。魔姫に負け、仲間に責められながら発狂死する為? それだったら心を込めて言ってあげるわ。最低ね。あなたも、あなたに従っていた奴らも』

 里奈の手が小さく動く。

『探偵も人助けも名ばかり。こうやって誰かの助けを待ち泣き喚く偽善者。これじゃあまるで体だけ大きくなっただけの子ども。こんな所に連れてこられた奴らも同罪。あんた達がやってたことは対等な戦争じゃなくて負け犬の遠吠え。全く、紫をここに任せたのが悪かったのかしら』
「……なに」
『紫を独りにはさせないだとか言ってたわね。何年も人を不幸にしてきた殺人鬼が何を言ってるんだか。自分がこうなりたかったっていう願望の押しつけ。他もそう。虐待されたり無視されたり。紫が可哀想』

 里奈の震え始めた手に力が入る。それは徐々に拳となっていく。

『そういえばあなた。紫と初めて会った時からあの子を何度か特別扱いしてたわね。漢字は違えど同姓同名で顔も殆ど似ていたから生き写しとでも思ったの』

 急に立ち上がった里奈は拳を彼女に向かって振り下ろす。だがその拳が彼女に当たることはなく、里奈はまたしても地に倒れ伏してしまう。

『……言い忘れてたけどこれは幽体だから触れられないわよ』

 自分に筒抜けしながら倒れた里奈の背中に向かって言う。

『それより何。急にやる気出して』
「……て。やめて。私の家族を侮辱しないで」
『今更何を言う。善人ぶるのも大概に……』
「偽善者よ。元から分かってた。百年前からじゃない。私はお姉様を生かしたいと死を選んだ。でもそれは違った。お姉様を生かしたいのではなく自分が生きるのに疲れたから』

 右に左によろめきながら里奈は立ち上がる。

「ずっと心のどこかでもう疲れた、死にたいと思ってた。その度に私は良いことをしている善人だと言い聞かせて生きてきた。あなたの言う通り、私は大嘘つきの偽善者よ」
『それで? 開き直っても結果は一緒なんでしょ』

 里奈は振り返らずに限界の体を引きずって魔姫のいる方向へ歩く。

「偽善者として死ぬ。内臓が破裂しようが四肢がもげようがゆかを返してもらう」

 彼女はしばらくそこでゆっくりと歩く里奈の様子を見る。
 里奈は黒獣に噛まれ、裂かれた脇腹を押さえる。血は既に止まっているが発狂した時の疲労と急に動き出した反動で傷口は広がっていく。

『待ちなさい』

 彼女が呼び止めるが里奈は歩を進める。一度止まってしまえばきっと里奈の意志は消えてしまうから。

『そんな状態で挑んだって話し終わる前に死ぬわよ』

 手を引いて止めれば話ができるかもしれないが、幽体が生身の人間に触れるわけがない。嫌々ながらも彼女は強硬手段に出た。

『私なら紫を生き返らすことができるわ』

 里奈の足が止まる。

『生き返らせるだけじゃない。その魂を元の体に戻すこともできる。縁や舞姫と共に』

 そんな上手い話があるものか。大体そんなことをしてお前に何の利益がある。

 里奈には疑問など一切浮かんでこなかった。ただ無意識に自分の珠を彼女に押しつけていた。

『……この力は異能者の魔力全てを使う。死ぬわよ?』
「死なんてどうでもいい! ゆかを……紫をこの手で救いたい。命に代えてでも」

 少しの沈黙の後、彼女は里奈の珠を受け取った。共に里奈の瞳から光が無くなっていく。そのまま里奈は何に抗うこともなく逝った。

 どこからか石が割れたような音がする。懐中時計の白く光っていた石がひび割れたのだ。

『……時を操る神よ』

 彼女は瞼を静かに下ろし、珠を両手のひらに持ち上げる。

たまを以て、ここに調律を開始せんことを』

 呪文を唱え終わると珠は白く強い光を出し始めた。

 数秒の後、珠は光を収め、床に落ち、割れた。そこに彼女はいなかった。

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